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しかし、困ったって、これは真実なのだ。真実だからこそ、諸君は困るのだ。僕は諸君をうんと困らせてやりたいのだ。なぜなら、それこそが諸君を最も益することとなるからなのだ。

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クサンチッペ 何者でもなくなんかないわよ。あたしはあたしで、絶対に他の誰かじゃないもの。
ソクラテス そう、そうなのだ。それは同じことの裏返しなのだが、皆にはこれがわからんのだ。いやこれはもう絶望的にわからんね。ハンチントン自身、自分が見事に矛盾することを述べていることに気づいていないのだ。
 いいかね、「文明上のアイデンティティ」と彼は言う。人は、自分が何者であるかということを何ものかにかにもとめるものだ、それがかつては国家やイデオロギーであったが、今後それは文明へと求められるだろう、なぜなら文明こそは、人が自ら選べなかった最も根源的なものだから、と。つまり彼は、人は自分には選べない文明を自分で選べる、と述べているわけなのだ。選べないが、選べる、とね。さてこれはどういうことなのか。つまり、人がその文明に属するのは、自分がその文明に属すると「思う」ことによってでしか実はないということを、この人は認めているわけなのだよ。
 とすると、自分を何者かであると思っているところのその自分は、何者でもないのでなければならないね。それをヘーゲルは「絶対精神」と言うのだ。僕等はクロアチア人、アメリカ人である以前に、等しく精神、何ものにも規定されていない絶対自由なる精神なのだよ。
 そうは言っても人間てのは気が小さい。自分を何者かと思いたい、その何者かに仲間だけで結束していたい。国益のかわりに文明益をもち出したって、事態は別に変わらないんじゃないか。何者かである自分のために、他人を蹴飛ばしても生きてやろうってこのことはね。何者でもなけりゃ、損得だってないんだから。この世の精神たちが残らずこの当たり前な事実に気づいて、理性の王国が地上に実現するまで、あと二千年はかかるかなあ。
クサンチッペ なに、しょげてんの?
ソクラテス いや、そうでもないけど。
クサンチッペ いいでない、どうせ変てこなこと言ってんだから。
ソクラテス だって、僕が言ってから二千年経ったって、やっぱりこうなんだぜ。
クサンチッペ 国があるんだから、戦争があるの、当たり前さね。
ソクラテス ああ、国ねえ。国なんてのも、人間の考えが作ってるにすぎんのにねえ。
クサンチッペ あら、でも、あんただって、アテナイの名誉だとか国家の正義だとかしょっちゅう皆にぶってるでないの。
ソクラテス うん、お前、いいこと言った。まさにそのことなのだ。
 僕が「国家」と言う。国家の「正義」と言う。いいかい、繰り返すよ、
 <自分自身のことを顧慮する前に、自分に属する事柄を顧慮しないように、また、国家そのもののために顧慮する前に、国家に属する事柄を顧慮しないように>
 さっき僕は、自分に属する事柄以前の自分そのものとは何者でもないと言った。では、国家に属する事柄すなわち国益以前の国家そのもの、とは何か。やはり何ものもありはしないのだよ。わかるかね、現代世界の諸君。
 しかし現に国家は在る、と皆は言うね。そう、確かに国家は在る。在ると信じて人々がそれのために血を流す。しかし、だ。国家を作っているのは一人一人の人間だ、一人一人の人間以外のどこか別のところに国家があるわけじゃない。なぜなら、人間を考えずに国家だけを考えることはできないのだからね。ところで、一人一人の人間とは、実は何者でもなかった。それなら、何者でもないところの人間たちによって作られている国家なんてものが、何ものかであるはずがないじゃないか。
 しかし君だって「国家」と言う、国家の正義と言うではないかと皆は言うだろう。そうだ、僕は言う、「国家」を、その正義をこそ考えよ、と。いいかね、僕は国家なんてものが、僕が何者でもない以上、何ものかであるなんて認めちゃいない。なのに、その何ものでもない国家のための「正義」と言う。これは、どういうことか。
 つまり僕は言っているのだ、国家とは何者でもないというこのことを正しく認識せよ。これが正義だ、「国家の正義」だ。何者でもない国家のための国益を求めるな。これが名誉だ、「国家の名誉」だ。国家を何ものかであると考えること、そのことによる行為、それは不正だ、国家に対する不正と不法なることは明らかなのだ。
クサンチッペ 要するに、みんなみっともないことすんなってことでしょ。
ソクラテス どうしてお前はそうやって一言で言ってくれるのかしら。しかし、要するに、そういうことなのだ。じゃ、ここはひとつ岩波文庫訳で朗々たる『弁明』といくか。
<私は諸君に断言する。私にして若しつとに政治に携わっていたならば、私はもうとっくに生命を失ってしまっていて、諸君のためにも私自身のためにも何の裨益するところもなかったに違いないからである。今私が真実を語っても怒らないように願いたい。諸君に対し、または他の民衆に対し敢然抗争して、国家に行われる多くの不正と不法とを阻止せんとする者は、何人といえどもその生命を全くすることが出来ないであろう、むしろ、本当に正義のために戦わんと欲する者は、もし彼がたとえしばらくの間でも生きていようと思うならば、かならず私人として生活すべきであって、公人として活動すべきではないのである>
 つまりね、政治家も民衆も、必死になって生きようとしているわけだろう。自分を自分と信じたり、国家を国家と信じたり、互いに蹴飛ばし合ったりしながらね。ところへ、僕みたいなのがのこのこやってきて、君たち何だって生きようとしているのかね、何のために生きるのかね、なんて言われた日にゃ、誰も困っちまうということなのだ。
 しかし、困ったって、これは真実なのだ。真実だからこそ、諸君は困るのだ。僕は諸君をうんと困らせてやりたいのだ。なぜなら、それこそが諸君を最も益することとなるからなのだ。
 さあ、まず、君は誰かを言ってみたまえ。
    --池田晶子「教授の警鐘『ハンチントン』」、『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』新潮文庫、平成十四年。

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これまで6年弱、短大で「哲学」の教鞭をとっているのですが、これまでの6年間、前期・後期とも同じ曜日の同じコマでした。

それが本年後期より、曜日は同じですが、一コマあとにずれました。
その「ずれ」にすこし彩り鮮やかな驚きを感じる宇治家参去です。

ただ、6年弱設定されていた授業時間……昼食後の3コマ目……に合わせて躰も設定されているようで、本日も同じ時間におき、大学へ向かい、1コマ余裕のある1日をおくらせて頂いた次第です。

例の如く、八王子駅周辺が路上喫煙禁止地域ですし、大学構内でも喫煙場所が限られておりますので、TULLY'S COFFEEの喫煙ルームにて珈琲で煙草をぷかぷかしてから、教員バスにて大学へ向かった次第です。

到着してから配布物をコピーしたり準備を整えていたわけですが、それでもやはり1コマ余裕がありますと、これは90分余裕がありますので、さきほど新設された大教室棟や広場をまわってから、ちょうどかきいれどきをはずれていましたものですから、新しく完成した食堂にてランチを取ってみました。

これまでですと、だいたい、駅蕎麦ですませて授業に向かうというパターンが殆どでしたが、やはり余裕があるとはいいものです。

日替わりランチ……本日はハンバーグ定食……をいただき、テラスにて喫食です。

へんな言い方ですが、目が飛び出るほど、ウマイというわけではありませんが、冷凍レトルトとか温食ですませているわけではありませんので、それなりに手が込んでい、これで450円ならばリーズナブルだろう、景色は良いし!……と思いつつ、授業開始前のひとときを堪能させて頂いた次第です。

さて……。

ゆっくりと余裕をもちつつ、準備万端で授業に臨んだわけですが、哲学の講義をするなかで、いちばん大切にしているのが「動執生疑(どうしゅうしょうぎ)」ということです。
もと仏教に由来する言葉ですが、相手の執着している心を揺り動かし、これまで当然そうだと思っていた考え方とか発想とかは果たして正しいのか? 本当はどうなのか?……と疑問を生じさせ、それにより、現状を点検してこなかった自覚を与え、そこからより高い次元へと目を開かせる変革原理といってよいでしょう。

アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)は、「哲学とは驚きから始まる」といい、ソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)は、そうした、考えるに値しないと思い込んでいる億見(ドクサ)を破壊するために対話を重ねたものです。

そうした示唆をあたえ、自分自身で現状を点検し、再び考えてみる……そこにもどることができれば、ひとは哲学し始めることができるのでは……そう思い、「動執生疑」をテーマとしております。

冒頭に引用したのは、哲学者・文筆家として知られる池田晶子(1960-2007)の、ソクラテスの対話篇風エッセーからの引用です。

プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)の手によるソクラテスの対話をよくぞここまで現代風に蘇らせたものだよな……と思われて他なりませんが、そこで語られているが如く……

「しかし、困ったって、これは真実なのだ。真実だからこそ、諸君は困るのだ。僕は諸君をうんと困らせてやりたいのだ。なぜなら、それこそが諸君を最も益することとなるからなのだ」

……ある意味では意地悪かもしれません。

しかし、これはこれなんだ!と思っている先入見を打破し、「うんと困らせ」やることによってこそ、その問題をもっと根源的に考え直すことが出来るのかなと思うからです。

まあ、親心とでも思ってくださいまし。

ソクラテスほど対話の銘酒……もとい、名手でもありませんし、パロールとしての講義もヘタクソですが、そうした先入見を穿つ、ひとつのきっかけとなる授業を展開していこう……といつも思っております。

しかし!!!!

授業を始める前に、学生が驚く前に自分自身が驚いてしまいました。

宇治家参去は、知的レベルと生活習慣がアル中の小学生?並ですので、いつも前夜寝る前に、鞄の中身を準備し、明日着ていく服装を衣紋掛けにかけて臨みます。

講義では基本的にパワーポイントを使用しますので、その使うファイルを外部ストレージ……私の場合は、16GBのSDHCカードに保存し、小さなUSBアダプター……にそれを収めて、大学の教室のPCから出力するようにしております。

以前は、自前のPCでやっていたのですが、最近、ちょいと面倒になり、教室に備え付けのPCにて対応するようにしました。
これにより、荷物がぐんとへり、こうしたSDカードを初めとする手軽な外部記憶装置の日進月歩の発達には手を合わせてしまうものです。

さて、授業開始10分前……。

PCを立ち上げ、USBスロットに差し込んだところ、ディスクが表示されません。

「ひょとして……」

「ひょとして……」

USBアダプタを開いて確認すると、そこにはなんとSDカードが入っていないではないですか!

人間が祈り始める瞬間というのはこういうひとときかもしれません。

「まぢっすか」

学生を驚かして困らせてやろうと目論んでいた教員が、自分自身の手によって驚かされ困らされてしまいました。

これが俗に言う「自爆」なのでしょう。

自爆のままほっておくこともできないので、脳みそフル稼動で代換え案を模索したところ、そういや前期のパワーポイントファイルを、学内のポータルサイトにUPしていたはずだ!

……ということを思い出し、それをダウンロードして……今日はガイダンスなので内容的にはほとんど前期のそれと大差がないので……活用した次第です。

足下をすくわれるというのはこうしたことをいうのかもしれません。

皆様もご注意下さいまし。

……ということで明年1月まで、眠りを覚ます“虻”と任じたソクラテスの如くの対話=講義をがんばります!

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