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野狐禅などをやる人は、往々それを履違えて、無闇にその意味を脹らますことがある

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 人格の意義
 西洋人は、パーゾナリテーを重んずる。パーゾンすなわち人格である。日本では人格という言葉は極めて新しい。私らが書生の時分には、人格という言葉はなかった。パーゾンという字はただ「人」と訳していた。しかし子細に調べると、メンという意味とは違って「人たる」という字である。格といっても資格というような意味は毛頭持たない。孟子が度々いった「人は人たり我は我たり。」の意味を持つその人格である。
 ところが日本では、この人格という意味がよくわからない。私の知っている人で、新しい頭を持った学士が、田舎へ引込んで村の改良を企ろうとした。然るに、その周囲の人々は、「お前さんも大学を出て学士になったのだから、東京でお役人にでもなったらどうだ。そして十分人格をつけて来い。」
という、笑話にもならない実話がある。おそらくその人が役人にでもなったら、それこそその人は持前の人格を落とすことになるであろう。そういう例を見ても、人格という言葉は、言葉それ自体すら十分わかっていないのである。
 西洋では、基督教でいう三位一体--スリー・パーゾンス・イン・ワン、三人のパーゾンが一つの神となりとの、教義がある。この言葉の真意は、私にもよくわからないが、いわゆる三位一体なるものが、基督教の主なる教義になったがために、誰人も基督教を信ずる者は、パーゾンということについて、相当に知識を得なければなくなった。中古の宗教論を見ると、必ずパーゾン即人格論というものがある。仏教にも人格ということはあるようであるが、これはむしろ消極的である。
 とにかく西洋では、宗教の関係上、パーゾンということを頻りに説いたものであるから、一般人にもその意味が薄ぼんやりとわかっていた。なおその上に、これが宗教から来たために、「神もパーゾン、我もパーゾン」といって、非常に人間の位を引上げ、人格といえば、いつも神に対する言葉のようになっている。そして全智全能なる神と、何事にも至らない時分のパーゾンとを終始較べて、己をより向上させることに努めている。
 ところが似非パーゾン論者や、野狐禅などをやる人は、往々それを履違えて、無闇にその意味を脹らますことがある。
 「俺も同じ人間だ、何だ詰まらない……」
 というようなことをいって、世間を甘く見たがる。
 「何だ総理大臣が……」
 というようなものもある。それらの人は、パーゾナリテーということを、
 「俺も人なら彼も人だ。彼の方は幸いにしてどこからか金を持って来て、政党の首領になったから、総理大臣になったのである。人格のためになったのではない。」
 というように考え、いうことは随分勇ましく聞えるけれども、用うる言葉は乱暴である。これは主として野狐禅をやった人によくある。これに反して、パーゾンを神に較べるものは、パーゾンだといって威張り散らすようなことはなく、常に謙遜の態度になり勝である。つまり、神の性を持っていると信じ、しかもこの性を持っていながら、神々に比較して己を考える時、己はいかに不完全な存在であろう、というように考えて来るのである。
 ベーコンが述べた言葉であったか、キリスト信者ほどプライドの高い傲慢なものはない、と同時に、あれほどまた謙遜下(へりくだ)ったヒュミリテーの低いものはない、というのは、即ちそこをいうのである。孟子もいっている、「我も我たり。」と。王者王侯と比べても、何ら異なることのない吾々は、同じ人格であるというのである。ただそれ故に、王者であろうが何であろうが……というように反抗的に出るのと、「我は神と同じ性格を持っているパーゾンである」と、己を一先(ひとま)ず高く見て、しかも完全なる神と比べて、自己のいかに罪多く至らぬことよ……と非常に謙遜下る。強いところがあって、また軟かくなり、高いところがあって、その反面低くもある。
 つまり、東洋と西洋の考え方の違いは、パーゾンというものに根柢して、そこから起こる差が非常に多いのである。パーゾンというものを深く認めればこそ、他人の権利も認めるのである。我も人なり、彼も人なり、自分が嫌いだと思うことは、彼も嫌であろう。故に彼の自由は侵さない。彼の権利も侵さない。自由ということは何から起ったか。個人個人が自由を尊ぶところから起るのである。十万円で人間を買ったり売ったりしているうちは、この神髄がわかるものではない。人の自由も何もあったものではない。
    〔一九三四年一月五日『西洋の事情と思想』〕
--新渡戸稲造「人格の意義」、鈴木範久編『新渡戸稲造論集』岩波文庫、2007年。

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昨日は休日でしたので、朝からいっちょ!仕事してやるぞ!
と思いつつ、起きると昼過ぎで、がっくし。

メールを開くと大学と研究所から、それぞれ通知が一通づつ。
前者は授業回数調整のため14日から授業開始の案内であり、後者は月末〆切の原稿の催促……。

うおっぷし!と思いつつ……後者を作製するための必要資料を探し始めましたが……なかなか見つからず……狭い家なのですが、二時間探して見つからず……と、、、既に夕方。

またコピーするかということで、作業を切り上げ、久し振りに

焼き肉大会!

……をしてしまい、がっつり飲んで沈没です。

生産性の低い一日でした。

……というところで、今朝は5時に起きましたので、市井の仕事へ行くまでちょいとその弔い合戦をしてやろうと目論む宇治家参去です。

原稿自体は、日本で福音主義的キリスト教信仰をうち立てたと言われる植村正久(1858-1925)の神学思想に関する論文なのですが、プロットは出来ておりますので、肉付け作業を少しやっていこうと思います。

……というところで?

うえの文章に戻ります。

新渡戸稲造(1862-1933)が晩年「人格」(パーゾナリテー)に関する小文です。
一昨年から、人間主義をめぐる議論に頭を悩ませております。
人間主義の問題はこれまで何度か議論しておりますが、その最大の問題は、人間主義が人間中心主義に陥ってしまう、開き直ってしまうことにあることは間違いありません。

そこでの問題とは何でしょうか。

ひとつ自分が気にかけているのが、人間の存在における無限性の方向性と有限性の方向性の両方の緊張関係という問題です。

たしかに「人間のために」という方向性を伸ばしていくと、その可能性としての「無限性」を薫育する理念が必要になるわけですが、そこにおいて「人間はすばらしい」ということだけに居直っては行けないのでしょう。しかし往々にして居直ってしまうのが事実です。

「非常に人間の位を引上げ、人格といえば、いつも神に対する言葉のようになっている。そして全智全能なる神と、何事にも至らない時分のパーゾンとを終始較べて、己をより向上させることに努めている」

むしろ、たえずその現存在のコンテンツはどうなのか……検証しながら、「己をより向上させる」契機が稼動しない限り、人間のためと称しながら、人間を内崩させてしまうのかも知れません。

新渡戸は「人格」を論じながら、そのあたりの消息をマア、うまく述べているなあ……などと思う次第で……。

「似非パーゾン論者」でもない「野狐禅などをやる人」でもない、対象に対する真摯さが必要かもしれません。

ちなみに、「野弧」とは、低級な妖狐を意味する言葉で、「野狐禅」とは、自ら覚り終ったとする独り善がりの増上慢を表示する言葉です。

日蓮(1222-1282)は四箇格言で禅宗を厳しく批判しておりますが、その理由を教外別伝・不立文字に根拠を置いております。おそらくこれは経典に依らないというスタイルが、恣意的な野狐禅に傾きやすいという側面を批判しているのでしょう。

というところで仕事へ戻ります。

ちなみに新渡戸のいう次のくだりですが……

「 西洋では、基督教でいう三位一体--スリー・パーゾンス・イン・ワン、三人のパーゾンが一つの神となりとの、教義がある。この言葉の真意は、私にもよくわからないが、いわゆる三位一体なるものが、基督教の主なる教義になったがために、誰人も基督教を信ずる者は、パーゾンということについて、相当に知識を得なければなくなった。中古の宗教論を見ると、必ずパーゾン即人格論というものがある。仏教にも人格ということはあるようであるが、これはむしろ消極的である」

キリスト教で言う三位一体の人格論、そして仏教における人格論の問題です。
たしかに新渡戸の言うとおりなんです。「仏教にも人格ということはあるようであるが、これはむしろ消極的である」のでしょう。

しかしキリスト教における「スリー・パーゾンス・イン・ワン」と同じような仏教における構造論がないかといえばないわけではありません。

キリスト論と同じく、仏の存在論(仏身論)における「報法応の三身」論がそれに似通った思想構造をもっております。

このへんの構造比較も探究したいのですが……、ともあれそれよりも前に、まずは喫緊の仕事をすませますですわ。

しかし、朝日がまぶしいです。

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