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「『私』(Je)の領域である自身性の孤独を考察」しながらの味わい

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 フランツ・ローゼンツヴァイクは、人間性のなかに、はっきりとした区別を見てとった。ひとつは世界に属する個人(individu)であり、これは他の個人とつねに類比可能である。もうひとつは自身性(ipséité,Selbstheit)である。「私」(Je)の領域である自身性の孤独を考察するときにはじめて、個人どうしのあいだの結びつきにもかかわらず人間どうしのあいだに広がる存在論的な乖離を計測することができるのだろう(「私」の心的作用の秘密とは、私たちの考えでは、「いかにして」(comment)ということである)。さらには、人間どうしのあいだに開口する超越を、そして、対話あるいは近接性の超常的な他動詞性と、社会性あるいは人間的近接性のもつ超存在論的な--あるいは宗教学的な--意義を推し量ることができるだろう。ローゼンツヴァイクにより自身性の孤独はハイデガーが了解したような仕方で理解されてはならない。というのも、ハイデガーはそれを共存在(Mitsein)の欠性的様態(modus deficiens)というふうに理解していたからである。しかし、ローゼンツヴァイクによれば、自身性の孤独は、どのような意味でも自己を出発点にする孤立のことではないし、それは共同体についてのどのような記憶を有さないし、また事物的な離散とも違う。(というのも、事物はたとえばらばらにされていたとしても、「それとは知らずに」ある共通の種に属しているからである。)ローゼンツヴァイク的な自身性の孤独とは、「だれとも、なにものとも共通点を持たない」ような孤立であって、いささか踏み込んで言ってしまえば、「世界の外部」を意味するためになんらかの「超越論的還元」を必要とすることさえないのである。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「対話--自己意識と隣人の近さ」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

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人間性のなかには、確かに「類比可能」である「世界に属する個人」(individu)という側面と、「還元不可能」な「自身性」(ipséité,Selbstheit)という側面のふたつがあるのでしょう。

歴史的には、前者と後者の飽くなき闘争というのが実情だったのでしょうが、デカルト(René Descartes,1596-1650)により還元不可能なる個々人性の哲学的基礎が与えられて以来、西洋の社会ではいわゆる個人主義という発想が定式化されていくわけですが、この個人主義の運用が実に難しく、そのあたりに悩んでしまうところです。

また、その「自身性」をどのように位置づけるのかというのは最大の難問であり、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)のように「共存在(Mitsein)の欠性的様態(modus deficiens)」と認めてしまうのも、はなはだその「自身性」を破壊してしまう側面があるのでは……などと思考がループする宇治家参去です。

まさに「あれか・これか」と断じない第三の道を模索するということは、言語による定式化をこれほどまでに拒んでいくものなのか……などと思わざるを得ませんが、7月最後の休日は、まったく1頁も学問の進まない一日となってしまった次第です。

さて……
昼過ぎから、……前々からこのあたりに行くかと決めてはいたのですがその日になると決まったのが前日ですが……勤務する短大・大学のキャンパスの散策となり、一族郎党とともに八王子へ行って来ました。

ちょうど、首都圏のJRでポケモン・スタンプラリーもやっておりましたので、「ミュウツー」をゲットして、大学へ向かい、食堂で遅いランチをいただきましたが、これが320円とは、やはり安いですねえ。

食事をとってから、定番コースの文学の池へ向かい、例の如く鯉に餌やりですが、迫力がありすぎといいますか、飢えすぎといいますか、ばしゃんばしゃんと暴れまくり水浸しになってしまうという有り様です。

さて、おちついたところで、短大の学長へ挨拶へゆき、小一時間ほど、種々お話をしていると夕刻になり、帰途についた次第です。

いやしかし、これからの大学「経営」は大変な問題であると実感した次第です。

前日、息子殿と「男と男の秘密の約束」と称して2人で食べに行くというチャンレジをしてしまいましたが、そこにへそを曲げたのが細君でしたので、その埋め合わせを要求されましたが、マア、これが過剰請求というやつでしょうか。

……などと言ってきくわけもありませんが、あまり高額になってしまうところへいってしまうのも辛く、国分寺で下車しましたが、通例「白金」あたりを利用するのですけども、今回は、「節約!」「節約!」……ということでチェーンの「居楽屋かくれ庵『千年の宴』」をチョイスした次第です。

ここは生ビール(中・麒麟一番搾り)が……地域により価格が違いますが……311円という格安で、天狗舞から土佐鶴まで冷や酒の種類もリーズナブルで提供されてい、なにより楽しいのが、自家製豆腐が用意されておりますので、久し振りに利用させて頂きました。
短い突発的な夏休み?はこれにて終了です。
本日よりまたぐだぐだの市井の職場が5連ちゃんですが、ちと本業も丁寧に取り組みながら、やっていきましょうか。

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刺身は、「ひらめ」をいただきました。
本当は、この季節ですと「すずき」がほしいところでしたが……。
しかし、「ひらめ」はどうしてこんなにうすいまっしろなさわやかな魚なのに、くどくない脂がのりにのっているのか、いつもながら驚く次第です。

生ハムと有機水菜の“サクッ”とパイ生地サラダピザもさっぱりしていてお勧めですなあ。

串物は数点頂戴しましたが、セレクトする途中で、麒麟の「ブラウマイスター」を発見!
もともとは、缶・瓶でも販売されておりましたが、最近ではお店だけでの提供となってしまった逸品で、なかなかめぐりあえにくくなってはいるので有難い再会です。
ただしかし、当初は生ビール311円を求めて入店したにも拘わらず、その意味では本末転倒といったところでしょうか。

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