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単なる善良さはたいして役に立たぬ

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 幸福についての複合的見方であれ、主知主義的見方であれ、アリストテレスはそのいずれかを完全に受け入れることにはためらいを感じているように思われるが、これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず、したがって人間の幸福の本質について不確かなままであったことからくる、と解釈できよう。アヴェロエスの場合、われわれは何であり、われわれの働きは何であるのか、を知る上で問題はもっと少ない。というのは、このことはイスラムによってある程度示されており、そして事実すべての信仰がそうなのである。
 しかし、彼は人々が幸福に至りうるさまざまな道を記述するのに、アリストテレスとは違う説明を用いる。この区別が必要なのは、人々がその能力や関心において異なるからである。たしかに、シャリーアの優れた点の一つは、誰にもその人に最もふさわしい形で幸福に至ることを可能にしている、というじじつのなかにあると考えられている。したがって。誰も内的能力の故に幸福を奪われていることはないのである--ある宗教において、その創造主が被造物をさまざまに創った結果、ある人だけが幸福になりえて他の人々がそうではないということになれば、それこそ問題であろう。
 アヴェロエスはこの点でプラトンを非難し、プラトンによる社会の説明では、国家の三階級のうち、守護者たちと哲学者たちの二階級だけしか論じられていない、と主張する。国家の法は理論的知識に基づいた幸福をエリートだけのために用意しているのに対し、シャリーアは全人類に--彼らがすべてムスリムである限り--幸福を保証している。この解釈によれば、プラトンのモデルは社会の一部に限定され、したがって政治的実在の一般的説明としては不満足なことになる。イスラム哲学者はこの批判を採用し、イスラムは社会全体をカヴァーするように、プラトンを満足のいくように変容することができたのである。なぜなら、啓示されたイスラムの真理は、それに対応する幸福と共に、すべての人に等しく開かれているからである。
    --オリヴァー・リーマン(中村廣治郎訳)『イスラム哲学への扉 理性と啓示をめぐって』ちくま学芸文庫、2002年。

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春先からさやさやとイスラム哲学、宗教思想に関する文献を定期的にひもとくようになりましたが、その濃厚なアリストテレス理解には驚くばかりです。

ご存じの通り、ローマ帝国崩壊後、アリストテレス(Aristotle,B.C.384-B.C.322)の哲学・思想がまとまったかたちで探究されたのは、当の西洋ではなく、バクダッドをはじめとするイスラーム世界であるわけなのですが……西洋に再輸入されるのは中世後半からですが……、往時をしのばせるアリストテレスの学説とイスラーム神学との対話に耳を傾けてみると発見することが多く、毎度ながらうならされております。

当然、酒を呑みながら、うならされているわけですが……それはひとまずおき、たしかに引用した文献にみられるように、アリストテレスの議論には「これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず、したがって人間の幸福の本質について不確かなままであったことからくる、と解釈できよう」というふしが多々存在します。

たしかにアリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、最高善とは何かを議論するなかで幸福であるというひとつの結論を提示しますが、当の最高善とは観照(テオリア)的生活(=真理を覚知する生活)であると論じてはおりますものの、その内実に関しては一切踏み込んでおりません。

既に何度か確認したところですが、最高善を保管するひとつの契機としての正義論に関しても、友愛(フィリア)の感覚が人と人との間に存在するならば、形而上的正義論は不要だとアリストテレスは論じておりますが、大胆だよなと思うばかりです。

天空のイデア界に汚れ無き完成されたモデルネを模索・願望しつづけた師匠・プラトン(Plato、BC.427-BC.347)とは裏腹に、大地に指を差しつつ、真理なるものは現実に内在すると説いたアリストテレスの学風を彷彿させる発想だとおもわれるわけですが、たしかに、現実の個物に注目しつつ、超越的なる概念を探究していくならば、簡単に「これは人間とは本当は何であるのか、ということについて彼が結論を下しえず」というのはすこぶる納得する次第です。

定義論的ファイナル・アンサーを模索したのがプラトンであるとすれば、そのファイナル・アンサーへの道程を示したがアリストテレスかもしれません。

昇っていく枠組みを確認しながら、その当人、すなわち個別存在者がその仕方において還元不可能な固有な仕方で在りつつも、普遍性へのつながりをうしなわないあり方の提示がアリストテレスの営みであり、そこになにかプラトンよりも親近感を覚えてしまう宇治家参去です。

昨年は研究所での輪読でスペイン・コルドバ生まれのイスラム神学者・哲学者イブン=ルシュド(Abu Al-Walid Muhammad Ibn Ahmad Ibn Rushd、ラテン名:Averroes,1126- 1198)の文献を独仏羅で読んでおりましたが、このところなかなか忙しく参加できないところが残念というか……忙しさを理由に、自分自身の選択肢の展開させる契機を自分で潰していることが残念なのですが、すこし状況がおちつけば真正面からとりくんでいきたいところです。

ちなみにこのイブン=ルシュドの業績がラテン訳され、中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学の興隆につながるわけですから、なかなか捨てたものではありません。

……ということで?

月曜は大学での講義があり、その日は、非暴力主義について講義してきましたが、この辺が実にむずかしいですね。

理念を現実に取り込んでいくといいますか、内在化させていくとでもいいかますか……しかし人間はその努力を怠ってはいけないのだろうと思う次第です。

アリストテレスの如く、定義づけはできません。
しかし、かすかな光明にして眼前にまぶしく光り輝く光明に近づいていく努力は手放してはいけないのかもしれません。

で……?
感覚とか理論として非暴力主義の真実性を理解することは容易です。
しかし、それを現実生活に適用させると、そこから脱落していくことが容易です。

なぜならば、時間がかかるからです。

学生さんたちの反応もそうした実感がありありと伺えました。

しかし、時間がかかるけれども本源的改革というものはそうした忍耐が要求されるものなのでしょう。

そしてそこでいう忍耐とは諦念としての忍耐ではなく、変革を覚知した決意としての忍耐なのだと思われて他なりません。それこそがアラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)のいう「意志」としての楽観主義かもしれません。

そして“わたしはそこなしの楽観主義者だ”と自認したのはガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869-1948)です。
ガンジーにおいてはアランよりも一段と高く「意志」の問題以上に「真理」論としての楽観主義者としてあったのだろうと偲ばれます。

しかしそこでおもしろい現実があります。
すなわち、ガンジーはその仕込において重々・念入りに組み立てていったということです。

仕込を重々・念入りに組み立てることを嫌悪するのが急進主義的アプローチかもしれません。そしてその青写真は妄想に産物にほかならず、現実への適用を不可能なのでしょう。

だからこそ次のような言葉が出てくるのかも知れません。

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善良さには知識が伴っていなければならない。単なる善良さはたいして役に立たぬ。人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければならない」という言葉にもよく表れております。
    --ガンジー(K・クリパラーニー編・古賀勝郎訳)『抵抗するな・屈服するな ガンジー語録』朝日新聞社、1970年。

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さっ、勉強しよう勉強!
善良さや強さは、賢明さの裏付けがあってこそ十全な力を発揮できるから!

しかし、その前に寝るか!
既に飲んでいて、いつも支離滅裂な宇治家参去でした。

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