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ひとつの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分でない

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 ひとつの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分でない。何かを認識するためには、われわれが表象を有しているのみならず、われわれがそこから出て「それとは別の表象を、それに結びつけられたものとして再認」しなければならない。認識とは、ゆえに、諸表象の総合である。「われわれは、Aという概念の外に、この概念にとって外的であるけれども、そこに結びつけねばならないとわれわれが考えるBという述語を見出す」。われわれは、ある表象の対象について、その表象には含まれていない何かを肯定するのでる。ところで、このような総合は、二つの形態において提示される。それは経験に依存するとき、ア・ポステオリである。私が「この直線は白い」と言えば、そこにあるのは、互いに異なる二つの規定の遭遇である。あらゆる直線が白いわけではないし、白い直線も必然的に白であるわけではない。
 反対に、私が「直線は最短の道である」とか「変化するものはすべて原因をもつ」と言えば、私はア・プリオリな総合を行っていることになる。私は、Aについて、それに必然的かつ普遍的に結びついているものとしてBを肯定しているからである(ゆえに、Bはそれ自体、ア・プリオリな表象でえある。Aの方は、ア・プリオリでもそうでないこともありうる)。ア・プリオリであることがもつ特徴というのは、普遍的で必然的だというものだ。但し、ア・プリオリであることの定義とは、経験より独立しているというものだ。ア・プリオリが経験に適用されることはありうるし、ある種の場合においては、経験にしか適用されないこともある。だが、ア・プリオリが経験に由来することはない。「すべて」とか「常に」とか「必然的に」とかいった言葉に対応する経験は定義上存在しない。最短のは、比較級でも、帰納の結果でもなく、私が一つの線を直線として産出する際のア・プリオリな規則である。原因もまた、帰納の産物ではなく、生起する何事かを私が経験において再認する際のア・プリオリな概念である。
    --ジル・ドゥルーズ(國分功一郎訳)『カントの批判哲学』ちくま学芸文庫、2008年。

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この1ヶ月ほど、様々な人物、人、そして御仁と出会う中で、「こうと決め込んで、そうとしか考えることができない」というスタイルを多々目の当たりにして、つくづくと料簡を広げていくのは困難だよな……と実感するとともに、それでもなお、多様な地平を提示する「それだけではないかもしれませんよ」という対話しか結局はないのか……などとふと思った次第です。

さて、「こうと決め込んで、そうとしか考えることが出来ない」というスタイルは別に悪いわけではありません。それをどこに向けていくのかというのが焦点になってくるでしょう。つまり、次の言葉を使うのは嫌なのですがその言葉が一番適切なニュアンスを伝えることが出来るので臆面もなく使わせて頂きますが、すなわち、個々人の実存の問題に関してはそのスタイルで生きていくのが適切なのだろうと思います。

こう決めて、自分の生き方を歩んでいくという土台とでも言えばいいでしょうか。

しかし、人間とは生き物としては不十分で有限な存在者、罪人、末代凡夫であるとするならば、その土台というものも不変ではないはずですから、その更新はあってしかるべきですから、社会哲学者カール・ポパー(Sir Karl Raimund Popper,1902-1994)が自然科学だけでなく、人文科学、社会科学においても「反証可能性(Falsifiability)」を説いて止まなかったことを思いおこすならば、そのなにがしかを揺るぎなき土台として努力しようとも、ひとしくその土台が揺り動かされる可能性としての「反証可能性」の余地はどこかに残しておかないとマズイということはそれでもなお、言うまでもありませんでしょう。

さて、そうした実存論からはなれて、一般的に流通する「こうと決め込んで、そうとしか考えること出来ない」という発想の根っこにあるのは、自分で考える・判断するというカント的自律を拒否した軽挙妄動に由来するのかもしれません。

いかなる信条・指針・心情をゆうしてもいいのですが、それを対他的に検証しないまま、「そうなんだよな」「こうに“決まっている”」「嫌いだから……」って式に判断してしまうのはおそろしく暴力的な行為かもしれません。

検証されるべき、人間世界はある意味では、ア・ポステオリ(a posteriori)な世界にすぎません。だからこそさまざまな方向性から検討されてしかるべきなのですが、そのア・ポステオリなあり方をひとはどこかでア・プリオリ(a priori)なものとして錯覚してしまうのでしょう。

そこに落とし穴があるのだろうと思います。

経験則を形而上的な金科玉条にしてしまうということは、経験そのものの破壊を招いてしまうものです。経験として「こうだった」から「こう考える」というのであれば最後まで完遂してこそ経験則として成立するのでしょう。

それを中途の段階で王位につけてしまうことは、自己自身の信念体系の内崩をまねく暴挙にほかならないはずなのですが……。

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 ひとつの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分でない。何かを認識するためには、われわれが表象を有しているのみならず、われわれがそこから出て「それとは別の表象を、それに結びつけられたものとして再認」しなければならない。認識とは、ゆえに、諸表象の総合である。
    --ドゥルーズ、前掲書。

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このあたりを念頭に置いておかないと、正しい認識いたることは不可能なのでしょう。
しかしながら、なかなか、人間とはほかのひとの意見に耳を傾けることができない生き物なのかしら?

……などとふとぼやいてしまう日々ですが、それでもなお大石を穿つが如く、たえまなく接していく中で、気が付いたときには、ふと多面的に総合的に判断するようになってくる人も現れてくるところをついつい見てしまうと、まだまだ人間世界もすてたものではない……否、自分自身が人間世界を「素敵な世界」へと転回させゆく鍵をにぎっているのだろう!と思いつつ、誠実に生きていくしかありませんネ!

ちょいと飲みのを我慢していた麓井酒造@山形県酒田市の銘酒「麓井(ふもとい)生酛純米吟醸 山長(ヤマチョー)」にでも酔いしれながら、梅雨の夜長を楽しんで寝ますか!

しかし部屋のなかがなんかあっちいなアと思っておりましたら、エアコンが暖房でした。

これはかなりアルコールで消火活動をしないとまずいです。

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