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健全な信のないところにはまことの知も存在しない

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 わが先人たちは異口同音に、信仰は知の始めであると述べている。なぜなら、どのような学問の領域にあっても、第一原理として、すなわちただ信ずることによってのみ把握せられ、しかも論究対象の知識を自らに基づかせる原理として、前提するものがあるからである。思うに、学識を得ようとする者は全て、これなくして進むことも不可能な、これらの原理を信じなければならないのである。イザヤも「汝等信ぜずは知らず」と言っている。それゆえ、信ずることは知ることのできる全ての事柄を含蓄している。逆に言えば、知は信の展開である。したがって、知は信によって導かれ、信は知によって拡げられる。それゆえに、健全な信のないところにはまことの知も存在しない。原理の誤りと基礎の脆弱さがどのような結論をもたらすかはもとより明白である。ところで、真理そのもの、すなわちイエスよりもいっそう完全な信仰はないのである。
さて、神の最もすばらしい贈り物とは正しい信仰であることを認識しない者があろうか。使徒ヨハネは、神の言葉が肉となることを信ずるんらば、われわれは神の子となるために真理に導かれると語ったのであるが、彼はこれを冒頭で簡単に述べた後で、知性が信仰によって照らされるようにと、この信仰に従って、キリストの多くの業績について述べている。そして、最後に結論として、「此等の事を録せしは汝等をしてイエスの神の子キリストたることを信ぜしめんが為なり」と語ったのである。
    --ニコラウス・クザーヌス(山田桂三訳)『学識ある無知について』平凡社、1994年。

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本日も無事故で市井の仕事が終わりましたが、いやはや酒の飲み過ぎでしょうか、理由はわかっているのですが、酷く足が痛く、ちと休憩中、介抱?しながらひとときを過ぎておりますと、販売の最前線?ですから、突発クレーム処理の依頼なんかがあったりしまして、なかなかゆっくりすることができません。

ちょいと売り場まで出て、丁寧に話を伺ってみると……これがクレーム?って思わざるを得ないような軽微な案件で、即クローズできましたが、一次応対した従業員には、結構な剣幕だったようでしたので「クレームの応対をお願いします」と連絡があったようですが、いずれにしまして、基本的には会って話してみないとわからない……、こうした現場におりますと、このことだけは痛切に実感する次第です。

ただ、こちらも「クレームです!」って振られているので、びくびくもんで対応しましたが、ゆっくりと話を伺うことで、相手も落ち着き、落ち着きどころが見えてきたのが幸いです。

クレームとは確かに「異議申し立て」になりますので、精確に状況を聞かないかぎり前へ進むことが出来ません。ですので、仰る内容を、随時、お互いに確認しながらやりとりをすすめることになります。

今回の事例は、とくに問題もなくクローズできたので幸いですが、最近実感するのが「ハナから疑ってかかる」というスタイルの事案です。

内容の高低浅深がありますので概括することはできないのですが、どこに「疑い」を向けるのか……その部分が負のスパイラルとなっていくタイプの事案の増加に正直なところ、びびってしまうところがあります、メディアなんかでいうと、いわゆるゴネ得とか、モンスターなんとやらというストロング・スタイルのそれですが、やはりここ数年、増加傾向にあるんだよなア~ということは体験的に理解しており、その応対には頭を悩ますものです。

たしかに、「問題」があるから「疑う」わけなのですが、それが過熱するなかで、「何のため」に「疑い」「憤慨」しているのか……その大切な部分がすぽっと欠落してしまい、疑いのための疑い、そして憤慨のための憤慨……そちらへ傾いてしまうきらいがつよくなっている……そのことだけは現場におりますと、頭を悩ませつつも、実感する次第です。
※いうまでもありませんが、そうしたプロの事例は除きますが……。

もちろん、「問題」があるからこそ「クレーム」という表題の付いた案件が出来するわけですが、「問題」「探究」という原点を見失ってしまうと、「問題」は解決し無いどころか、おおきくそれていって、結局の所自他共に不幸へと導いていってしまう……そんなところが実情なのでしょう。

デカルト(René Descartes,1596-1650)は周知のとおり、徹底的に懐疑のうえに懐疑を連ねましたが、決してブレない原点をもっておりました。

だから……その成果の良かれ悪しかれは別にしても……原点を完遂することができたのでしょう。デカルトにおいては、目的を見失った中途半端な「疑い」こそ唾棄されるべきであり、「やるならとことんやりましょうや」って感じで、ブレずに徹底的に探究したからこそひとつの成果が生まれたのだろうと思います。

デカルト以降、思想史を辿ると、探究の手段としての「疑い」がクローズアップされたわけですが、そのなかで、目的が棄却されてしまったように思われて他なりません。

手段の先鋭化が先行し、何のために疑うのか……その原点が見失われてしまったということでしょうか。

フランス現代思想をどっぷりやっていた自分がいうのも何ですが、そこに近・現代思想史(特に方法論)に対する居心地の悪さを……もちろんその批判精神を否定することはできませんが……感じざるを得ません。

これはひとえにフランス現代思想に起因する問題ではありませんが、「探究」のための「疑い」が、方法論として特化した結果に何がもたらされたのでしょうか……。

そのことを考えると、くどいようですが、「探究」「目的」を著しく欠いた「批判」のための「批判」、「疑い」のための「疑い」……という著しいシニシズムが醸成されただけではないだろうか、と思われて他なりません。

前日の日記で紹介したフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)の『デカルト的省察』をすこし“囓って”みましたが、フッサールに言わせると、「見せかけの報告と見せかけの批判の応酬でしかない」というところでしょう。

……ですから、こちらとしてももう一度「原点」?に帰るべく、神学関係の文献を読まねば!などと……クレーム応対後の休憩タイムに、ドイツの中世神学者(枢機卿)・ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus,1401-1464)を繙いたわけですが、ひさしぶりに刮目した次第です。

通常、特に哲学プロパーでやっていると、先に示したとおり、「徹底的に疑う」ことこそ「真の知」へと至る道である……というフシがありますが、結局のところそのスタイルは、唯一の道ではなく、選択肢の一つでしかないんだよな……などと唸らされてしまった次第です。

短絡的で恐縮なのを承知で踏み込めば、「真の知」へと至る複数の筋道においては、たとえば「徹底的に疑い所定の目的を達する」というスタイル……これがデカルトの方法的懐疑であり、カトリックよりの神学徒的判断をくだすならばこの亜流のシニシズムが不幸を加速させているわけですが……だけでなく、イザヤ(Isaiah)のいうような「汝等信ぜずは知らず」というスタイルもありなのだろうと……。

「懐疑」と対極にあるのが「信」なのでしょう。

これは「信仰」に限定されない莫大な沃野をひめている人間世界においては看過できない契機だと思います。

「信」……もちろんその究極は「信仰」なのでしょうが……あらずして「知」も「信頼」も「ヘッタクレ」もないのが人間世界の現実なのですが、そこが近代世界以降は、あまりよろしからざる価値機軸として隅っこにおいやられているような感が否めません。

もちろん、「信」とは窮極的には「無疑曰信」、西洋の文脈で言えばアンセルムス(Anselmus Cantuariensis,1033-1109)の「理解を求める信(仰)」ということなのでしょうが、当事者と対峙する対象としての「知」に関しては、何を根本におくべきか、ひとつの示唆をしているように思われます。

そしておそらくこの「無疑曰信」だとか「理解を求める信(仰)」というのは、戦闘状態の最前線に裸で歩んでいくような脳天気な「対象」に対する「信」ではありませんが……その意味では当事者は……通俗的表現でこれまた恐縮なのですが……「振込詐欺」的な籠絡にはまどわされない突き抜けた知見と感性が前提されることはいうを待ちませんが、いずれにせよ、「対象」に対してどのように向かいあっていくのか、ひとつの示唆を投げかけているように思われて他なりません。

「信」に基盤をおくのか……しかしその基盤としての「信」には「信」を成立させる必要不可欠な革命的警戒心は随伴しますが。
それとも……
「疑」に基盤を措くのか……しかしその「疑」は「疑」の「為」の「疑」ではないのかという点検が随伴させなければなりませんが。

……そんなところを昨今、考えさせれてしまいます。

もちろん、「不信の世」だからケ・セラ、セラ的に「全部が敵で疑ってよい」「ひとを見たら泥棒と思え」というのも偽ざる人情でしょう。

しかし、それで通してしまうのに違和感があるのも人情でしょう。

そのへんのことを最近、まさに生きているなかで、考えさせられてします。

……ということで?

冷蔵庫を除くと冷蔵庫内の秘境より、忘れてされていた晩秋の限定エビスを発見です。

ちょいと疲れを癒してからネンネしますワ……これが間違いなく足の痛みを加速させるのは承知ですが……。

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