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智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるもの

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 哲学者というものは、第一に自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである。それ故に、彼が哲学者であるならば、彼は、この関係の中においても、哲学者であられなばならぬであろう。私の考えるところでは、彼が、隠者として、峻厳に、他の人間から離れ去って行った場合でも、そのことによって、彼は、一つの教えを、一つの模範を、垂れているのであって、したがって、他者に対しても哲学者なのである。彼が、己れの欲するがままに、どんな振舞いをしようと、そんなことはかまわない。ともかく、彼の哲学者という存在には、人間に向けられた一面があるのである。
 哲学者の制作するものは、(彼の著作に先立って、何よりもまず)彼の生活である。それこそが、彼の芸術作品である。すべて芸術作品というものは、第一に芸術家に、第二には他の人間に、向けられたものなのである。--
 哲学者が、哲学者でない人々や他の哲学者たちに対して及ぼす効果とは、どのようなものであろうか?
 国家、社会、諸々の宗教等々は、皆、問うことができる。一体哲学は、これまで、われわれに対して、何かを貢献してくれたであろうか? と。哲学は、現在、われわれに対して、何かを貢献してくれることができるであろうか? そのようにまた、文化も問い得る。
 哲学一般の文化に及ぼす効果如何の問題。
 文化の解釈--現在一つの旋律を演奏させている、多くの、根源的に敵対的な、諸々の力の、調律ないし、調子としての、文化の解釈。

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 智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるものだ、ということである。それ故、智慧は、時代に適うものではないのである。智慧の意図することは、人間をあらゆる運命の打撃に対して直ちに確乎たる姿勢をとらせ、あらゆる時代に対して武装させること、これである。それは、国民的色彩などほとんどないものである。
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)『哲学者の書』ちくま学芸文庫、1994年。

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もっとも誤解と誤読が多いのがニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の著作かもしれません。

ニヒリズムを超克する方途の探究であったものが、ニヒリズムの主張と受けられ、その超克する方途の探究であった「超人」という概念が、凡俗を唾棄してしまう国家社会主義的“指導”原理として受容されてしまうなど、その受容史を振り返ってみますと、概括的速読ほど恐ろしいものはないと思われて他なりません。

思うに、おそらく、ニーチェが生きていたならば、ニーチェを担ぎ上げようとするニーチアンの姿こそ唾棄すべき対象なのでしょう。

現実世界との応対関係のなかで、丁寧にじっくりと活字と向かい合い、ニーチェの息吹にふれていくほかありません。

3月下旬から、ふと思い立ちニーチェを再読しております。
もちろん、論文にしようとか、なにか学的批評としてまとめようという目的ではなく、ペダンティックな読み方に過ぎないといわれてしまうとそれまでなのですが、読んでいて驚くことが一点あります。

すなわち、それは、

ニーチェは「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」や「魔術的呪文」を一切唱えていないと言う点です。

もちろん、ニーチェ独特の神懸かった言い回しとか、文体としてのアフォリズムに翻弄されてしまう側面は厳として存在しますが、そこになんども登攀していくと、「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」とか「魔術的呪文」を一切唱えていないところに到達してしまいます。

「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」や「魔術的呪文」を一切唱えていないと言うこととはなにでしょうか。

すなわち、「あたりまえ」のことしか語っていないということです。

しかしこの「あたりまえ」のことが実は難点なんです。

「あたりまえ」だからこそ認識できにくいものなんです。
「あたりまえ」だからこそ「今、考えるに値しない」とか「言われて無くてもわかっているわい!」てなわけで、深く自分自身の問題として「あたりまえ」を直視することなくスルーしてしまい、結局は「あたりまえ」の判断を為さずに状況が進行していく……それがその実情かも知れません。

人間というのは不思議なもので「あたりまえ」のことほど耳にいたいものはありません。
しかし「あたりまえ」であるならばこそ、その「あたりまえ」のことに対して真摯に足下を掘っていくしかないのでしょう。

こうした「あたりまえ」という省察に関してひとはそれをスルーしてしまうようになってしまうと、どうしてもその対極にある「特別なこと」や「奇を衒うようなこと」とか「魔術的呪文」になにか特効薬を見出してしまうのかも知れません。

何も特別なことをニーチェは語ってはおりません。
しかし、何も特別なことは世界には必要ではありません。
特別ではない「あたりまえ」のことにこそ「特効薬」はあるわけですから……。

そうしたことをここ数日よく直面させられております。

なにが大切でなにが必要なのか。
雰囲気とかブームとか手法によらない「あたりまえ」に耳を傾けていかない限り、その当人の生活のみならず、政治も経済も、そして思想も、十全に「人間のために」という言説としては発動しないのだと思います。

人間とは何かといった場合、実はコレきわめて教科書的な定義の問題ではありません。ニーチェが「 哲学者というものは、第一に自分自身に対し、第二には他者に対して、存在している。全く孤立して自分自身だけで存在しているということは、不可能なことである。何故なら、彼は、人間である以上、他の人間への関係をもっているからである。それ故に、彼が哲学者であるならば、彼は、この関係の中においても、哲学者であられなばならぬであろう」と語っているとおりでありまして、極めて即自的且つ対他的な「あり方」の問題にほかなりません。

それをなにかできあがった一定の準拠にのみ依拠してしまうと、他者を分断するばかりか最終的には分断してしまう主体としての自分自身をも分断してしまうのでしょう。

アトム的な個人も必要在りません。そしてその対極にある、人間を「ネジ」ととらえる共同体主義も必要ではありません。

必要なのは、生きている自分自身の課題として、分断されたあり方ではなく世界と繋がった自分自身の「生」の問題として捉え直していくことができるのか、そこを現代世界では試されているのではないだろうか……そう思われて他なりません。

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智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるものだ、ということである。それ故、智慧は、時代に適うものではないのである。智慧の意図することは、人間をあらゆる運命の打撃に対して直ちに確乎たる姿勢をとらせ、あらゆる時代に対して武装させること、これである。それは、国民的色彩などほとんどないものである。
    --ニーチェ、前掲書。

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天文学的数値で変貌をつづける現代世界は、まさに考える暇を与えてはくれません。
しかし少しばかりの思索の暇を丁寧に保持しつつ、「あたりまえ」だから「言う」「必要はない」というよりも、「あたりまえ」なことだからこそ「声」を「大」にして叫ばなければならないのかもしれません。

「あたりまえ」って実は大切なんですヨ。

「お前にいわれなくっても“わかっている”」……っていう言い方は実は何も知らないネンネかも知れません。

「智慧というもののもつ最も重要な要素は、それこそが、人間をして、瞬間による支配から離脱せしめるもの」ですから、生きている生活実感との応対関係から抽出される「あたりまえ」とされるものことの叫びに耳を傾けないあり方というのは、「瞬間による支配から離脱」されない籠絡の渦中でぐるぐるまわりなのでしょう。

……ということで?
本昼より怒濤の市井の職場の連勤がはじまりますが、例の如く?……午前中は、ちと世田谷近辺にて所用の外出があり、はやく寝ないといけないので、蒸し暑くて蒸されすぎた体をほぐすために、きんきんに冷えたビールを鯨飲しつつ、紫煙をくゆらせつつ寝ますワ。

「あたりまえ」続きで恐縮ですが、タバコは、ライター……オイル・ガス両方含む……でやるよりも、マッチでやる方が実はかなり旨いんです。

不思議といえば不思議ですが、当たり前といえば当たり前というのはこのことなのでしょう。

オイルでやると油臭く、ガスでやると揮発臭いのですが、マッチの優しい燐の匂いが味わいを増幅させてしまうようですね!

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