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既に世界に生れ出たる上は、蛆虫ながらも相当の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯れと知りながら、此一場の戯を戯とせずして、恰も真面目に勤め」るのが蛆虫の本分である

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 このごろは、福沢のことをあまりやっていないのですが、終戦直後、私は一生懸命勉強しまして、「福沢諭吉の哲学」という小論を書きました。その中で要するに、人生とは畢竟、遊戯なのだ、戯れなのだというのが、彼のぎりぎりの人生哲学だ、ということを述べました。人生は遊戯であるということが、今日申しました文脈に言いかえるならば、人生は一つの芝居であるという命題と密接に関連があると私は思います。
 我々の生涯というものはウジムシみたいなもので、はかないものである。けれども、はかないからといって、そこから世間から、社会から逃避するという結論は出てこない。むしろその反対で、「既に世界に生れ出たる上は、蛆虫ながらも相当の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯れと知りながら、此一場の戯を戯とせずして、恰も真面目に勤め」るのが蛆虫の本分である--彼はこう言っています。
 人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを、戯れとせずして、あたかも真面目に努める。これは、人生とは何かという認識の問題だけではなくて、実践的な生き方と関係してくるわけです。彼に言わせれば、「本来戯と認るが故に、大節に望んで動くことなく、憂ふることなく、後悔することなく、悲しむことなくして、安心するを得るものなり」。本来、基本的に人生は戯れである、つまり、虚構である、フィクションである。こういうふうに認めているから、いざ大節にのぞんでも動揺しない。大きな精神的な振幅の揺れを防ぐことができる。精神的な揺れを防ぐというと消極的ですが、ポジティブに言いかえるならば、それが決断という活発な精神活動の秘訣なのだというわけです。「小事は重く思案すべし、大事は軽く決断すべし」という彼の言葉があります。大事は軽く決断すべしというのは、人生というのは戯れなんだという命題と非常に深く関係してくる。どうせ戯れなのだから、どっちへ転んでもたいしたことではない。それを、大変なことだ、と頭にきちゃうと、どう決断していいかわからなくなる。どっちへ転んでもたいしたことはないということから、サッと軽く決断できるというのが、彼の人生哲学です。
 「浮世を軽く視るは心の本体なり」、軽く見るその浮世を、あたかも真面目に、活発に渡るのが心の働きである。「内心の底に之を軽く見るが故に、能く決断して、能く活発なるを得べし。棄るは取るの法なり」。ここには彼の解釈した一種の仏教哲学的な考え方があります。ここでは仏教との関連とか、そういうことを、直接、私は問題にしているのではありません。いままで申しました、惑溺からの解放という、彼の基本的なテーマと密接に関連しているということを言いたかったわけです。
 つまり、こういうふうに、浮世を軽く見て、戯れとみないということになると--人生は戯れなり、という基本命題がなくなると、「事物の一方に凝り固まりて、念々忘ること能はず。遂には其事柄の軽重を視るの明を失ふ」と言っています。事柄の軽い重いを見る明を失うというのは認識の問題であり、前にのべた状況認識の問題です。惑溺からの解放ということの、ぎりぎりの底を突きつめていくと、人生哲学というのは、人生は戯れであるという命題に行きつくということになります。
 彼の場合は方法的にこういう考え方が貫かれています。たとえば、「唯戯と知りつつ戯るれば、心安くして、戯の極端に走ることなきのみか……」。これは非常に面白いのですけれど、ゲームに熱中しすぎると、ゲーム自体が惑溺のバリエーションになってしまうのです。たとえば、サッカーの試合なんかで、本当の喧嘩になってしまうというのは、ゲームがだんだん熱してしまって、ゲームだということを忘れてしまう。戯れが、いつのまにか本気になってしまう。熱中しすぎると、それ自身が惑溺のバリエーションになる。
 したがって「戯と知りつつ戯るれば、心安くして、戯の極端に走ることなきのみか、時には或は俗界百戯の中に雑居して、独り戯れざるも亦可なり」。みんながいろんな踊りをしている、いろんな戯れをやっている。これがこの世の世界なのです。みんながいろんな踊りを演じている。もちろん自分も演じているのだけれども、演じていることを意識化して、対象化するならば、踊りから抜けて、ときどき休息することもできる。
 人生は戯れの連続ですから、休息はあくまで休息であって、それ以上の意味を持たない。自分の人生だけは、人生を通じて醒めているのだと言っても、それは自己欺瞞になる。つまり、自分だけは醒めた観客なんだというのは、人生イコール戯れであるという基本命題に反した自己欺瞞になる。ただ、ときどき休んで他人の踊りを眺めるのも、自分の戯れを客観視する上で参考になる。戯れの極端に走らないで、俗界百戯の中に雑居して、独り戯れざるもまた可なり、といっているのであって、おれだけは戯れていないのだというのではない。自分もみんなと一緒に踊っている。ただ、そのなかで独り、戯れないようなことを、ときどきしているというわけです。
    --丸山眞男「福沢諭吉の人と思想」、丸山眞男(松沢弘陽編)『福沢諭吉の哲学 他六篇』岩波文庫、2001年。

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朝から文献と格闘しておりますと、マアそれが本職になるわけですが、いかんせん「引き籠もり」状態になってしまい、気分がループしてしまいますので、いかに暑いとはいえ、ちょいと外へ出てくるか!ということで、夕刻、大学へ返却するレポートを詰めた宅急便をヤマト運輸の営業所へ持ち込んでから、郵便局まで足を運ぶと、

「あと1セット」

……とPOPのついた切手シートを発見してしまいました!

そう、それは「慶應義塾創立150年記念」の記念切手シートでした。

小学生の頃、実は切手収集をしておりましたが……実はかなり集めておりますし、かなりの資産です……、中学生の頃から興味を無くし収集はしなくなりましたが、やはりお世話になった、そしてかけがえのない学友と巡り合わせてもらった「母校」には愛着があるものですから、なけなしの800円をはたいて、最後の「あと1セット」を購入した次第です。

なめ回すように見てから……もちろんは指紋はつけてはマズイですから手袋をはいてから見たわけですが……扁額へ御安置した次第です。

思えばいつの頃だったのでしょうか。

最初に福澤諭吉(1835-1901)に“出会った”のは小学生の中盤の頃だったかと思います。当然、当時の一万円札は福澤先生ではなく、聖徳太子(574-622)のそれだったわけで、現代の人々よりもなじみは薄かったのだとは思いますが、たしか学研か何かの漫画版の偉人伝のようなものを読み感銘をうけたのがその初太刀だと思われます。

中学生の頃でしょうか。福澤の自叙伝である『福翁自伝』を夏休みの「課題図書」のようなかたちでひもといた思い出がありますが、正直なところ、こんな凄い奴がいたのかと度肝を抜かれた次第です。

江戸幕府崩壊の前夜、上野の山で旧幕府軍と新政府軍が戦争をおこしましたが、それにも「左右」されず学問を貫きとおしたところに男気をみたものです。

そうした影響もあったのでしょうか。
高校は、いわゆる旧制中学になりますが、大学は福澤の創った大学へと想ったものです。

有形にしろ無形にしろ、やはり自分自身においては、福澤諭吉の人生行路、そして人生哲学が拭いきれないほど、影響を与えているのを実感する次第ですし、ある意味では、この浮世における生き方のひとつの模範として福澤諭吉の人生哲学を受容し、日々実践しているフシもありますから、福澤をなにしてやろうということには納得することが出来ず。。。

ですからどうしても福澤の思想を過小評価することはできません。

たしかに大家である倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)などは、福澤を先端思想の「紹介者」にすぎず「思想家」ではないと断じておりますが、それに頷くこともできません。

ただ、驚くのは……そして何度も紹介しておりますが……近現代日本の思想家においては丸山眞男(1914-1996)ただひとり、福澤の思想を高くかっているという点でしょうか。

そしてその核心はたんなる言語としての思想という次元に留まらず、「生き方」の問題において評価している点に驚くばかりです。

丸山眞男は、まさに福澤が語っている通りなのですが、その人生哲学のキーワードを「蛆虫」性と、「戯れ」に見出している点がその思想点検の愁眉になるのでしょう。

ハイデッガー的な存在論に従えばまさにいきものとしては「蛆虫」とかわらぬ存在が人間なのでしょう。

しかし、ハイデッガーと同じくそれだけでもないのが人間なのでしょう。

そこをどのように生きていくのか。

「既に世界に生れ出たる上は、蛆虫ながらも相当の覚悟なきを得ず。即ち其覚悟とは何ぞや。人生本来戯れと知りながら、此一場の戯を戯とせずして、恰も真面目に勤め」るしかないのでしょうねえ。

仮象を仮象として受容し、フィクションをフィクションとして受容し、決して実体化しない鷹揚さこそ、福澤の人生哲学の核心にあるのだろうと思います。

それがないと、対象に対して、余裕をもってまじめに考えるということはできませんですですからねえ。

真面目に遊びながら、真面目にほうけ、遊びながらちと真面目に向かいあってみる。

焦げる直前でフライパンをたたき、決して焦がさない……そのことが肝要かもしれません。

熱くなってしまうと焦げてしまう。
しかし、熱くなるのは「真面目にやばい」ですよってシニシズムしてしまうと、味わいがぼんやりとなってしまう。

そのへんの「奥の細道」がどうやら福澤思想の根幹にあるようなのですが、それを自宅でやってしまうとどうしても誤解されてしまうのが不思議です。

本日はたまの休日でしたので、きちんと勉強しながら遊んでいたのですが……

「研究活動しないで何やっているんだ……」

……などと恫喝されてしまう始末で、「わかっちゃいねえんだよねえ」と独り呟く宇治家参去でした。

しかし、最近、生きている実感として、フィクションをフィクションとして受容せず実体化させてしまおうという風潮、そしてその逆に実体であるものを実体として受容せずフィクション化させてしまおうという風潮が濃厚で、何か、先行きの薄暗さを感じてしまう次第です。

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