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人間とは「その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るもの」

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 第二章 事実性の理念と「人間」の概念(1)

 事実性=そのつどのわれわれ自身の現有、という解釈学の主題を指示する規定においては、「人間的」現有あるいは「人間の有」という表現は原則として回避されてきた。
 「人間」についての諸概念、すなわち第一に理性を賦与された生物という概念、第二に人格、人格性という概念は、そのつど一定の仕方で予め与えられている世界の対象連関を経験し顧慮することにおいて生じてきた。第一の概念は、植物、動物、人間、霊、神という対象系列によって示される事象連関のうちに属している。(そのさい、現代的な意味での特に自然科学的および生物学的な経験が考えられる必要はさしあたりまったくない。)第二の概念は、神の被造物としての人間にそなわった資質を旧約聖書の啓示を導きとしてキリスト教的に説明するさいに生じてきた。二つの概念規定において問題となるのは、予め与えられた物のなんらかの資質を確定することであり、ついでこの確定にもとづいて後からある一定の有の様式がその物に与えられる、あるいはむしろ、その物は無差別のままある実在的有のうちに放置されるのである。
 ちなみに、「理性を賦与された存在」という概念については用心しなければならない。それはロゴスヲ持ツ動物〈ζψονλογον εχον〉の決定的な意味を言い当てていない。ロゴス〈λογοξ〉はギリシア人の古典的、学問的な哲学(アリストテレス)においては決して「理性」をではなく、話し、談話を意味している。したがって、人間は、その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るものである(2)。すでにストア学派において諸概念の平板化が始まっており、ヘレニズム期の思弁や神智学においては、基体概念としてのロゴス〈λογοξ〉、ソフィアー〈σοψια〉、ピスティス〈πιστιξ〉が浮かび上がってくるのである。
 今日行きわたっている人間の概念は、たとえ人格の理念がカントやドイツ観念論との関連で拾い上げられようと、中世の神学との関連で拾い上げられようと、上述された二つの源泉に遡るのである。
(1)ハイデッガーによる見出し。
(2)「一九二四年夏学期〔の講義〕がいっそう適切に〔に述べている〕」(ハイデッガーによる後からの補足)。
    --ハイデッガー(篠憲二、エルマー・ヴァインマイアー、エベリン・ラフナ訳)「オントロギー(事実性の解釈学) 第2部門 講義(1919-44)」、『ハイデッガー全集』第63巻、創文社、1992年。

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マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の講義録をこのところさやさやとめぐっております。
ちょうど西洋における人間観について言及された部分がうえの一節ですが、ハイデッガーのいうとおり、西洋を根源的に規定しているのは、ヘレニズムとヘブライズムになるのでしょう。

前者を代表するのがアリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)に見られるような「ロゴス」論であり、後者を代表するのが、聖書によって啓示される「ペルソナ」論ということになります。

ハイデッガーも指摘しているとおり、通常このロゴスは、現代世界においては「=理性」という意味で訳されますので、人間とは理性的な動物である、との謂いで広く流通しております。
しかし、このロゴスという言葉は、決して「『理性』をではなく、話し、談話を意味している」ところに源をもっているようです。

その意味では、人間の能力のうちの「理性」の側面にのみ重きをおいたものというよりも、話すことができる、談話・談笑できるといったひろい人間の力に人間の人間らしさをみいだしたものであると見ることも可能でしょう。

だから人間とは、「その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るもの」とハイデッガーが指摘しているとおりです。

さて日常生活世界を振り返ってみますと、声をかけやすい人と、声をかけにくい人というのがあるのではないでしょうか。

自分自身は意識したことがありませんが、状況論的には、宇治家参去はどうやら前者のようです。

本人の自己認識としては「こむずかしいナイス・ミドル」というものがありますので、後者ではないだろうかと思うわけですが、状況はまったくちがうようにて、いろんなところから、まさに広義でということになりますが、どうやら「声をかけやすい人」「声をかけやすい相手」として認識されているようです。

どちらがいいのか、どちらがわるいのかという真偽論的な話題ではありませんし、その是非を問うことにも興味がありません。

ただ、本人の思惑とも別に、実際には、まさに「声をかけやすい」存在であることは否定のしようがなく、ときどき、そのあたりに当惑してしまうことがしばしばあります。

仕事をしていると、よく声をかけられます。

これは市井の仕事でも学問の仕事でもそうです。
質問のレベルから、こまかな問いかけ、そしてレゾンデートルをめぐる問いと幅広い「声」が「かけらる」わけですが、もともとは、どちらかといえば、自己認識にもあるとおり、「(しょうじき)あまり声をかけて欲しくない」と臨むたちなのですが、その性癖が外部的圧迫からという契機になるのですが、無理矢理こじ開けられているような気もします。

もちろん世界に対しては「閉じた」あり方よりも「開かれたあり方」というほうが、ふさわしいのですが、これにはなかなか、体力、知力、精神力とすべてが動員されてしまうので、実に結構、疲れます。

だから、「声をかけて欲しくない」と思ってしまうわけですが、それでもやはり「開かれたあり方」の方がいいよな~とどこかでは思っておりますので、「そのままでもマズイ」という違和感があります。

ですからそのいみでは、現在の職場環境(学問・市井の職場含め)で、ときどき「無理矢理こじあけられている」というのは、よくよく考え、吟味するならば、ありがたいことなのかもしれません。

その語らい、応対のなかで、「人間は、その世界を語りかけられたものという様式において持つところの有るものである」というくだりを生身で体感、実感しながら、言説へと記述していきたいものです。

さて、一昨日から、首がきわめていたく、まわすことができません。

最初は……、寝違えたのか!

……と思ったのですが、寝違えた場合、もっとも多いのが肩とか首の一方の筋が痛むというパターンが殆どなのですが、今回はそうではなく、両側面というより後ろ側全部という感じです。

感覚的には持病のストレート・ネックではないようなので、昨夜は様子をみて、

「まあ、一杯飲んで消毒して爆睡すれば、解決するだろう」

……と思って、寝たのですが、症状が好転する気配なし……という様子です。

赤貧洗うが如しですので、病院にもいけないのですが、ちょいと本日は、いたわりながら、これから仕事へ行こうかと思います。

ついでに、今晩のアルコール消毒は「念入り」よりも「軽め」の方がいいかもしれません。

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