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“高慢な自力性”でもなくガチガチの“服従”でもない、戦いとる一致

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 宗教家はおそらく、哲学することによって神と関係するところの個人の高慢な自力性を非難するでしょう。彼らは啓示された神に対する服従を要求します。そこで彼らに対してつぎのように答えられるのであります。すなわちてつがくする個人が信仰するのは、神が欲することを客観的な保証によって知るのではなく、むしろたえざる冒険において、神に従うことを心の底から決断する場合なのであります。神は個人の自由な決断によって働くのであります。
 僧侶は神に対する服従と、教会とか聖書とか、直接の啓示と見なされる戒律などのような、この世界の名かで現れている審判に対する服従とを、混同しているのであります。
 究極において、この世界における客観的な審判に対する服従と、根源的に経験される神の意志に対する服従との間に真の一致が可能ではありますが、この一致は戦いとらねばならないものなのであります。
 もし個人によって経験される神の意志が、一方的に客観的な審判を無視するならば、一般的なものや共通的なものによる吟味を回避しようとする恣意へ陥りやすいのです。ところがそれと正反対に、もし客観的な審判が一方的に、個人によって経験される神の意志を無視するならば、現実そのもののうちから神の意志を聴くことによって、たとえ客観的な審判に反しようとも、神に服従するという冒険を回避しようという誘惑が生ずるのであります。
 信頼するに足る権威の法令や命令においてささえをつかもうとする場合には、それを誰から聴くかという当惑が存在します。それに反して、現実全体のうちから聴くことのうちには、個人の責任負担の飛躍的なエネルギーが存在するのであります。
 人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによるのであります。
 人間であることは人間となることであります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年。

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本日は社会的には連休なのですが、講義日程の都合上、短大の哲学の授業が組み込まれております。

そのことはまったく問題がないのですが、いつも講座を立ち上げる前に、再読するヤスパース(Karl Theodor Jaspers,1883-1969)の『哲学入門』をきちんとひもとけていないことにあせり、他行を後回しにして、再読に専念する宇治家参去です。

ドイツの哲学者・ヤスパースが、一般の人々に向けてラジオを通じて語ったものがまとめられた一冊ですが、クロニクルな哲学史というよりも、哲学は何を目指し、学ぶことによって人は何を獲得できるのかという要点が平易な言葉で語られており、いつも再読するたびに発見の連続で、こういう本を「古典」と呼ぶのでしょう……などと思います。

さて……。
職業宗教家の服従を求める言説の心根もわからなくはありません。
そして、啓示されたコンテンツに対する服従を欠いてしまうと宗教は自壊してしまいます。

またそれと同じように、個々の信仰者がなにか「客観的」とされる公定をまったく問題にしないのであれば、それは恣意的以外のなにものでもありませんが、それと同時にその恣意性をさけつつ、「客観的な審判に対する服従と、根源的に経験される神の意志に対する服従」の一致を「戦いとらねばならない」ことも理解できます。

しかし、現実の言説にはどちらかの高調という嫌いが多いのですが、その雑音をかきわけながら、みずから「戦いとらねばならない」ならないのが、その真相なのでしょう。

……そのあたりをヤスパースはうまく語っているなア~と驚かされてしまう次第です。

さて、数時間後には起床せざるを得ませんので、ぼちぼち沈没しますが、久し振りに手に入れた超辛口「鳴門鯛」(本家松浦酒造販売・徳島県)でやっているのですが、相手はこちらも久し振りに手に入れた無銘ですが、利き酒用の蛇の目猪口です。

どこかで見たような……といいますか蔵元ではまさに利き酒用に使う奴ですけども……猪口ですが、なんとも味わいを醸し出してくれるといいますか……酒がすすんでしまいます。

首まわりがガチガチで相変わらずイタイ……寝返りも打てず首の移動は躰の移動と同時にやらねばなりません!……のですが、軽度のアルコール消毒のつもりが重度のアルコール消毒になってしまいそうです。

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著者:ヤスパース
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