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「世界につうじた」ひととは、社交界でのふるまいをこころえている者である

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 ことばの自然な論理に、世界のこの意義がはっきりと表現されている。「世界」の実質的な意義は、本質的にいって人間的な、あるいは人間学的なものなのである。
 「世界につうじた」ひととは、社交界でのふるまいをこころえている者である。「世界」通は共に在る人間という意味での世界を熟知した者、「世界」知らずはそれを知らない者のことである。「世界」を逃れる者とは人間を避けるひと、「世界」好きは共同相互存在におけるじぶんの生を享受するひとである。「世界」を軽蔑するひとはじぶんと共に在る人間の価値評価を低くみつもる者であり、「世界」がそのことについて口にするだろうことがらに聞く耳をもつひとは共に在る人間に耳をかたむけようとするひとである。あらゆる世界(すなわち、みな)、世界の歴史、男性の歴史、女性の歴史、上流世界、高級娼婦の世界といった表現が--こうした例はいくらでも増やすことができよう--ことがらにそくして示しているのは、「世界」が人間に対して法的に画定される客体でも、空虚な、人間にとって異質な滞在の場所でもないことである。世界とは、個々人の生を規定する共同世界、個々人にとって同種で同等な共同世界なのである。
 人間的な現存在はそれが「世界のうちに在ること(イン・デア・ヴェルト・ザイン)」によって規定され、世界内存在(イン・デア・ヴェルト・ザイン)は他方「共に在ること(ミットザイン)」により規定されている。本来的な共同存在はさらに互いに共に在ること(ミット・アインアンダー・ザイン)を意味し、共同相互存在はまた「共に生きること(ツザメン・レーベン)」と同義である。そうであるがゆえに、一般的な意味での「世界」がすでにそれ自体として(eo ipsp)共同世界を示しているのとおなじように、一般的な意味における「生」がすでにそれ自身として(エオー・イプソー)共同的-生を意味していることがあらかじめ見つもられよいだろう。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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恐縮ですが、このレーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)の人間・世界論に関しては、再度詳論させて頂きます。

この一年で出版された人文科学系の邦訳書では群を抜いているだろう……そう思われて他なりません。ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の弟子として知られる人物ですが、このところ通読すると実はハイデッガーにはない“開け”と“リアリティー”があるのでは……三度読み返しながらそう思わざるを得ません。

ハイデッガーに対する批判で正鵠を得ているのは、自ら血を流したレヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)をおいてほかにはおりませんが、それとはまったくことなるアプローチにおいて、“存在論”の視野を開拓したのはレーヴィットではないか……そう思われてほかなりません。

……で、このことを、わが家のジュウシマツのピーチャンとの関わりから、実は詳論したい!のですが、詳論しようとする前に、別のアポイントメントが入りましたので、先にそちらを詳論といいますか、記録にのこしておきます。

宇治家参去さんが市井の職場で昔、一緒に汗を流したバイトくんが居ます。
これまでもときおり紹介しており、今はこの職場を辞めておりますが、音楽でいっちょ、やってやろう~っていう若者にて……、今でもその縁から種々付き合いといいますか……、自分自身の中では、彼がメジャーでビューするまでは、そして人生を真っ当=死ぬまで?は関わっていかざるを得ない……しかしそれは義務ではありません……という人物が居ます。

ちょうど、ここ一ヶ月ほどなかなか連絡がとれず、今日もだめかな~って思って、携帯電話へ連絡をいれると、……例の如く無反応!

もういっぺん入れてから、メールを頂戴し、「今は取り込み中なのであとで」

……というメッセージを頂き、こ1時間してから連絡が久し振りに取れた次第です。

「おめえ、生きんのか?」

「生きていますよ~

「最近どうよ」

「飲みにでも行きます?」

……というながれになりましたものですから、レーヴィット、ハイデッガー、レヴィナスが論じることができます、スイマセン。

で……。

軽~く逝ってきた次第です。

どうやら、はじめての彼女と別れたようで……。

ちなみに一年前にはじめて彼女ができましたっーって!お祝いもしました。

ちょうど、こちらが「生きているか~」って電話をかけていたときがその現場だったようで……。

スンマセン!

詳細は置きますが……。

「別れ」ではなく、ひとつの「スタート」だったようで、安堵といいますか……これからが勝負だよな!って杯をかわしつつ健闘をたたえ合った次第です。
※私自身に対するエールとはなにかっていわれると……ひとまず措きます。

彼とは二月に飲んで「おめぇよぉぉぉ」ってボッコボッコにしてきたのですが、今でもボッコボッコにしたい状態であることは否定できません。

しかしボッコボッコになる状況から、今回は、どのように立ち上がっていくのか……。

立ち上がるのは実に冷酷ですが、本人自身の問題に他なりません。

しかし、その極限的フォローならば……別に何をするというわけではありませんが……関われます。

ともあれ、数ヶ月音信不通でしたので、安堵しました。
しかし、これからもかかわるなかで自他の成長を創っていくしかありません。

そんなこんなの飲み会をしつつ……今日も起きるのがはぇぇんだよなァ~とぼやきつつ、自宅にて“第二陣”を楽しんでいる宇治家参去です。

しかし、若いっていうのはいいですねぇ。
失敗も成功もすべて自分自身の糧となります。
そこからどうしていくのか、どのように組み立てていくのか、寄り添いながら、考えさせてくれる機会を与えてくれる宇治家参去は幸福かもしれません。

まさに……

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 人間的な現存在はそれが「世界のうちに在ること(イン・デア・ヴェルト・ザイン)」によって規定され、世界内存在(イン・デア・ヴェルト・ザイン)は他方「共に在ること(ミットザイン)」により規定されている。本来的な共同存在はさらに互いに共に在ること(ミット・アインアンダー・ザイン)を意味し、共同相互存在はまた「共に生きること(ツザメン・レーベン)」と同義である。そうであるがゆえに、一般的な意味での「世界」がすでにそれ自体として(eo ipsp)共同世界を示しているのとおなじように、一般的な意味における「生」がすでにそれ自身として(エオー・イプソー)共同的-生を意味していることがあらかじめ見つもられよいだろう
    --レーヴィット、前掲書。

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ですから--。

ですから、宇治家参去が酒を呑むとやんちゃになってしまう!……という結論でどうでしょうか。

ともあれ、彼の健闘を祈りつつ、その祈りを固める仕込に専念しますですわ。

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著者:レーヴィット
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