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「もう後期の授業がはじまるのか」

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 日常生活においては、我々は表象と思惟とを取りちがえる。我々は想像力の表象にすぎないものをも思惟においては、我々は事物から外的な単に非本質的なものを切り捨てて、事物をただその本質においてのみ取りあげる。思惟は外的現象を突き抜けて事物の内的本性にまで徹し、内的本性をその対象にする。思惟は事物の偶然的なものを除去する。思惟は事物を直接的な現象としてあるがままに見ないで、非本質的なものを本質的なものから切り離し、従ってそれを捨象する。--直観においては我々は個別的な対象を目の前にもつ。思惟はそれらを互いに関係させ、またそれらを比較する。比較によって思惟はそれらが互いに共通にもつところのものを取りあげ、それらを区別するところのものを取り除き、それによって一般的な諸表象を獲得する。--一般的な表象は、この一般的なものの下に従属している個々の対象よりも規定性をより少なく含んでいる。なぜなら、一般的なものはまさに個別的なものの除去によってのみ得られるものだからである。それに反して一般的なものは自分の下により多くを包摂する。云いかえると、ずっと大きな外延をもつ。思惟が一般的な対象を作り出すかぎり、思惟には抽象のはたらきがある。そしてそれによって一般性の形式を獲得する。例えば、「人間」という一般的対象の場合のように。しかし、一般的対象の内容は、抽象作用としての思惟には属さない。それは思惟に与えられており、思惟から独立にそれ自身で存在している。
    --ヘーゲル(武市健人訳)『哲学入門』岩波文庫、1952年。

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気が付くと本日より、短大の講義でした。

授業の仕込み‥‥といってもガイダンスと導入講義だけですが‥‥自体は、先週のうちに済ませておいたので、これから徹夜でどうのこうのするということはないのですが、

「もう後期の授業がはじまるのか」

そのことだけをしみじみと感じ入っております。

いわば、夏休みが終わるとでもいえばいいのでしょうか。

学生さんたちからすればまさに現実的には「夏休み」がおわるわけです。
宇治家参去の場合、別に今日まで1ヶ月弱夏休みがあったわけでなく、学問の仕事も、市井の仕事も連綿と続いているわけですが、やはり毎週一度とはいえ講義していた状況から、ぽっかりとそれが抜けていた時間がつづいておりましたので、似たような感慨を抱かざるを得ません。

先年より半期15回講義が制度化されたものですので、祝日など関係なく講義は組まれるのですが、それでも去年の後期初回の授業が9月の20日過ぎからだったよな~などと振り返りますと、早いスタートであることは間違いないようです。

宇治家参去が学生時代--90年代の大学空間--、記憶によれば、大体7月の中旬には前期がおわり、後期の開始は、9月の最終週ぐらいからだったような思い出があります。
そこから比べると現在の学生さんたちは、大学の違いももちろんありますし、義務教育での夏期休暇に比べるとそれでも当然ながい休暇であるわけですが、自分の時代よりもちょいと休みが短くなったのかしら‥‥と思われます。

‥‥ということで?
授業もはじまるわけで‥‥と思い、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)の講義録といいますか、哲学を素描した文献を再度ひもとく夕べです。

哲学と聴けば「固くて」「難しく」「徒手空拳」の嫌いは否定できません。
しかし、「固くて」「難しく」見えるものでも、じっくりとその対象と向かい合い、発掘作業を行いつづけると、そのリアリティが立ち上がるというものです。その作業は傍目からすれば「徒手空拳」に見えなくもありませんが、その発掘作業や労苦を自分自身で丹念にやっていくことができれば、実にそれは「徒手空拳」ではなく、「酔拳」ぐらいにはなるものが不思議です。

冒頭ではヘーゲルの文章を古い訳ですが紹介してみました。
実はこの思惟の作業にこそ哲学の醍醐味があります。
しかし、実はそれと同時に哲学を難解なものへと誘う原因も存在します。

哲学とは、特定の枠組みに影響を受けないというところにひとつの特徴があります。
ひらたくいえば、キリスト教徒でなければ理解できないとか、イスラームの人々でなければ理解できないとか、日本人でなければわからない‥‥そうした限界を打ち破る共通了解を目指す言説がその特徴です。

西洋哲学の祖タレス(Thales of Miletus,ca.624 BC-ca.546 BC)は「万物の根源(アルケー)とは何か」をとうなかで、それを「水だ」と指摘しました。

万物の根源が水であるのか、それとも原子であるのか、それとも他の何かであるのか、その議論はひとまず措きます。

しかし、注目したいのは「水だ」と宣言したことであり、その言い方・問い方なんです。

それまでの世界像では、万物の根源は「神」である的思考が濃厚でした。
信仰としてはそうした言説で成立します。
しかし、お互いに異なる文化・信仰をもつ者同士が向かい合うとき、そうした言い方ですと、限界が訪れざるを得ません。

タレスは、「世界はだれがつくったのか」という当時の一般的な問いを「万物の根源とは何か」という問いへと転換しました。そのことによってユダヤのひとびとも、ギリシアのひとびとも、またペルシアのひとびとも「参加」できる「テーブル」が準備されたわけです。

「世界はだれが創ったのか」

「ユダヤの神が創った」
「ゾロアスタの神が創った」
「ギリシアの神々が創った」

という議論では、平行線をたどりつづけ共通了解を得る事が出来ません。

しかし、「万物の根源とは何か」という問い方に対しては、お互いが真摯に議論できるわけですから、ここに西洋の哲学史はひとつの出発点をおいております。

ですから、タレスが「水」と宣言した後、議論はまさに百花繚乱のごとく、もりあがっていきます。そこから特定の文化的伝統・枠組みにとらわれない、共通了解を求める探究がはじまったといっていいでしょう。

その意味で哲学的問い・探究とは「開かれた地平」を開拓する探究といってよいかと思います。

しかしながら、問題点もあります。
そしてそれが哲学を「難解」にさせている原因です。

たしかに「世界は○○の神が創った」という言い方を哲学は遠慮します。
そのかわり「水」とか「火」とか、そうした概念を持ち出します。
これはなにかといえば、まさにリアルな物語的思考から抽象的思考への転換を意味しています。

ヘーゲルが「思惟」に関して言っているとおりです。

「我々は事物から外的な単に非本質的なものを切り捨てて、事物をただその本質においてのみ取りあげる。思惟は外的現象を突き抜けて事物の内的本性にまで徹し、内的本性をその対象にする。思惟は事物の偶然的なものを除去する。思惟は事物を直接的な現象としてあるがままに見ないで、非本質的なものを本質的なものから切り離し、従ってそれを捨象する」

たしかに、議論する対象がリアルなものである場合、イメージしやすくその実像をダイレクトにつかみとることが容易です。

しかしそうしたアプローチを伝統的に哲学は避けます。
それをもっと大きく包括するような視点……言い換えれば普遍性の探究……を大切にしますから、どうしても「特殊なリアリティ」を論ずるよりも、そこから導かれる「一般的な共通項」を大切にします。

その際、不可避的に発生するのが、「抽象的言語」の多様という事態です。

これが初学者をどうしても躓かせてしまいます。

ひらたくいえば、「読んでいてわからない」というわけです。

しかしもとを返せば、抽象化された概念は、抽象化された概念として自存しているわけではありません。制度学問として、できあがった構築物として見た場合たしかに「抽象化された概念」として自存しているように見えることは否定できませんけれども。

しかし、抽象化されていく過程、その言葉の意味、流通経路、変遷……を丹念に探究していきますと、実にこれがリアルな概念として、向かいあう人の前にたちあがってくるものです。それが難儀なわけですが、そこに醍醐味があります。

通俗的な憶見(ドクサ)を突く、そうした講義にしていきたいと思うわけですが……、はやめにいっぺえやってから沈没することにします。

どうも、風邪はなおったのですが、持病の喘息がぶりかえてしてきたようなので、ちょいと念入りなアルコール消毒が必要なようです。

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