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【研究ノート】ヴェイユ「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」

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ちょいとつかれて、入力はできたものの、発酵させている途中でダウンしそうになったのですが、そのまま放置するのももったいないので、そのまま載せておきます。

例の如く、今日も壁パンチを職場でくり出す毎日ですが、こうしたときに染みわたるのがユダヤ系のフランス人哲学者・シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)の言葉です。

そのうちヴェイユの「恩寵論」をめぐって一本論文をまとめたいとおもっているのでチマチマと読んでおりますが、これが染みこんできます。

なんといえばいいのでしょうか。

ヴェイユは「がんばれ」とはいいません。

「がんばれ」ということばほど、実はムズカシイ言葉はないのだろうと思われて他なりません。

ですからヴェイユ自身は、感情とか感傷だけでなく、肉体と精神の両方をもって同苦した生涯を歩むのですが、その言葉の煌めきのひとつひとつが重く染みわたる次第です。

同苦と表現しましたが、精確には自己肯定即の自己無化といったほうが精確かもしれません。状況を把握した上での丹念なすりへらしといったところでしょうか。

ヴェイユの師は『幸福論』で有名なアラン(Emile-Auguste Chartier,1868-1951)なのですが、同じ対象を目指すにしてもアプローチが全く異なります。

しかし、仰ぎ見ている方向性は同じようにおもわれ……この辺を丁寧に追求していきたいところなのですが……。

ヴェイユによるとまさにすべての意味で人間は、物質における重力の法則とおなじような法則に「支配」されているのがその実情です。たえず、地面に叩きつけられざるを得ません。

そしてそれに逆らおうとすればするほど、大きく叩きつけられてしまうわけですが、そこを突破するのが、恩寵(Gratia)ということですが、この恩寵とは、自力でも他力でもないその限界を突破した宗教的閃きなのかもしれません。

ヴェイユ自身は、アッシジの聖フランチェスコ(Giovanni di Bernardone,1181?-1226)に私淑しており、盟友のすすめでカトリックの信仰に接近しましたが、ついぞ受洗しないままその生涯を終えました。

そのへんもふまえながら考える必要がありそうなのですが……いかんせん、あたまにきすぎることがおおく、考える余力がありませんので……このへんでいっぺえやって沈没します。

今日は、「小樽ハイボール」(北海道札幌麦酒(株))を手に入れたのですが、「レモネード」と「ラムネ」……、さて、どちらからやりましょうか。

「注意と意志」が要求されているようです。

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 注意と意志

 新奇な事柄を理解しなくてもよい。だが、忍耐と努力と順序をつくし、自分のすべてを注ぎこんで、明白な真理の理解に達しようとつとめること。
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 信仰の諸段階。いちばん平凡な真理でも、たましい全体にしみこんで行くとき、啓示に似たものとなる。
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 意志によらず、注意によって、かずかずの罪過のつぐないをしようと試みること。
 意志というのは、手近にあるものを移動させたいという気持ちを外に表した、いくつかの筋肉のちょっとした運動だけにしか力を及ぼすことができないのだ。わたしは、片手を机の上にべたっとつけてみたいと思うことはできる。こういったたぐいの仕ぐさに、清い心だとか、霊感だとか、思考の真実さだとかが、どうしても関連してくるとすれば、こういう仕ぐさも意志の対象となりうるだろう。だが、そういう事実は全然ないわけだから、結局は、こんなふうにしたいものだとひたすらにねがうよりほかない。ひたすらにこのことをねがうというのは、わたしたちが天に父をもつと信じることである。でなければ、そんなふうにねがい求めるのは、もうやめにするかである。これ以上不快なことがあるだろうか。心の中の切なるねがいだけが、この場にふさわしいのである。それは、当面の事柄になんの関係もない筋肉を緊張させずにすむからである。徳を行うために、詩を作るために、ある問題をとくために筋肉を緊張させたり、歯をくいしばったりするほどおろかなことがあるだろうか。注意というのは、こういうこととは全然別なことではないだろうか。
 傲慢というのは、こういう緊張のことである。傲慢な者には(二重の意味で)優雅さ(グラアス)(または恩寵)が欠けているのだ。それは、誤りの結果である。
 注意は、もっとも高度な段階では、祈りと同じものである。そのためには、信仰と愛があらかじめ必要である。
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 完全にどんな夾雑物もない注意が、祈りである。
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 知性を善の方向へ向けていると、少しずつではあるがたましい全体が思わず知らず善の方へ引きつけられて行かずにはすまない。
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 極度に張りつめた注意こそ、人間において創造的な能力をつくりあげて行くものである。そして、極度の注意は、宗教的なもの以外には存在しない。ひとつの時代の創造的霊感の総量は、その時代における極度の注意の総量、すなわち真正な宗教の総量と厳密に比例している。
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 よくない求め方。ひとつの問題に注意をしばりつけてしまうこと。これも、真空嫌悪の一現象である。人は、自分の努力がむだに終わってしまうことを望まない。狩猟において獲物にしつこくつきまとうこと。見つけることを望んではならない。度のすぎた献身の場合のように、努力の目標でもあるものに、自分が従属してしまうことになる。外にあらわれた報いも必要であって、ときとして偶然に与えられることもあるが、真実をゆがめてでも、そういう報いを手にしたいと待ち受けているのが実状だ。
 ただ、どんな欲望もともなわぬ(ひとつの目的にしばられていない)努力だけが、まちがいなく報いを隠しもっている。
 自分の追求している目的の前で後退すること。遠回りすることだけが、効果をあげる。まず最初に後退しなかったならば、なにもなにもなしとげられない。
 ぶどうの房を引っぱったりすれば、ぶどうの粒はみな地面に落っこちてしまう。
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 求めている目的とは反対の結果を生むような努力がある(例、いらいらのこうした信心家の女、えせの禁欲、ある種の献身的行為など)。他方、首尾よく目的にたどりつけなくても、つねに有用な努力もある。
 どうして、その見分けをしたものか。
 おそらく、先の努力には、自分の内部の悲惨さを認めぬということ(それも、ごまかしなのだが)がともなっているのだろう。あとの方の努力には、あるがままの自分の状態と、自分の愛するものとのあいだのへだたりにたえず注意を集中しているということがともなっているのであろう。
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 愛によって、神々や人々はいろんなことを教わるのである。学びたいとの願望がなければ、だれも学ぶことはできないのだからである。真理は、真理だからというので求められるのではなく、善であるから求められるのである。
 注意は、そういう願望とつながっている。意志とではなく、願望と。でなければ、もっと正確に言うなら、同意と。
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 人は、自分の内部で、エネルギーを解き放つ。だが、そのエネルギーはいつも、またしばりつけられてしまう。どうしたら、それをすっかり解き放つことができるだろうか。わたしたちの内部で、このことが行われるようにとねがい求めなければならない。ほんとうにねがい求めなければならない。ただ、ねがい求めるだけにとどめて、それを自分で果たそうとたくらまないこと。なぜなら、こういう方向でたくらみはすべて、むなしく、また高くつくからである。この種の行いにおいては、わたしが<わたし>と呼ぶものすべて、受身とならなければならない。ただ注意のみ、この<わたし>が消えてしまうほどに張りつめた注意のみが、わたしには要求されているのだ。わたしのいわゆる<わたし>全体から、注意の光をとりあげてきて、想像もおよばぬものの方へとその光をさしむけて行くこと。
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 ひとつの思念を決定的に追い払ってしまう能力は、永遠へといたる門である。一瞬間の中の永遠。
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 さまざまな誘惑に面しては、誘惑する者が話しかけてきても返事をせず、きこえないふりをよそおう貞淑な女性を模範にすること。
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 わたしたちは、善にも悪にも分けへだてをしないようにしなければならない。だが、分けへだてをしないならば、すなわち、どちらの方にもひとしく注意の光をそそぎかけるならば、善の方がおのずと勝ちまさってくる。それこそが、なくてはならぬ恩寵である。また、善の定義であり、基準である。
 神の霊感は、そこから注意をそらさず、自分から拒んだりしなければ、まちがいなく、どうしようもなく働きかけてくるものである。そうなるようにと、とくに選ばなくてもよい。それが存在すると認めるものを拒まなければたりる。
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 愛をこめて注意を神の方へと(あるいは、もう少し下の段階では、すべての真に美しいものの方へと)向けるならば、いくつかのことが不可能になる。それは、たましいの中での祈りが、能動的に働きかけないで、おのずと果たすわざである。ある種の行動は、なすがままにしておくと、こういう注意をくもらせるかもしれないのだが、逆に、この注意によって動き出すことが不可能にもなる。
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 たましいの中に永遠性の一点をもつことができたら、あとはただそれを大事に守りとおすほかは何もすることはないのだ。それは種子のように、自分で大きくなって行くことだろう。そのまわりを武装した番兵に身じろぎもせずにとりかこませ、数だとか、一定普遍の正確な相互関係だとかについて瞑想をこらすことによってこれを養い育てて行かねばならない。
 からだの中にある不変なものをじっと注視つづけることによって、たましいの中の不変なものを養い育てることができる。
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 ものを書くのは、赤ん坊を産むようなものだ。これが限度と思えるような努力をふりしぼらずにはいられない。だが、行動するときも同じである。さいごの努力をつくしていないのではないかとおそれるにはあたらない。ただ、自分をあざむかないこと、注意をこらすことだけが、なされているならば。
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 詩人は、真に実在するものにじっと注意をそそぐことによって、美を生み出す。人の愛するという行為も、同じである。今そこに、飢えかわいているその人がわたしと同じように真に存在するものだと知ること--それだけで十分である。残りのことは自然につづいて起こってくる。
 あるひとりの人間の活動の中に、真、善、美といった真正で純粋な価値が生じてくるのは、いつの場合にも同じ一つの行為を通じてである。対象にまったく完全に注意をそそぐといった行為を通じてである。
 教育の目的は、注意力の訓練によってこういった行為ができる準備をととのえてやることにつきるといっていい。
 このほかにも教育にはいろいろと有益な点があるが、いずれもり上げるに足らない。
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 学問研究と信仰。祈りとは純粋な状態での注意にほかならず、学問研究は、注意力の訓練といってよいものだから、学校での勉強はどれもみな、霊的生活の一部分でなくてはならない。それには方法が必要である。ラテン語の訳をするについても、幾何学の一問題をとくについても、ある一定のやり方を守るのが(どんなやり方でもよいというものではない)、注意力をいっそう祈りにふさわしいものにするのに適した訓練となるのである。
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 比喩や象徴などを理解する方法。それらを解釈しようとくわだてないこと。光が溢れ出てくるまで、じっと見つめつづけること。
 一般的に、知性を訓練する方法は、見つめることである。
 実在するものと幻想上のものとを見分けるために、この方法を用いること。感覚による認識の場合に、自分の見ているものに確信がもてないならば、目を離さずに自分の場syをかえてみると、実在があらわれてくる。内面生活においては、時間が空間のかわりをする。時間がたつにつれて、人は変化するが、さまざまと変化する中にも、同じ一つのものにじっと目を向けつづけているならば、ついには、幻想は消え去り、実在があらわれてくる。その条件としては、注意が執着になってはならず、ただ見つめるということでなくてはならない。
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 どうしてもある義務を果たさねばならぬという意志と、よこしまな欲望とのあいだにせめぎあいが起こるとき、善のためにそそがれているエネルギーが使い果たされてしまう。自分の悲惨さを味わい知らされて苦しむときのように、欲望の手ひどい攻撃をも受身で耐え忍ばなければならない。そして、じっと注意を善の方へと向けたままでいなければならない。そうすると、エネルギーの質が次第に高まってくる。
 欲望が時間の中で何を目ざして行けばいいのかわからなくさせて、そのエネルギーを奪いとること。
 わたしたちの欲望は、その言いなりにまかせていたらあそれこそ限りがないが、それを生じさせるエネルギーの点では限りがある。だから、恩寵の助けを借りて、欲望を抑えつけ、消耗させて行って、ついにはほろぼすこともできる。このことがはっきりと理解できたときから、事実上欲望を屈服させたことになる。ただし、いつも注意をこの真理に向けて離さずにいるならば。
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 「わたしは、さらによいものを見て(ヴィデオ・メリオーラ)……」こういう状態においては、善のことを考えてるふうにみえ、ある意味では事実考えてもいるのだが、その可能性については考えていないのである。
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 人が矛盾というペンチでつかみとる真空が、高いところの真空であることは確かである。なぜなら、知性とか、意志とか、愛とかの生まれながらの能力をさらにとぎすませばとぎすますほど、その真空はよくつかめるからである。低いところの真空は、生まれながらのこういう能力を萎縮させておけば、落ちこんで行くような真空なのである。
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 超越的なものを体験すること。そんなことは矛盾だと思える。しかしながら、超越的なものは、触れあうことによってしか知られないものなのだ。わたしたちが自分の能力でこしらえ上げられるようなものではないのだから。
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 孤独。孤独の価値は、いったいどういうところにあるのか。単なる物質(空、星、月、花の咲いた木などにしても、みんなそうだ)、人間の精神よりは(おそらく)価値の低いものばかりを前にたたずんでいるにすぎないというのに。その価値は、注意力をはたらかせる可能性が、いっそう多いという点にある。ひとりの人間を前にしても、これと同じ程度に、注意力をはたらかせることができたらよいのだが……
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 わたしたちは、神についてはただ一つのことしか知ることができない。それは、神が、わたしたちではないものだということである。ただわたしたちの悲惨が、神を映す影である。わたしたちは、自分たちの悲惨をじっと見つめれば見つめるほど、神を見つめていることになる。
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 罪とは、人間の悲惨を知らずにいるということにほかならない。それは、意識されていない悲惨であり、その点で、罪がある。キリストの生涯とは、人間の悲惨がとり去ることのできぬものであること、まったく罪なき人においての、罪ある者と同様に、その悲惨さがここまで深刻であることを実際に示してみせた証拠である。ただ、キリストにおいて、その悲惨さには光があたっていたのであるが……
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 人間の悲惨は、富める者や権力ある者には知ることがむずかしい。なぜなら、そういう者は、自分が重要な存在であると、まずはどうしても信じずにいられない傾きがあるからである。このことはまた、惨めな者にとっても同じようにむずかしい。なぜなら、惨めな者は、富める者や権力ある者が重要な存在であると、まずはどうしても信じずにいられない傾きがあるからである。
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 死にいたる罪となるのは、おかした過失そのものではない。どんなものであれ、過失がおかされたときに、たましいの中にある光の度合によって、死にいたる罪となるかどうかがきまる。
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 純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である。
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 極限の純粋さは、純粋なものも、不純なものをもじっと注視することができる。不純は、そのどちらもができない。純粋さは、かれ(人間)をおそれさせ、不純は、かれを呑みこむ。かれには、このふたつを混ぜあわせたものが必要である。
    --シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)「注意と意志」、『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ「カイエ」抄』ちくま学芸文庫、1995年。

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