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人間は素晴らしいものである。と同時に人間は恐ろしいものである。

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 毎日、朝食を八時半頃にとる。小説家という仕事なので夜が遅いからだ。
 ニュースのかわりにテレビのモーニング・ショーを朝食をとりながら見る。平生は私にとっては余り興味のない芸能人の話題のかわりにこの頃は幼女を誘拐して殺害したM容疑者のことばかりを、どの局でも必ずやっている。
 朝食の時にはふさわしくない話題である。ほかのチャンネルをまわすとやはり同じニュースか、あるいは事故、殺人など聞くのも辛い話題ばかりだ。
 これは私だけではないらしく、
 「あのニュースをみるのが不快でならないので、すぐテレビを切ってしまう」
 という友人が二、三人いた。
 陰湿な夏の、陰湿な事件だけに見たくないという気持ちは、誰にもあるのだろう。
 だが今度のニュースにややホッとしたことがある。
 あれほど容疑者について鵜の目、鷹の目で何でもほじくりだすマスコミが、M容疑者の妹たちについてはほとんど何も語っていないことだ。
 これはとても良いことだと思う。
 私は事件のものすごさを知るにつれ、子を失った被害者の親たちの苦しみ、悲しみ、如何(いか)ばかりかと同情にたえなかったが、同時にM容疑者の両親や妹たちの辛い心にも同情をした。
 もしマスコミがついで半分にこの妹さんたちについても書いたりニュースに流せば彼女たちの将来は滅茶苦茶な打撃をうけるにちがいない。
 妹さんたちはこのM容疑者の犯罪とは関係がない。
 だから我々は彼女たちのことを知らんふりをしてやるべきであり、その生涯にうしろ指をさすようなことをするのは、あまりに可哀想だと思う。
 被害者の幼女たちとその親の心の深傷(ふかで)を考えると泪(なみだ)を禁じえないが、しかし容疑者の妹たちも大きな打撃を今うけている筈である。
 今の日本の社会のなかでは、M容疑者の犯した事が犯した事だけに妹さんたちまで白眼視することがないとは言えぬ。彼女たちが職場で変な眼で見られないとも限らない。
 それだけに当人たちは、どんなに悲しいだろう。おそらく一生を息をこらして生きていくつもりかもしれぬ。
 だから我々はこの妹さんたちをそっとしておいてあげよう。彼女たちがその職場で気づかれずに働けるように、まだ縁談にさし障りがないように、ジャーナリズムも黙っていてあげてほしい。
 幸いなことに(私の知る限り)、マスコミは彼女たちをテレビに出したり、談話をとろうとしなかった(一度だけ、M容疑者の母親がマイクの質問に答えていたが)。このマスコミのやりかたが、いつものあこぎな姿勢とはちがっているので私など「なかなか思いやりがあるなあ」と感心をしたものだ。願わくは今後もこの方針をづっと続けてほしい。
 M容疑者についての感想もテレビを見ていると、まるで自分たちと違う特別な人間のように論じている人が多い。
 しかし戦争中、中国人捕虜を同じようにあつかった人たちは我々の周りにたくさんいるのだ。言いかえるならば我々人間のなかには、同じような要素がないとは決して言えないのだ。
 人間は素晴らしいものである。と同時に人間は恐ろしいものである。
 我々があの事件をみて不快なのは、人間のなかの恐ろしさを直視するのが不快だからだ。
    --遠藤周作「人間直視の不快」、『変わるものと変わらぬもの』文春文庫、1993年。

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遠藤周作(1923-1996)のエッセーを読み直しながら、そしてそのエッセーの根底には『海と毒薬』(1958)で示された日本の精神風土の問題も射程としては秘められているなアなどとひとりごちながら、ひとしきり情報倫理の問題に頭を悩ます宇治家参去です。

情報倫理の根幹に存在する問題とは何かといえば、手っ取り早く言えばそれはまさに人間の問題ということに収斂していくと思います。そしてくどいようですが、その問題は情報倫理に限定される問題のみならず、人間のあり方を規定する倫理の問題と等しく重なる部分です。

人間とは何か。
そして人間はどうあったほうがよいのか。
そしてその人間は、即自と等しき対自なる他者としての人間とどのようなありかたであったほうがよいのか。

そこを探究するのが倫理(学)ということになりますから、つと人間の問題に収斂して行かざるを得ません。

さて……
情報倫理において主題となるのは、まさに情報を扱う上で必要とされる倫理=あり方のことになりますが、テクニカルな議論としては、著作権をはじめとする知的財産権、プライバシー権の取扱い方や情報通信を利用する際のマナーがその主題となります。

まさに知的財産をめぐってどのように取り扱うのか。
公人と私人におけるプライバシーの問題をどのように取扱い表現するか。

そういった議論が盛んになされます。
そしてそこから価値ある取りきめとかルールといったものが提示されるわけですが、それだけが情報倫理ではりませんから、ひろく言えば、情報モラル、情報マナー、すなわち情報と向かい合う人間がどのようにその対象と関係を結んでいくのかということがその主題となるといってよいでしょう。

対象としての情報に注目した場合、活字の場合であれ、映像であれ、音声であれ、そしてデジタルデータであったとしても、それは具体的な人間のにおひからかけ離れた「データ」としての側面が強いことはどうしても否めません。

だからこそ、この人間世界において活字や映像や音声やデジタルデータetcなる対象をどのように扱っていくのか……ということがまさに議論になりますが、前述した通りどうしても実体を欠いた「データ」としての感覚を否定することはできません。

しかし、その感覚の背後には何が存在するのでしょうか。

冷静になって考えてみればわかるとおり、データを発信し・受信し・そしてそのあり方を模索する人間がかならず存在するわけで、そこを感覚に流されて看過しがちなのが現実かもしれません。

わすれてはいけないのは、流通形態・媒介としては実体を欠いた感覚的な「データ」に紛動されがちなのですが、その背後には必ず「人間」が存在するということ。

その問題を看過してしまうと、感覚的な「データ」が実に一人歩きしてしまうのかもしれません。

さて冒頭……。
有名な事件に関する遠藤の肉声といってよいでしょう。
しかし、それから20年近く過ぎた現在を概観してみるとどうでしょうか。
さらに問題ある方向性へ傾いているのが現実かもしれません。

大雑把な問題の立て分けで恐縮ですが、一方に事実の脚色、そして捏造さえいとわないワイドショー的のぞき見報道があるとすれば、一方には、「社会の木鐸」「客観報道」を金科玉条とする「冷静」なる報道が、両極の雄を締めているのがその実情でしょう。

前者に関してはそもそも問題を指摘する以前に、「ジャーナリズム」を名乗るのすらおこがましいわけですが、週刊誌や昼間の電波は相も変わらずこうした手法に加熱するのを見るに付け辟易としてしまいます。

それでは後者はどうなのでしょうか。

事実の積み重ねは実に大切です。
しかしそこで切り落とされてしまう現実の「匂い」「息吹」があるのも実情でしょう。そこにオーディエンス(聴衆)がついていけないのが現実ではないかと思います。
そのことは、2001年以来、お茶の間をにぎわしてきたテロリズム報道(対テロ戦争含む)に如実に現れているかと思います。

連日のように報道される戦争絵巻物!
それはそれで連日報道されるわけですから、後になって振り返ってみると年代記の記録のごとく、まさに連日クロニクルが重層されていっているわけですが、……原因にも、そして根拠にも全くふれることない「現象」だけの報道(官報?)は、どこか人間を見失った「客観性」にほかならない……そのような感覚を覚えてしまいます。

いうなれば、原因・根拠をスルーした「現象」だけの報道であり、そこには刹那主義とシニシズムしか生まない……結果として現実すらもスルーしてしまう風潮を助長してしまうエセ客観主義の横行へ……風潮を助長するだけでは……そのような感覚を覚えてしまいます。

客観主義的報道とは、競馬中継ではありません。

事実の絵を並べただけではないのが、現実なのでしょう。

ここ10年来、ハーヴァードを中心に、ナラティブ・ジャーナリズム(Narrative Journalism)という、いうなれば客観性の脱構築的代換え案が提示され、すこしづつ力を発揮しつつあるとか。

ナラティブ・ジャーナリズムとは、リテラシー・ジャーナリズムともいわれる手法で、事実を文学的ストーリーとして視聴者(読者)の目線で伝える報道のことです。

リテラシー・ジャーナリズムといえば「文学的」ジャーナリズムと翻訳されますが、何もこれは「創作」を目的としたものではありません。捏造・創作は週刊誌の専売特許ですから、あえてそんなことを「客観性」を謳いながらする必要もありませんから。

では、何が特徴なのでしょうか。

週刊誌の「恣意性」と極を為すのがまさに「客観性」ということですが、これまで「客観性」を“売り物”にしていたメディアが大切ににしていたのは、およそ次の部分でしょう。すなわち、社会問題を「正確」に記述し、形式としての5W1Hにこだわっていくというスタイルがそれでしょう。

それはそれで大切なんです。しかし、それを繰り返すだけではシニシズムしか招来しかねないのが現実です。

であるとするならば、何を加えていけばいいのでしょうか。

いわゆる、客観報道に特徴的な問題とは何かといえば、それは基本的に「中途半端」になってしまうということがそれでしょう。5W1Hを先鋭化すればするほど、「羅列」に終始してしまい、そこから問題の論点を判断することができにくくなってしまう……ことに問題が連日的な事案の場合……やがて「昨日と同じ、もういいや」って式なシニシズムになってしまう……。

5W1Hは確かに大切です。

しかし、同時に必要なのは、象牙の塔の学者が重箱の隅をつつくような小さな事に拘泥するスタイルでもなく、世界史年表的なの年月日だけの官報スタイルでもないのでしょう。

そうしたジレンマをさけつつ、事実の記録を残しながら、読み手を考えさせる材料の提供、それこそが大切なのかも知れません。

ナラティブ・ジャーナリズムに旗手といってよいデイヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam,1934-2007)は、歴史の基本的流れのなかに事実をできるだけ多く並べて、読者に判断を求めるのが自分の流儀であると言い切ったそうですが……。

書き手が物語を創造することは簡単です。
そしてなにかにリードされた物語を提示することも簡単です。
それがあふれかえっているのが現在のネット・メディアの現状でしょう。

しかし、消すことのできない事実と事実と対話しながら、筋道をたてていく……情報を扱う人間は歴史家の眼差しが必要なのかも知れません。

イギリスを代表する歴史家・E.H.カー(Edward Hallett Carr,1892-1982)の言葉に次のようなものがあります。

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歴史的事実と歴史家
 このように、歴史家と歴史上の事実との関係を吟味して参りますと、私たちは二つの難所の間を危く航行するという全く不安定な状態にあることが判ります。すなわち、歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く支持し難い理論の難所と、歴史とは、歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通して征服する歴史家の心の主観的産物であると考える、これまた支持し難い理論の難所との間、つまり、歴史の重心は過去にあるという見方と、歴史の重心は現在にあるという見方との間であります。しかし、私たちの状況は、概念ほど不安定なものでもありません。なお、私たちは、事実と解釈という同じ対立が本講演を通じていろいろと姿を変えて--特殊的なものと一般的なもの、経験的なものと理論的なもの、客観的なものと主観的なもの--現われるのに出会うでしょう。歴史家の陥っている窮境は、人間の本性の一つの反映なのであります。生まれたばかりの乳児期とか非常な高齢とかは恐らく別でありましょうが、人間というものは、決して環境に巻き込まれているものでもなく、無条件で環境に従っているものでもありません。その反面、人間は環境から完全に独立なものでもなく、その絶対の主人でもありません。人間と環境との関係は、歴史家とそのテーマとの関係であります。歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなく、その暴虐な主人でもないのです。歴史家というのは、自分の解釈にしたがって自分の事実を作り上げ、自分の事実にしたがって自分の解釈を作り上げるという不断の過程に巻き込まれているものです。一方を他方の上に置くというのは不可能な話です。
 歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈--この解釈に基づいて、この歴史家にしろ、他の歴史家にしろ、選択を行っているわけですが--で出発するものであります。仕事が進むにしたがって、解釈の方も、事実の選択や整理の方も、両者の相互作用を通じて微妙な半ば無意識的な変化を蒙るようになります。そして、歴史家は現在の一部であり、事実は過去に属しているのですから、この相互作用はまた現在と過去との相互関係を含んでおります。歴史家と歴史上の事実とはお互いに必要なものであります。事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。そこで、「歴史とは何か」に対する私の最初のお答を申し上げることにいたしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。
    --E・H・カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1960年。

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……ってことで、すでにかなり飲みながら入力している宇治家参去自身ツワモノだよな……などと自惚れつつ、情報倫理からメディア論へすっとびましたが、さすがに飲んでいるようですっとんでおります。

ちなみに、肝臓数値が悲鳴をあげているようで、「毎日日本酒」は厳禁といわれましたので、今日は、米焼酎……米焼酎「しろ」@高橋酒造……にしてみましたが、なんとなくパンチが足りません。

しかし、それなりに「すっとんでいる」ということは、カラダは喜んでいるということでしょうか。

そういえば、思い起こせばラムズフェルド元国防長官(Donald Henry Rumsfeld,1932-)が、1979年、バグダッドでフセイン(Saddam Hussein,1937-2006)で激励していることもあったよなあ~。

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