« 「他人がはたらいているときに休む」はずが・・・ | トップページ | 秋期スクーリング出講依頼到着ス:談話と演説とに至っては必ずしも人と共にせざるを得ず »

無強制の状態に至らんが為めの我々の努力に無限に附き纏ふもの

01_img_0471
-----

 無強制の儘では社会の秩序を維持せらるゝといふ理想的状態が永久に達せられない以上、而も社会には一定の秩序を律するの必要ある以上、今日進歩発展の途中に於て、我々には即ち未だ理想的状態にまで達しない不完全なる我々に取つては、社会の一員として我々の生活を規律する為めに、此にどうしても国家的規範が要る。而して国家的規範の重もなるものは、道徳、風俗、習慣、其の他色々のものがあるが、其の外に我々の団体生活を外部的統制する一つの仕組みが必要である、即ち強制組織が必要である。此の我々の団体生活が強制組織に依つて統制せらるゝ方面を、即ち国家生活といふのである。政治とは畢竟此の統制の現象をいふに外ならない。
 斯う考へて見れば、我々の団体生活の理想は即ち最後の理想は、無強制の状態である。けれども現実の団体生活に於ては、どうしても強制が必要である。そこで我々の国家生活又は政治生活は、無強制の状態に至らんが為めの我々の努力に無限に附き纏ふものであつて、言はゞ此の国家生活又は政治生活の無限の継続の上に、我々は無強制の状態を求めなければならない。故に理想的の意味に於ては、我々の国家生活は第二次的のものである。けれども現実の生活に於ては、我々の国家生活は第一次的のものと謂つて宜い。此の関係を適当に了解せずして、唯だ今日の強制組織が必要だといふ方面のみを取れば、即ち偏狭なる国家主義となる。国家が大事だ、強制組織が大事だ、否な統制組織其のものが総てだといふ処からして、其の統制組織其のものゝ為めに、一切万事を切り盛りする所から、調度医者が病人の多からんことを望み、坊主が死人の多からんことを欲すると同一の状態を来たす。例へば軍隊は何の為に要るか、畢竟社会の為めに要る。之を忘れて軍隊が必要だといふことのみを考ふれば、軍隊の為めに社会の利益を犠牲に供し、時には軍隊精神の鼓舞作興と称して、無益に社会の平和を蹂躙せんとするに至ることもある。我々は現実に於て国家的強制組織の必要を此処まで高調されないけれども、それは我々の理想から云へば、畢竟第二次的のものであつて、此の点に於て所謂無政府主義者の説く所には、亦一面の真理あることを忘れてはならない。唯だ従来の無政府主義は、此の畢竟理想を語る所のものをば、我々の生活の中に面のあたり実現が出来ると考へた点に重大な誤謬がある。
    --吉野作造「国家と教会」、『新人』一九一九年九月。

-----

関東大震災(1923)の折り、陸軍や憲兵隊の一部には、その混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を一掃しようとする動きがあり、実際にはアナキストの大杉栄(1885-1923)らは虐殺されてしまったわけですが、そうした対象者の一人としてリストアップされていたのがクリスチャンデモクラットの吉野作造(1878-1933)であります。

現実には、吉野はその暴挙から免れることができましたが、吉野の言説をよくよく読んでいると、マア、これは当時の世の中であればかなり踏み込んだ発言をしているよな、ということも理解できます。

戦後民主主義が興隆するなかで、吉野作造を初めとする大正時代のデモクラットの言説は、戦間期にかぼそくひらいた徒花的現象にすぎない、とその理論的限界を指摘する趣が顕著ですが、はたしてそれが総てなのだろうか……読み直すたびその問題を突きつけられてしまいます。

例えば、国家観の問題ひとつをとってみても、吉野の卓越性が理解できるというものです。当時の大多数のひとびとが、国家を何かできあがったシステム、普遍・不動の原理、不敗せざる神話によって基礎づけられてた構築物と見て、いわば国家それ自体が自己目的化されるべきとの論調が殆どでしたが……残念ながら今でもその傾向は見え隠れしますが……、吉野によれば、国家とは何か神話とか伝統に依拠した不壊不敗の原理でもなければ自己目的でもなく、自己完結するものでもありません。

それはどこまでいっても絶えずあり方の更新が必然的に要請される「人工物」にすぎません。、B.アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson,1936-)のいう「想像の共同体」ということでしょう。

吉野は国家を永遠不滅の理想とみることなく、時間的にも空間的にも相対的な「地の国」にすぎないと論じておりますが、体制補完構造の日本で、そうした言い方をするのはかなり勇気が必要とされたわけなのですが、堂々と言い切るところには、実に驚かされてしまいます。

吉野は、国家とかシステムとか政治とか、そうした人為のものを、絶対化・目的化することを徹底的に拒み続けたわけですが、おそらくそうした「地の国」の出来事を相対化させるキリスト教信仰に基づく「神の国」の理想をどこまでも、地上に実現せしめていこう……という強い意志があったからではないだろうか……などと思われてしまうわけですが。

だからこそ、吉野においては、国家のシステムとか体制のあり方がどうのこうのというよりも、そもそもそれらが虚仮威しに過ぎないものであるとすれば、虚仮威しのシステムを「利用」してまでも、民衆の幸福増進出来るものへ脱構築していく方が価値的ではないか……そのために何ができるのか……それを模索した歩みのように思われて他なりません。
だからこそ主権の所在がどうのこうのよりも、現実の目の前にいる人間ひとりひとりに視点をあわせた現実論を「神の国」の理想との相関関係から語り続けたのかも知れません。

このところ屢々吉野の文章ばかり読んでいたのですが、そのあたりを思った次第です。

さて……
昨日仕事をしていて実感したのですが、何本かこれまでも論文を書いておりますが、最近発覚したことがひとつ。

だいたい紀要とか学術雑誌掲載系の論文は40-50枚程度の規定が多いのですが、40-50枚程度が実は一番難しいのではないかということです。

自分の場合(自分だけではないと思うのですが)、本論に言及するために予備的考察を2-3やってから本論へ繋ぐというパターンが多いのですが、それをやりはじめると、100-150枚とかになってしまいます。

逆に言えば、長ければ長いほうが楽なのかもしれません。

それでも規定がありますので、ぢゃあどうそれを割愛するのか……というのが大問題で、いつもそれに頭を悩ませております。ばっさり割愛したところと全体との調整とでもいえばいいのでしょうか。

それができないと、だいたい「その1」とか「その2」でやっちゃうのですが、受けとる側は、「その1」とか「その2」ではなく、別々のものとして出してくれって傾向が強く、例の如く今回も悩みつつ、組み立てなおしていると、どうやら100枚超えそうで……。

ちょいと、ざっくり割愛して、本論の中に「議論するための前段階の議論」を織り込んでいく必要がありそうです。

書くことよりも、この構成の方が難しいですね。

……というところで?
昨日は黒ビール「東京ブラック」((株)ヤッホー・ブルーイング)をやりましたが、久し振りに本格的エール・ビールの黒を堪能させていただきました。

夏場よりも秋とか春にこそ「黒ビール」と思うわけですが、エール・ビールならではの華やかな香りと深いコクの「ブラック」の味わいには、ひさしぶりに目が開かれた次第です。

02p02l 03_img_0493

|

« 「他人がはたらいているときに休む」はずが・・・ | トップページ | 秋期スクーリング出講依頼到着ス:談話と演説とに至っては必ずしも人と共にせざるを得ず »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/31527454

この記事へのトラックバック一覧です: 無強制の状態に至らんが為めの我々の努力に無限に附き纏ふもの:

« 「他人がはたらいているときに休む」はずが・・・ | トップページ | 秋期スクーリング出講依頼到着ス:談話と演説とに至っては必ずしも人と共にせざるを得ず »