<真理>や<善>「などといったものは存在しない」と主張するような議論に訴えているわけではない
DEADLINE=2009/08/10
いつもだいたいその前後なのですが、前期に担当した科目の成績をつけて返却すべきデッドラインが本年の場合、上に示したとおりです。
そしていつものことですが、ギリギリ……すなわち〆切前日到着予定のような感じで採点して返却しているのですが、これではマズイわな……ということで、今回は気合いを入れて、早めに返却することができました。
やれば、できる!
……ひさしぶりにガッツポーズをとりながら、酒をがっつり呑んでいる宇治家参去です。
授業をやるよりも、レポートを添削するよりもはるかに難しいのが成績の評価です。
詳細は措きますが、ある意味では生命力を使うとでもいうのでしょうか……その難点に何度も頭を悩ますものですから、いつもぎりぎりまで“後回し”にしてきたのですが、“後回し”にしてしまうと、当然〆切日のプレッシャーという余計な要因も加わってき、さらにきつくなってしまいますので、書いてもらった答案用紙もそろい、提出して貰ったレポートもそろったところで、朝から一気に50通の答案とレポートを読んで、そのまんまつけさせて頂いた次第です。
それが……ある意味ではよかったようで、すっきりはればれ採点を終え、あとは大学へ返却するばかり。
「宇治家先生っていつもぎりぎりなんですよねえ」
……という担当職員のぼやきは今回はみられないのではないかと思います。
「ひょとして宇治家先生、悪いものでも食べたのでは……?」
などと議論されているのかもしれませんが、成績をおくっても、それを入力する手間を考えるといずれにせよ、早く提出するにこしたことはありませんよね。
……ってことで、ひとつ肩の荷がおりたようで……。
昨日もそうとう飲んだのですが、今日も「宇治家君、お疲れ様でした」
……ということで、がっつりやらせて頂いております。
金が無いのが難点ですので、一の蔵の「無鑑査」を買い込み、さきほどからやっておりますが、この「超辛口」というのが堪えます。
最近、だいたい一日に三度ほど風呂に入るのですが、三度も入る如く、東京は猛暑の連続で、梅雨が明けたにもかかわらず、じとっとした雨もつづものですから、体にカビが生えるのでは?などと思ってしまいますが、だからこそ「超辛口」がいいのでしょう。
まさに「超辛口」ですので、そうしたけだるさをぶっとばす呑み応えと爽快感で、まさにこいつは日本酒のスーパードライだ!などとはしゃいでいる次第です。
……ということで成績を付け終えた後、「まだなにか、大学へ提出しなければならなかったはず……」
……などと不審な思いが出てき、山のように詰まれた書類の「未処理BOX」に目を通すと、先ほど大学から送られてきた「夏期スクーリング開講に関する書類」……これは受けとって安心してそのまま返却していなかった!……が目に付き、急ぎ記入して、返却準備OKです。
要は、授業で使用する機材の申請とかそうしたフレームワークを形づくる書類なのですが、これをおろそかにすることはできません。
夏休みの大学で行う夏期スクーリングではこれまで一度も遭遇したことがありませんが、各地で開催する地方スクーリングでは、これまで「パワーポイントを使うので、関連機材を」と申請していたにもかかわらず、当日出向くと何も機材が無かった!(で、実はこれが一番始めにスクーリングをやったとき!)とか、予約して貰っていたホテルが予約されていなかった!など挿話には事欠きませんので、太めの万年筆……今回はめずらしくモンブランの2146(しかもmade in West Germanyですぞよ)で記入した次第です。
さて、本日は、ネオ・プラグマティストの頭目として知られるリチャード・ローティ(Richard Rorty,1931-2007)の小論集を読んでおりましたが、まさにこれだよな!などとひとりごちつつ、市井の職場の休憩中にほくそ笑んだ次第です。
何かを批判する際、とかくそれに対する対抗軸としてのアンチ・テーゼを打ち立てることに腐心してしまい、当初の批判的考察のもくろみから大きく逸脱してしまい、批判することによって目指すべき地点をみうしなってしまう……こうした事例は日常生活において事を欠きませんが、それは日常生活だけではなく、思想の世界においても同じかもしれません。
西洋形而上学の解体……という議論において「解体すべき目的」が喪失し、解体することに専念してしまうとそこには何ものこりません。
神学のボキャブラリーも必要ありませんが、アンチ神学のボキャブラリーも必要ないといったところでしょうか。
ローティの文章を読んでいると、ある意味でその過激な発想におどかされてしまわなくもないのですが、ゆっくり読み直すと至極真っ当なことを……それに賛同するか違和感を感じるかといった感覚の問題は起きますが……言っているよなア、などと読むたびに驚かされてしまいます。
……ということで?
昨日の東京は断続的豪雨のため、ろくな写真が撮れませんでしたので、一昨日の夕刻からの一コマです。
夏に東京から遠望できることはまずないのできわめてラッキーだったのかもしれません。
夕陽の落ちかけた西空に目をむけると富士の高嶺が微笑んでいるようで、なにやら、心が洗われた次第です。
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……すなわち、プラグマティストは、ある状況のもとである行為を実行することを善だとは考えるが、そうした行為を善たらしめているものについて、何が一般的で役に立つこおを述べうるとは、考えないのだ。ある与えられた文を確言すること--あるいはその文を確言したくなるような傾向を取り入れること、つまりある信念をわがものとすること--は、特定の状況においてのみ正当化しうる、そしてまた賞賛すべき行為となるのである。しかしそうだとするとよけいに、そうした行為のすべてを善たらしめているもの--人が確言しようという気になるべきすべての文に共通するある特性--について、何が一般的でやくだつことが述べられるとはとても思えないのだ。
プラグマティストの考えでは、<真理>や<善>を孤立させようとする試み、つまり「真の」とか「善い」とかといった語を定義しようとする試みの歴史をみれば、こうした分野では面白い仕事など何もできないのではないかと疑わずにはいられない、ということになる。もちろん、歴史は別の展開を遂げたかもしれない。不思議なことに、<力>の本質や「数」の定義についてなら、人々はそれについて述べうる面白いことを見出してきたのだ。<真理>の本質についても、それについて述べうる面白いことが見出されていたってよさそうなものである。しかし実際には、何も見出されなかったのだ。それを見出そうという企てと、そうした企てへの批判とが、おおざっぱにいって、われわれが「哲学」と呼んでいるあの文学上のジャンル--プラトンが創設したジャンル--の歴史と重なるのである。すなわちプラグマティストは、プラトン的伝統を、もはやそれが不要になった後にまで生き残ってしまったと見るのだ。このことは何も、プラトン的問いに対し、新しい、非-プラトン的な一連の答えを提示できるという意味ではない。むしろ彼らは、そうした問いをもはや問う必要はないと考えるのである。したがってプラグマティストは<真理>や<善>「などといったものは存在しない」と主張するような議論に訴えているわけではない。あるいはまた、彼らが<真理>や<善>について「相対主義的」または「主観主義的」な理論をもっているわけでもないのだ。プラグマティストはただ主題を変えたいと思っているだけなのだ。彼らはちょうど、<自然>や<意志>や<神>について研究しても何もならないと主張する世俗主義者と同様の立場にある。そうした世俗主義者は、厳密な意味で<神>は存在しないなどと言っているのではなく、<神>の存在を肯定するとはどういうことなのか、したがってまたそれを否定することにどんな重要性があるのか、疑っているだけなのだ。彼らは<神>について何か特別で、変わった、異教的見解をもっているわけではない。彼らはただ、神学のボキャブラリーをわれわれは用いねばならない、ということを疑っているだけなのだ。同様にプラグマティストも、非哲学的なことばを用いて反哲学的な視点を作り出すための方法を常に模索しているのである。というのも、彼らは次のようなディレンマに直面しているからだ。すなわち、もし彼らの用いることばがあまりに非哲学的で「文学的」になると、彼らは主題を変えているといって非難されるであろうし、またもしことばがあまりに哲学的だと、それはプラトン的諸前提を体現してしまうことになり、プラグマティストが到達しようとしていた結論を述べることが不可能になってしまうからである。
--リチャード・ローティ(吉岡洋訳)「プラグマティズムと哲学」、室井尚ほか訳『哲学の脱構築 プラグマティズムの帰結』御茶の水書房、1985年。
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