« 「知人ハ、起ヲ知リ、蛇ハ、自カラ蛇ヲ識ル」 | トップページ | 「人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ」! »

【覚え書】古在由重「思想の倫理」……その誠実、その勇気、その責任

01_img_0834
久し振りに哲学者・古在由重(1901-1990)の文献を紐解いていたのですが、よみながら、ふうむと重く唸らされてしまいましたので、〔覚え書〕としてひとつ紹介しておきます。

古在は、マルクス主義に立脚する思想家ですので、ローマ・カトリックよりのキリスト教思想を探究する宇治家参去とは、現実には「相容れない」部分も存在します。

ただ、そうした差異をひとつ乗り越える共通した「思想の“倫理”」というものが存在しないかぎり、思想が思想たりえないとの論には、ふうむと重く唸らされてしまうばかりで……。

まったく考える暇がなく恐縮ですが、ひとつどうぞ。

-----

  思想の倫理
 およそ思想というものは、盲目的な信仰や慣習とはちがって、一定の論理をそなえている。それはどんなときでも論証の力を欠くことはできない。これをぬきしては、もはや思想の名にあたいしないにちがいない。
 しかしながら、同時にまた思想がこのような論理性だけにはつきないことも、たしかである。それは、たんにそれぞれの学問のうえでの個々の理論、学説、主張とはちがって、ひとりの人間の全存在をつらぬく。それは、それをもつ人間のすべての態度、行動、人格の形成にあずからずにはおかない。それはただ書物や論文のなかにあるのでもなければ、またひとりの人間の頭のなかにとどまっているものでもない。それはいきものであり、それぞれの人間の全生活、全実践、全人格をつくりあげている。
 思想についてかたられるとき、問題となるのはそれの客観的な内容、それの是か非かだけではない。思想のありかた、思想のふるまいこそ、それにおとらず大切なのだ。2プラス2が4だということ。このことのただしさは、もちろん、それの客観的な内容だけで十分に保証されているだろう。けれども、ひとつの思想が問題となるときには、それのありかたこそ重大な関心をよぶ。
 たとえば、はたしてあるひとつの思想がなにか苛烈な条件(弾圧、戦争など)のもとでくじけなかったかどうか? ゆがめられずに、つらぬきとおされたかどうか? そのような異常な条件のもとで、それはどのようなありかたをしたか、どのようにふるまったか? これらの試練をとおして、はじめてその思想の性格と本質があからさまに眼のまえにてらしだされることがある。キリスト教者、自由主義者、社会民主主義者、共産主義者の思想の実体も、過去ならびに現在におけるこの歴史の実践をぬきにしてはあきらかにされない。
 したがって思想にむかっては、その明確な論理性だけではなしに、その誠実、その勇気、その責任が要求され、追求されなければならない。われわれが思想のいきた歴史をみるとき、もしこの不可欠な側面をみすごすならば、けっしてその実相はつかまれないだろう。一九三〇年代から四〇年代へかけてのあの苛烈な戦時下においても、この日本のいろいろな思想はさまざまな変形、ゆがみ、つまずきの歴史をたどった。その苦難な足跡はけっしてたんなる論理の過程ではなかった。その背景には階級的な力と力の格闘があり、精神の場面における抵抗があり、屈服があり、敗北があった。侵略戦争への思想の妥協は、しばしば論理のよそおいをつけておこなわれはしたけれども、それはむしろあとからかざりつけた一片の理屈にすぎない。それらをうごかしたのは、論理の力ではなく、かえって力の論理である。それぞれの個人についていえば、それらは動揺や失望や屈服の歴史にほかならなかった。
 思想のこのようなありかたを、かりにわたしは思想の「倫理」とよぼう。真にただしい思想は、その正確な論理性をふくむと同時に、あらゆる条件にたえぬく力づよい倫理性をもたなければならない。
    --古在由重「思想の倫理」、『思想とはなにか』岩波新書、1960年。

-----

……ということで、金曜は仕事が休みです。
基本的に学問の仕事も市井の仕事も、「対面」する「商売」ですので、臭いのキツイ食物は仕事休みの前日にしか摂取できません。

よってひさしぶりに餃子をやいて、労をねぎらいます。
ただ自分でいうのも何ですが、宇治家参去の焼いた餃子は旨いです。

02_img_0834 03_img_0848

|

« 「知人ハ、起ヲ知リ、蛇ハ、自カラ蛇ヲ識ル」 | トップページ | 「人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ」! »

覚え書」カテゴリの記事

コメント

 一般法則論のブログを読んでください。
   一般法則論も

投稿: 一般法則論者 | 2009年8月14日 (金) 03時41分

思想が正しいと思う確信は、思想の論理性と社会の様々な場面での実践に対して、自分の考え方と生き方にフィットしていると思うとき、思想の倫理性が生まれ光るのではないかと思う。しかし、1930年代の苛烈な弾圧に対して、フィットしていると考えるかは、今の自分にとって不明である。このことは、非倫理である暴力の前に、身は滅びても思想の倫理性を保ち続けられる思想として生きているのがマルクス主義ではないかと思う。で、はも

投稿: ペッタン | 2012年11月16日 (金) 01時21分

思想が正しいと思う確信は、思想の論理性と社会の様々な場面での実践に対して、自分の考え方と生き方にフィットしていると思うとき、思想の倫理性が生まれ光るのではないかと思う。しかし、1930年代の苛烈な弾圧に対して、フィットしていると考えるかは、今の自分にとって不明である。このことは、非倫理である暴力の前に、身は滅びても思想の倫理性を保ち続けられる思想として生きているのがマルクス主義ではないかと思う。で、はも

投稿: ペッタン | 2012年11月16日 (金) 01時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/30950249

この記事へのトラックバック一覧です: 【覚え書】古在由重「思想の倫理」……その誠実、その勇気、その責任:

« 「知人ハ、起ヲ知リ、蛇ハ、自カラ蛇ヲ識ル」 | トップページ | 「人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ」! »