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さらば GR Digital 2

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 「哲学的」な思想群は、日常生活の諸観念や立法家および宗教的始祖たちの諸原則とは区別されうるその最終の文献的源泉を、ギリシャ古代に持っている。しかしそれは単にギリシャの思想家たちが、後代になって改めて独立して構成されたような経済的性質の認識を発表したのを意味するものえはない。むしろこれらのギリシャ思想家たちが次代に影響を与え、彼らの不断の、あるいは少なくとも常に復活してくる関係の鎖が、アダム・スミスの著作に役だった著者たちの大多数に、そうしてまたアダム・スミス自身にまで及んでいるという意味においてである。われわれにとって最も注視されるべきギリシャ影響は、その重要さの順序に配列するなら、アリストテレス(Aristoteles)、プラトン(Plato)、ストア学派(Stoiker)およびエピキュール学派(Epikuräer)からのものである。歴史的役割をしばらく別とすれば、彼らの提供したものの価値自体はもちろん過重に評価されるべきではない。彼らの折にふれての表現のなかから、後世の人が類似の響きを与える命題に結びつけたすべての内容を読み取ろうとするのは間違っている。それのみならず、経済的思考過程の域に達した若干の基本的命題といっても、はなはだ簡単なもので、経済過程の実際上の、半ば本能的な認識から自ずと生まれたものであるから、定式化されたことは特に記すにたるほどの業績ではない。最後にこれら古代人は一方において経済的問題を、例えば国家論の問題に較べて遙かに僅かしか考慮していなかった。また他方において次代のものは、これらの古代人が表面に立てていた諸問題よりも、経済問題に対しては相対的に遙かに多くの精力を注いできた。従ってこの二重の根拠からして経済学に対するギリシャの遺産は他の領域に対するものよりもいっそう僅かな役割しか演じていないのである。かの家計の自給自足を内容としているオイコスの経済(Oikenwirtschaft)が、しばしば言われるように、なんの「国家経済的」問題をも提供していないというのは正しくないし、またオイコスの経済は決定的な時期において、既にかかる議論が前提としているほどに支配的ではなかったのではあるが、いずれにせよ経済生活の問題における科学的思考がそれほど前進してはいなかったことも事実である。
    --シュムペーター(中山伊知郎・東畑精一訳)『経済学史 学説ならびに方法の諸段階』岩波文庫、1980年。

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こんばんわ。
宇治家参去です。

ちょいと一昨日、慶應キャンパスを訪問してからひらめき、古典派と異なり「均衡は沈滞なり!」と論じたシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter,1883-1950)を繙いております。

大学時代の一般教養の社会科学分野では「政治学」「社会学」「地理学」にてスルーしましたので、経済関係をまったく履修しておりません。

ですが、一緒に5年生?まで頑張ってくれた学友(商学部)……それはお互いの怠惰によるわけですが……が4年目(3年生)のときに、それまでおつりがくるほど遊んでいたにもかかわらず、学問に刮目してしまい、最後はゼミ長までやっていた友人から、「これ読めよ~」とか「マクロはなア~」とか「ミクロはなア~」などと経済のイロハを教示してくれる中で、勧めてくれた一冊があり、本日まで読んでおらず、これはマズイわな……ということで繙いた次第です。

まあ、遊びも後になって振り返ってみれば勉強ということで……それはそれで実に大切なのですが、その友人、就職してからも……大手メーカーですが……「おれはサラリーマンの営業が天職だ!」といって憚らない不思議な友人で、いまもって大切な友の一人であります。

でシュンペーターをひもとくとぎくり!

自分が経済感覚に疎いことはもとより承知しておりました。
数式が出てくるとまずアウトですし、勘定ができない。
そんで、なんとかなる……そうした憶見がかさなり、うまく経済状況を支配することができなかったのですが、その理由がわかった次第でして……。

もともとeconomyという言葉は、ギリシア語のοικονομία(家計)を起源としております。古代ギリシアの哲人たちの言葉は腐るほど、暗唱できるほど読んでおりますが、ちと誤解しておりました。

シュンペーターが「彼らの折にふれての表現のなかから、後世の人が類似の響きを与える命題に結びつけたすべての内容を読み取ろうとするのは間違っている。それのみならず、経済的思考過程の域に達した若干の基本的命題といっても、はなはだ簡単なもので、経済過程の実際上の、半ば本能的な認識から自ずと生まれたものであるから、定式化されたことは特に記すにたるほどの業績ではない。最後にこれら古代人は一方において経済的問題を、例えば国家論の問題に較べて遙かに僅かしか考慮していなかった。また他方において次代のものは、これらの古代人が表面に立てていた諸問題よりも、経済問題に対しては相対的に遙かに多くの精力を注いできた。従ってこの二重の根拠からして経済学に対するギリシャの遺産は他の領域に対するものよりもいっそう僅かな役割しか演じていないのである」という通りかもしれません。

たしかに古代ギリシアにおいては、家庭内経済=家計を論じるタームとしてオイコスという言葉が創案され、それが経済(学)の原語となっております。しかし、そこに由来した経済学とは、古代ギリシアにおける探究とは繋がりはまったくないことはないももの、似ても似つかぬものですから、……古代ギリシアの哲学者ばかりを熟読していた宇治家参去は、それをもって経済を論じていたわけですから、現実に自分自身が運用している経済感覚が麻痺してしまう……というのも筋道です。

とわいえ、いつになっているのも共通しているのは貧乏暇なし、ワーキングプアというところでしょうか。

ちょうど7月の頭に広角搭載のズーム有りのコンパクトデジカメが必要になり、PanasonicのFX-40というのを購入したのですが、3日目に紛失でがっくし。

その前に、半年前から使っていたCanonのIXY Digital L3というコンパクトデジカメは売却済みにて、手元にあるのが、自称勝負カメラとしていたRicohのGR Digital 2のみでして、この勝負カメラ、写りは最高なのですが、単焦点……つまりズームのきかない……広角28mmオンリーという通向けのカメラにて、仕事で使うにはどうも……という状況で、8月のあたまに、買っちゃいました。

それがCanonのIXY Digital 920ISという中堅コンパクトです。
昨年のモデルですが、広角からズームもOK。画像処理プロセッサーも最新のDIGIC 4 で価格もこなれていたので買っちゃいましたが……これが実に活躍しております。

しかし、勝負カメラのGR Digital 2と較べると、やはりかゆいところに手が届かず、趣味で使うには自分的にはNGで、仕事カメラとしては最高だな……というところです。

……しかし、貧乏なわが家において、一人でデジカメを何台も使うのは難題だと、匂いをかぎつけてきたのが細君です。

「使わない方を売りなさい」

……とのことだそうにて、

趣味よりも仕事の必然があるために、GR Digital 2 を売却することにしました。
たった1年しか使っていないのに!

いずれにしましても形而上学としてのオイコスは理解していましたが、エコノミーを理解していないが故の難事です。

さようならGR Digital 2 !

ちょうど後継機(Digital 3)が出たところなので、後継機を絶対買うからねぇ~(細君には内緒)!……とさよならした次第です。

むかし、デジタルマニア?の友人からいわれたことがあります。

「デジタル機器に資産的価値はないから、1年ぐらいで更新した方がいいよ」

そのときはぴんと来ませんでした。

が……ここ数年の生活を見ていると、やはり1年ぐらいで売却しては新しいのを買う!というのを続けておりますが、その意味では彼の予言は正しかったのでしょうか……。

いずれにしましても、売却したGRカメラに搭載されていたレンズは、実は銀塩カメラのライカ用に90年代末期供給されたGRレンズに端を発するレンズです。

こちらのアナログ機器は幸いに今のところ生活費の足しにと売却せずに済んでおりますが、デジタル版のGRは生活費の足しになってしまいそうです。

はやく貧乏から脱却したいものです。

実際にはグレート貧乏なのですが、あまり貧乏に見えないところは……人徳のなすところでしょうか。

いずれにしましても、経済学……シュンペーターから始めましたが丁寧に読んでいくとかなり面白いですね。

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