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文科の哲学に入るべく決心した私が急に法科に移つたのは、偶然の事からである

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 中学四年頃から私の趣味が段々変り始める。此頃まで、雅文まがひの文字を並べたり、歌や俳句のまねをしたり、新刊の小説を濫読したり、殊に徳川時代の稗史小説をあさつたりしたものの、将来の方針としては理科大学へ往つて数学をやる積りで一貫していた。小説濫読の仲間に松田彦三郎・木村毅など云ふ親友があつたが、今はどうして居られるやら。但しこの木村毅は、昨今売り出しの木村毅君ではない。矢口親平君などからは大に近松を鼓吹されたものだ。近松だの、馬琴だの、其他その頃復刻された古文学類は、読まぬまでも、大抵私の文庫の中に収められて在つた。而して私の文章は、之等の文学書と共に又可なり沢山な数学書類もあつたのである。所が中学四年頃から考が変つた。急に文科の哲学へ這入らうと云ふ考になつたのである。
 私の先輩の某君は、高山林次郎が仙台二高教授としてやつて来たので自然之にかぶれたのだらうと云つた。併し自分では一年上級の土井亀之進君の感化だと信じて居る。此人は土井晩翠兄の従弟で、非常に天才肌の人であつた。高等学校在学中不幸肺を病んで夭折されたが、生きて居られたら偉い物になれたろうと惜まれてならない。高山林次郎の二高赴任は大変な評判であつたが、私の精神上には大した関係はない。寧ろ此時高山樗牛と一所に来任した佐々醒雪の方が、私に取つては重大の関係がある。但し之は私が二高に這入つてからの事だ。
 明治三十年九月私は二高の法科に這入つた。文科の哲学に入るべく決心した私が急に法科に移つたのは、偶然の事からである。永く鉄道の方に勤めて幾多の功労を残され、地震の年に物故された人に木下淑夫君といふがある。此人が梅蔵と云つてまだ二高に在学されてゐた頃、偶然私と下宿を同じうした。彼が二高を卒へて大学に行つたとき、私は中学の四年であつたと思ふ。仙台に居る時から彼は私に頻りに法科に行けとすゝめて居た。さて私が卒業して二高の文科に這入ると云つてやると、彼はわざわざ東京からやつて来て、熱心に法科をやる気はないかと勧める。其の理由には色々あるが茲には述べぬ。余り熱心なので、嫌々ながらウンと云つたら、同君自ら直に高等学校へ往つて私の願書を法科志望に改めたものと見へる。九月学校へ往つてそれを知り一寸驚いたが、強て嫌なら又移れると思つて、遂にその儘法科をやつてしまつたのである。斯んなことから一生の方針がきまるとは、人の運命も変なものだ。因に云ふ。当時私は無試験入学の得典を有して居た。勝手に願書を書き換へることの出来たのはその為めでないかと考へる。
    --吉野作造「少年時代の追憶」、『文藝春秋』文芸春秋社、一九二六年九月。

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吉野作造(1878-1933)で論文を書いているのですが、ちょうど第一章で取り扱う伝記的部分をこのところリライトといいますか、手を入れております。

吉野作造といえば、教科書的記述に従うならば、「大正デモクラシーの旗手」ということになりますので、大正論壇をリードした「デモクラット」とということになりますし、そのことは否定できません。

しかし、その歩みを振り返ってみると、「大正デモクラシーの旗手」だとか「デモクラット」として対象化される以上に幅広い側面が実際には見てとれますので……これは吉野に限らずどのような人物でも同じなのですがひとは、ひとを記述的に評価する際どうしても特定のキーワードで見てしまうものです……吉野自身の手になる「追想」とか、友人の筆による「吉野君の思い出」のようなものを読んでおりますと実にこれがおもしろく、時間を忘れてしまうありさまです。

経歴を振り返ってみると、仙台の第二高等学校を経て、現在の東大(当時の東京帝国大学・法科大学)へとコースをたどり、新進気鋭の政治学者として活躍します。キリスト教の影響もうけつつ、体制の枠組みのなかで現実になにができるのか……その探求が「民本主義」の主張へと結実していくわけで、たしかに「民本主義」には理論的限界もあり、それを批判者は“突いてくる”わけなのですけども、「現実になにができるのか」という実際的には大切なところを批判者はスルーしており、格闘したのは批判された吉野作造かもしれません。

さて、この吉野作造ですが、面白いことに……というか実はそれが吉野の人間らしさ・人間くささになってくるのですが……もともと「政治学者」になろう!と「決意」してその道を歩んだわけではないところです。

小学校、中学校時代……もちろん旧制ですが……は、数学が得意で(もちろんどこでも首席卒業ですが)、「理科」へ進もうかと考えていたのですが、学友などの影響で、「文科」で「哲学」を探求してやろうと思った矢先、高等学校(今で言う大学の教養課程)へすすむ際、「偶然の事」から「法科」へと「神学」しまったというエピソードには驚くばかりです。

ある意味では時代が「おおらか」だったという側面もあるのでしょう。
そして吉野作造自身が「物事」に「こだわらない」たちだったということもあるのでしょう。

しかし、吉野は二高へ進んだあと、「強て嫌なら又移れると思つて」いたわけでしたが、結果的には、法科で歩みをすすめ、「遂にその儘法科をやつてしまつた」わけです。

そこで思うのが……これまた印象批判で恐縮ですが……吉野自身も語っているとおり、「斯んなことから一生の方針がきまるとは、人の運命も変なものだ」というところです。

もちろん、何かをなそう、何か結果だしていこう、これで決めて進んでいこう!……という方向性ももちろん大切です。

そのことを否定はしませんが、実際には「それだけではない」のでしょう。

最初に思い描いたのとはちょいと違うんだけど……ということのほうが現実には多いのですが、そこでどのようにその現実と向かい合っていくのか……そこが大切なのかも知れません。

たとえば、大学に関してもそうなのですが、問題のある言い方ですが臆面もなく踏み込めば……「テキトー」に学部なり大学なりを状況に応じて選んでしまうことってあるかもしれません。

しかし、スタートとしては「テキトー」に選択したとしても、中身を「テキトー」にしないならば、ちがってくるのでしょうね。

吉野のエピソードは、別段「テキトー」に選択したわけではなく、ある意味では「事故」といってもよいのでしょうが、それがきっかけだったとしても、そこでどのようなコンテンツをつくりあげていくのか、そのことが大切なんだよね!ということを示唆してくれているように思われて他なりません。

自己に向かいあうエピソードに翻弄されるのか。それとも、エピソードすらをも自己自身の成長の糧に転換しゆくのか……字面では大いに理解できるのですが、そこをうまくやっていくのは至極面倒なのですが、そこにしか自己自身の内実を豊にしていく契機はないのかもしれません。

自分自身に「投げ出されてくる」問題というものは、理由もなくある日突然おとずれるもので、そこに不平をいうのは簡単ですが、不平をいわずにすこし「工夫」してみたいものです。

……ということで、小雪(1976-)の出ているサントリー「角瓶」の「角ハイボール」のCMを見ていましたら、無性に呑みたくなってしまいましたので、今日は「角ハイボール」で締めてみようかと思います。

もともとは日本酒党ではなく、「洋酒天国」ばりの「ウィスキー党」(スコッチ)でしたが、最近とんと呑んでなく、久し振りにやってみますと、ウマイものです。

しかしやり始めるとどんどん濃度が濃くなっていくのが玉に瑕……といったところでしょうか。

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