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個人倫理と同様に、社会的、政治的な倫理学、社会と政治における倫理の哲学が問題となっている

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 人間性と正義が問題化し、倫理学の問題が改めて現実的な問題となっているが、それとともに、哲学は規範的、批判的能力をもつという主張も問いにさらされている。哲学的倫理学は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスにおける哲学の開始いらい、倫理的、実践的な学問として、すなわち、人間性と正義という倫理の概念と原理によって時代の挑戦を理解しようとする学問として考えられてきたからである。
 時代を規範的、批判的に理解するという課題に応えようとすれば、現代倫理学は、第一に、狭い個人倫理の領域だけに研究を限ってはならない。第二に、現代生活世界の具体的な諸問題を研究しなければならない、という二点をぜひとも学び直しておく必要がある。
 たしかに、個人倫理の問題を排除して、社会的、政治的な課題だけに倫理学を限定することはできない。最終的には、各個人の人格的責任と個人の幸福が問題となるからである。しかし、個人倫理の問題が、<おのずから>社会的・政治的生活の難問となり、また逆に、社会的、政治的問題が個人生活に影響を及ぼすことは、われわれが今日体験しつつある意味・方向喪失の危機が示しているとおりである。それに個人倫理という手立てではもともと答えようのない問題もある。平和の維持、人権の実現または飢餓の克服、あるいは、原子力利用は倫理的に適正であるか、延命のためには是が非でも医学を動員すべきかというような問題は、個人にとってきわめて重要な問題ではあるが、これは、個人的、私的に解決できる問題ではなくして、社会的、政治的にしか解決できない問題である。したがって、個人倫理、つまり個人的行為の倫理的な正しさと善に関する理論としての道徳哲学にとどまらない、もっと広い意味での倫理学が求められていることは明らかである。個人倫理と同様に、社会的、政治的な倫理学、社会と政治における倫理の哲学が問題となっているのである。
    --オトフリート・ヘッフェ(青木隆嘉訳)『倫理・政治的ディスクール 哲学的基礎・政治倫理・生命倫理』法政大学出版局、1991年。

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ちょいと週末までに倫理学に関する企画書とか提案書類をまとめて提出しなければならないのですが、本業・副業の絡みとか社会活動で忙しくてなかなか手がつけることができず、週のはじめから頭を抱えながら、倫理学関連の著作をまとめてひもときながら、じたばたと焦っている宇治家参去です。

しかし、そのお陰でしょうか……、
種々知見が深められているような気もしなくもなく、その意味では有り難い“修行”?と受け止め思想的格闘戦を強いられておりますが楽しいものです。

なにしろ“修行”は人間という動物にしかできませんから。

さて、冒頭では、現代ヨーロッパの哲学者ヘッフェ(Otfried Höffe,1943-)の著した倫理学に関する文献の、これまた冒頭からの引用になりますが、ヘッフェは、現代世界において倫理学がおかれた状況をうまく指摘しているかと思います。

すなわち、19世紀以降、学問が制度化されていくなかで、もともと「正義」をめぐる議論(もちろん主要な課題は「正義」だけではありませんし、どちらかといえば「善」が主要な議題ですが、善の展開形態としてここでは「正義」にかえておきましょう)がとしてスタートした倫理学が、講壇学問と化していくなかで、そのリアリティとアクチュアリティを失ってしまいました。

正義をめぐる議論とは、その文字のとおり「正義とは何か」をめぐる探究です。この正義とは何かできあがった規範のようにみえつつも絶えず固定的を拒み続ける実践的な概念です。

個人的側面における倫理としての生き方に関わる部分を意味するだけでなく、正義が体現されるべき共同体にも密接に関わる概念であり、個と全体をめぐる議論といっても言い過ぎではありません。

それがここ百数十年来、分断されてしまったのかもしれません。

前者は私的な空間に囲い込まれ、他者とか全体との契機を欠いたアトム的な処世術へと変貌し、後者は社会哲学が興隆するなか王座を奪われ、具体的な個の存在者のまなざしとか生を欠いた形而上的論争的な理論として流通するようになったのでしょう。

しかし、これは本来べつべつのものではありません。むしろ分かち難く関係をもっていると同時に、どちらが優先されるべきかといったような対立をはらむ関係でもありません。

むしろお互いに照らしあう関係といってよいでしょう。

ですからその状況を「たしかに、個人倫理の問題を排除して、社会的、政治的な課題だけに倫理学を限定することはできない。最終的には、各個人の人格的責任と個人の幸福が問題となるからである。しかし、個人倫理の問題が、<おのずから>社会的・政治的生活の難問となり、また逆に、社会的、政治的問題が個人生活に影響を及ぼすことは、われわれが今日体験しつつある意味・方向喪失の危機が示しているとおり」と指摘しているのでしょう。

個が先か、それとも社会とかそうした共同存在としての側面が先かなどと議論すること自体がナンセンスかと思います。
個だけできる部分もあれば、個が全体とのかかわり・接触の中において完遂できる問題もあれば、その逆もまたあるのが現実生活世界でしょう。

アトム的な私的密室へ後退し、恨む節を発するあり方をさけつつも、同時に、生きた存在者という契機を欠いた先鋭化した理論をさけつつ、本来的にそれが機能できる方向がどこにあるのか、--そこに現代において倫理学を学ぶ、探究する、現実生活世界のなかにおいて考えるという意味があるのだろうと思います。

……などとここまで入力し、考えているところで思考が中断されました!。

ちょうど市井の職場の休憩中だったのですが、トラブルがあったようで、緊急連絡を受け、うえの「~と思います」まで入力したところで、思考世界から離脱してしまいました。

休憩中に呼び出されることほど腹立たしいことはないのですが、なにぶん接客の最前線ですから、呼ばれれば出ないわけにも参りませんので伺ってきた次第です。

とりあえず処理してから、戻ってきて休憩の続きに考え直そうと思っておりましたが、思考中に突発的な中断があるとなかなか作業復帰のスイッチを入れることが難しく、もういいや!って気分を変えて別の本をひもとき、仕事が済んでから帰宅した次第です。

今日は何もないだろうなア--って暢気に倫理学的思索をしていたのがよくなかったのかもしれませんが、これから酒でも飲みながらチト考えてみます。

……ということで、再論。

個人の側の主体的・主観的な部分にすべてを還元してしまうと道義論に傾きます。
それはそれで大切なのですが、なにかそれが社会や政治と切り離された議論になってしまうと、公共空間においてはそれはうまく機能しません。
そしてその逆に公共的・客観的な社会正義の側面のみに倫理的思索をゆだねてしまうと、今度は個々人の立場がおざなりにされ、そこでうまく機能することができません。

しかし状況としてはその二極分裂がはなはだしい--そうした現状なのでしょう。

ですからヘッフェは次のように言っております。

つまり……、

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 時代を規範的、批判的に理解するという課題に応えようとすれば、現代倫理学は、第一に、狭い個人倫理の領域だけに研究を限ってはならない。第二に、現代生活世界の具体的な諸問題を研究しなければならない、という二点をぜひとも学び直しておく必要がある。    --ヘッフェ、前掲書。

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やはりカント(Immanuel Kant,1727-1804)以降でしょうか、上述したような状況が出来したのは……。
カントは実践理性の考察をすすめるなかで、道義の格率を「定言命法」(「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」、『実践理性批判』)として示してみせました。

以後の倫理学、道徳哲学とはカントとの対峙にほかなりません。
そのなかで、理性や感情、そして道徳律の形式……実際にカントは形式にものすごくこだわりましたが……にこだわるなかで、社会とか現実の問題から倫理や道徳が切り離されてしまい、「狭い個人倫理の領域だけ」に研究が限られたフシがあります。そして同時に「具体的な諸問題」へのアプローチは看過され、科学の“装い”を被った社会科学がそれを遂行してきました。しかしカントはそうした個人への“超”還元主義的立場を説いたわけでもありませんし、どちらかといえば、定言命法の言葉、すなわち「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として」というくだりにあるとおり、全体のなかでの思索を説いたのがその真相なのでしょう。

その意味では、具体的なアクチュアリティに関する倫理的議論……例えば、環境倫理、情報倫理、生命倫理……というかたちで、「現代生活世界の具体的な諸問題を研究」しようとする応用倫理学の興隆は、倫理学の再興?において歓迎されるべき状況なのだろうと思います。
※念のためですが、例えば、現実の生命倫理の議論は、法的側面、技術的側面からのアプローチがほとんどで、深い人間理解に根ざした議論が殆どないという現況・批判がありますが、ここではひとまず措きます。

というわけ……最近の実感?

ひさしぶりに小売業たる市井の職場に戻って実感することがひとつあります。
すなわち、「メモ」を片手に買い物をされているお客様が多いということです。

何を買うかをメモってから買い物にくるというスタイルのことです。

このスタイルは以前からも存在しましたが、ここ1年、やけに多くなったなアというのが現場で仕事をしていてつくづく思う実感です。

スーパーとか、ディスカウントといったスタイルは基本的には、「買う必要のあるもの」以外にも「(買うつもりはなかったけれども)これも買っておくか!」という余剰が実は生命線となってきます。

いわゆるチラシ・特売によるハイアンドローという「釣り」の戦略です。
原価割れの特売商品で「釣り」、店内で買い物するときにそれ以外も「買ってもらう」という方向性です(ちなみにうちの会社ではハイアンドローを辞めましたが)。

その意味では、その「釣り」戦略の対極にあるのが「メモ買い」というスタイルです。

1-2年前にはそんなに見なかったのですが、ここ最近年齢を問わず急増しているようにて、やはりこれは景気の問題とかあるんだよなア~などとレジをうったり、売り場を案内したりする際に実感するわけでして……。

余剰なもの……すなわち「不可分所得」の限界内での「可処分」領域が明らかに減少していることは疑うことができません。

……だからその実感がなにか倫理的思索と関係があるのか!

……ってつっこまないで下さいまし。

来るべき日曜日に向けて各党は凌ぎを削って格闘しているようでございます。

そんでもって共通しているのがどの各党も「生活」を看板に挙げている点です。

ぶっちゃけたところシステムを保全するための「がまん」、つまりコイズム的に言えば“痛み”は不可避的であり、その“痛み”に耐える必要性を否定することはできません。

しかし逆にいえば、“痛み”の説明も“代換え”策の提示もないままの「撤廃」だとか「上乗せ」だとかそうした議論にも、なにかついてゆけず……、つまり「現実性」という議論になってくると、これまでなにを彼らはやってきたのか、「踏まえて」判断するほかなかろう……などと思われて他なりません。

宇治家参去はそれが味方であろうが敵であろうが……もちろん言うまでもありませんが味方・敵という二元論自体が気にくわないという天の邪鬼ですが……、大声でがなるひとびとが苦手です。

「若さ」も「新鮮さ」も「熱意」も必要です。
何もそれを否定しません。
しかしながら、それだけでは問題も解決しません。

その意味では、本当に「現代生活世界の具体的な諸問題」と捉えつつも、極端な個の立場も、そして極端な全体の立場も退けつつ、「個人倫理と同様に、社会的、政治的な倫理学、社会と政治における倫理の哲学」を現場との往復関係で議論できるポリティクスというものが今求められているのだろうと思われます。

だからこそ、そのへんの議論にかかわり、実行力を行使できるようになってしまう立場に行きそうな人々にこそ「倫理学」は必要不可欠なのでしょう。

……ってことで?

金はないにもかかわらず……いわゆる高学歴ワーキングプアですから……アルコール消毒をしない限り眠ることがあたわずですので、とりあえず、本日は、久し振りの「浦霞」でもこってりとやらして頂き、冒頭に記した私的な課題は起きてから再度挑戦します。

では、おやすみなさい。

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