ありえない「お通し」にデカルトは驚愕し、フッサールはニンマリです!
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現代の哲学は分裂状態にあり、途方に暮れてせかせか動き回っているということについて、考えてみなければならない。前世紀の半ばから、それ以前の時代に比べると、哲学の衰退は紛れもない事実である。近代の初頭、宗教的な信仰がますます活気のない慣習という皮相なものになってしまった時、知識人達は、自律的な哲学と科学に対する新たな大きな信頼によって、意気揚々としていた。人間の文化全体が科学的な洞察によって導かれ照らし出され、それによって新たな自律的な文化へと改革されるはずだった。
しかしそのうちに、この新たな信頼もまたにせものとなり、衰えていった。それも理由のないことではなかった。今日私たちが持っているのは、統一をもった生き生きとした哲学ではなく、際限なく広がり、ほとんど連関のなくなってしまった哲学文献の山である。私たちが目にしているのは、相反する理論が真剣に対決しながら、それでもこの対立においてそれらの内的な連関が示され、根本的確信のうちに共通性が示され、真の哲学への惑わされることのない信頼が現れる、という事態ではない。真剣にともに哲学し、互いのために哲学するのではなく、見せかけの報告と見せかけの批判の応酬でしかない。そこには、真剣な協働作業と客観的に通用する成果を目指すという精神をもった、責任感ある相互的な研究というものがまったく見られない。客観的に通用するとは、相互批判によって精錬され、どんな批判にも耐えられるような成果のことにほかならない。しかしながら、このように哲学者の数だけ哲学があるなかで、本当の研究、本当の協働作業はどのようにして可能であろうか。なるほど、今でも多くの哲学の会議が開催されている。そこには哲学者達は集まるが、残念ながら哲学は集まらない。彼らには、それぞれが互いのためでえあり、互いに働きかけあうことができるような、精神的な空間の統一が欠けている。個々の「学派」や「潮流」の内部では、事態はまだましなのかも知れないが、彼らの孤立したあり方や、哲学の全体的状況に関しては、本質的には、私がいま特徴づけたような状態にとどまっているのだ。
このような現状のなかで私たちは、かつてデカルトが青年時代に出会ったのと同じような状況にいるのではないか。いまや、彼が哲学を始める者として持っていた根本から変革する姿勢を甦らせ、それゆえ偉大な伝統と真剣な開始と流行の文学的活気(これは印象に訴えるとしても、それ以上に研究することは期待できないものだ)とが入り交じって氾濫している哲学の文献すべてを、デカルト的な転覆の中に投げ込み、新たな「第一哲学についての省察(メデイタチオーネス・デー・プリマ・フイロソフイア)」を始める時ではないか。結局のところ、現代の哲学の絶望的な状況は、あの省察から発した原動力が、そのもともともっていた活気を失ってしまい、しかも、哲学的な自己責任という、根本から始める姿勢のもつ精神が失われたがために活気を失ってしまったことに、その原因を帰すべきではないか。究極的で考えられる限りの無前提性を目指す哲学、あるいは、自ずから生み出される究極的な明証から本当の自律のうちで形成され、それに基づいて絶対的に自己責任をもつ哲学、という法外なものと考えられがちな要求はむしろ、真の哲学の根本的な意味に属しているのではないか。
活気に満ちた哲学への憧れは、近年、さまざまな復興(ルネサンス)をもたらした。しかし、唯一実りのある復興は、デカルトの省察を甦らせるものではないだろうか。と言っても、単にそれを引き継ぐのではなく、我思う(エゴ・コギト)へと立ち帰ることによって根本から始める、という姿勢がもつ深い意味をまずは明らかにし。さらに、そこから生じてくる永遠の価値を明らかにする必要がある。
--フッサール(浜渦辰二訳)『デカルト的省察』岩波文庫、2001年。
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たしかに現象学者・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)が『デカルト的省察』の冒頭に示したとおり、アカデミズムとしての哲学的探究は「分裂状態にあり、途方に暮れてせかせか動き回っている」感が否めません。
またそれと同時に、協働して真剣に考え抜くという雰囲気が醸成されているかといえば、それも疑問が残るところで、現実には個人プレーが多く、「統一をもった生き生きとした哲学ではなく、際限なく広がり、ほとんど連関のなくなってしまった哲学文献の山」が積み上げられている事も否定できません。
ただしかし、それと同時に、わら草のなかに眠る一寸の針のごとく、すぐれた哲学的探究と呼べるものも存在しているのも一面の事実ですから、システムとか環境に起因するというよりも、状況としての当事者の「自覚」の問題に尽きるのでしょう。
徹底した個人プレーでありながらも、他者と「協働」しながら「責任感ある相互的な」作業を励行することが求めらているのだろうと思います。
そしてこのことは、アカデミズムとしての哲学的探究に限られた問題ではありません。
いかなる分野においても等しく共有すべき事態であり、程度の差を考えないならば、専門家であろうがアマチュアであろうが、等しく共有すべき心構えになってくるのでしょう。
だからこその「真剣な協働作業と客観的に通用する成果を目指すという精神をもった、責任感ある相互的な研究」なのです。
……というようなことをぼんやりと考えながらも、すんごく暑くてヘロヘロになっておりましたので、一昨日の北区ツアーから帰ると、宇治家参去御用達の「ささ花」にて細君とふたりにてささやかな慰労会です。
なにしろ大切なのは、「真剣な協働作業と客観的に通用する成果を目指すという精神をもった、責任感ある相互的な研究」ですから、徹底的に相互吟味を行い、恣意性を排していくなかでこそ、「客観的に通用する青果を目指すという精神」が醸し出されるわけですから……。
さて……、
細君が「1人1000円!」という割引券をもっていたので「よっしゃア」とガッツポーズしたのですが、よく見ると、「2009年7月末日まで有効」ということで、がっくし。
……そこで諦めてしまうと、フッサールが指摘しているとおり「哲学的な自己責任という、根本から始める姿勢のもつ精神が失われたがために活気を失って」しまいますので、ぐるなびにて割引券を探し出し、コース料理はとりませんので、ビールの割引券を印刷して馳せ参じた次第です。
たかがビールの割引券とあなどることなかれ!
恵比寿の生しかないのですが、通常だと560円のところ、これがなんと200円引きになりますので、ビール中心で攻めれば問題なし!ということで、オーダーした次第です。
そしてビールの飲み過ぎにて「君死にたまふことなかれ」!
この店に行くと、いつもその手の込んだ料理と食材の新鮮さに驚くばかりですが、昨日はのっけからひっくりかえってしまった次第です。
はじめての経験です。
数々の飲み屋をかなり踏破しているとの自負もあります。
たいていのことではひっくりかえりません。
しかし、ひさしぶりにひっくり返りました!
なににひっくり返ったかともうしますと、「お通し」に対してです。
それでは「お通し」の「なに」に対して驚愕したのでしょうか。
すなわち「新鮮さ」と「潔さ」にであります。
フッサールは次のように指摘しております。
すなわち……
「このような現状のなかで私たちは、かつてデカルトが青年時代に出会ったのと同じような状況にいるのではないか。いまや、彼が哲学を始める者として持っていた根本から変革する姿勢を甦らせ、それゆえ偉大な伝統と真剣な開始と流行の文学的活気(これは印象に訴えるとしても、それ以上に研究することは期待できないものだ)とが入り交じって氾濫している哲学の文献すべてを、デカルト的な転覆の中に投げ込み、新たな『第一哲学についての省察(メデイタチオーネス・デー・プリマ・フイロソフイア)』を始める時ではないか。」
そうなんです。デカルト(René Descartes,1596-1650)は絶対的な確実性の根拠を求める探求において、すべてのものを「疑い」抜くなかで、これこそ絶対だ!というものを見いだしたわけですが、そうした溌剌とした精神性が必要であることを失念しておりました。
これは暑さのせいでしょう。
これまでいろいろと飲み屋も回ってきているので、「まあ、こんなもんだろう!」……と高をくくったとばっちりが、一つの驚愕となった次第です。
で……、もどります、
当の「お通し」の、すなわち、「新鮮さ」と「潔さ」の問題に!
出てきたのは、「きゅうり」が2本です。
要するに、生のまま味噌をつけて齧ってくんろ!ということです。
いや~、まさに「潔い」です。
ほんでもって、「箸」ではなく「手」でもって、味噌をつけてそのまま「囓った」ところ……、
ほんものの「新鮮な」きゅうりでございました。
いやはや、まさに自分自身がちょいと通好みで、そんでもって、偉そうに構えている浅はかさ、愚かさ、を思いしらされたようで……、原点へ連れてかえってくださった「きゅうり」さんに感謝です。
前菜は、シャキシャキフレッシュホウレン草とフライドエッグのサラダを頂戴しましたが、ドレッシングがよいのでしょうか……、普段あまり頂かないほうれん草がすすむことにおどろきです。
また、ゴーヤとスパムの琉球ピザ!
8月限定メニューなのでちょいと頂いてきましたが、ゴーヤもスパムも癖が無く、実に「夏の快味」とはこのことです。薄目の生地にたっぷりと具材をのせ、これまたたっぷりのチーズとソースをからめた状態がなんともいえません!!
好例の「蒸籠蒸し」ですが、こちらも限定メニューで、通常ですと、「豚」なのですが、今回は、「山形牛もも肉」と旬菜の「蒸籠蒸」でして、いやはや、やはり「牛」は味が濃厚なのですが、「蒸籠蒸し」がよいのかしら?
……さっぱりとしてい、夏バテからのスタミナ回復はこれできまりです。
箸なおしはやはり「豆腐」料理ですね!
いつも実感しますが、こちらの出す豆腐は、奴でもなんでも「大豆」の濃厚な味が口蓋に広がりすぎてしまいます。
痛風に悪いことは承知なのですが、どうしても所望してしまう……のは本能でしょうか。
今回はビール中心のマルチタスク?でしたが、最後はやはり冷やの日本酒ということで、例の如く、間違いのない逸品!ということで「黒龍大吟醸」×2でございます。
ご相伴は、博多明太おろし、好例のエリンギとニラの胡麻和え……
そして、銀ダラの西京焼きでございます。
あとでデザートも頂きましたが、いやはや、こちらにくると、お金を落とすことが悲しくなく、いつも感謝で一杯です。
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デカルト的省察 (岩波文庫) 著者:フッサール |
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