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愛のコミュニケーションは、動物の生活にさえ見られるのです。

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 質問 マザーは、メッセージのなかでいつでも、神と祈りについて話されます。しかし、日本では多くの人びとがクリスチャンではありません。国民の大多数がイエズスについて知りませんし、祈りについても知らないのです。私たちの悩みは、どのようにしてあなたのメッセージを伝えることができるかという点にあります。私にはどのようにしたらよいのかわらかず、困っています。
 マザー・テレサ いかなる人の心も、その奥深くに神の知識があります。すべての人びとの心の奥底には神と通じあいたい望みがあります。
 ですから、私の話すことばは真実です。というのは、私はカトリックであり、神に自分のすべてを捧げて誓願を立てたシスターとして、得たことだけを与えることができるからです。
 でも、私は誰でも、多分イエズスをのぞいて、日本の多くの方々がご自分たちの心の奥深くに神がおられることを知っておいでだと思います。そして、私たちは愛し、愛されるために創られたことも、私たちが世界のなかで一つの数として創られたのではないことも知っています。
 さらに、私たちは、ある目的のために創られたのです。その目的とは、愛であり、思いやりであり、善であり、喜びであり、そして仕えることです。
 この愛のコミュニケーションは、動物の生活にさえ見られるのです。動物のあいだにも愛があります。動物の母親が、生んだ子に対する愛を持つように、愛は私たちのなかに刻まれているのです。ですから、あなたにとってもけっしてむずかしいことではなく、あなたご自身のことばで表現することができると思います。
 しかし、どの日本人の方も、たとえその方がカトリックではなく、私が聞いているようにはイエズスの名前を聞かれたことがなくても、神が愛であり、神が私たちを愛しておられることを知っておいでなのがわかります。さもなければ、私たちはとうてい存在しないのですから。
 神は、神ご自身が私たちを愛しておられるように、私たちもお互いに愛しあうことをお望みです。そうですとも、私たちはすべて知っています。誰でも神がどれほど、自分を愛してくださっているか知っているのです。
 なぜなら、そうでなければ私たちは存在することができません。私たちが存在することの証明は、神というよりけだかく偉大な存在があり、私たちを支え守っていてくださるということになります。
    --マザー・テレサ「神の命にふれる」、(訳・監修・カトリック広報室)『生命あるすべてのものに』講談社現代新書、1982年。

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「最近読んだ本は何ですか?」

「マザー・テレサ(Mother Teresa,1910-1997)の『生命(いのち)あるすべてのもに』が善かったですねぇ。カトリックの発想は「自然神学」的嫌いがあって、バルト(Karl Barth,1886-1968)のような“神の言葉としての神学”という立場なんかからは“いかがなものか”!という雰囲気があるのですが、……でその“いかがなものか”という異議申し立てもわからなくはないのですけどねえ……。そうでありながらも、存在に対する畏敬としては、木々に宿る小鳥にまで説教したというアッシジの聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi,1181/1182-1226)に見られるように、すてたもんじゃアないとは思うのですが……」

「そういう、“話題”でなく、なんというか、だれにでもわかるような……」

「カトリックという言葉自体が“普遍的”という意味ですから、ここでの言説はなにも特定の話題ではないと思いますし……。またひとつ付け加えるならば、還元不可能な個別の存在者……それを個性といっても良いかも知れませんが、そこを足がかりにしない限り、“だれにでも”開かれた地平には到達できないとは思うのですが……」

「宗教書とか哲学とかでなく、文学とかで何かないの?」

「う~ん。ドストエフスキイ(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)とか?」

「例えば?」

「ドストエフスキーって実はカトリシズムと相容れない、特にイエズス会的発想に嫌悪を抱いているんですヨ。そのあたりが『カラマーゾフの兄弟』なんかで言及されているのですが、じゃア、カトリシズムに親近感を抱く“弊職”がどうしてドスエフスキーかと申しますと……」

「枕詞が多すぎ!」

「……」

「吉川英治(1892-1962)です!、なんて答えるのが無難ぢゃないの?」

「『三国志』とか『宮本武蔵』ですってですか?」

「そうそう」

「まぢぃでしょう」

「なんで?」

「読んではいますよ!一応、若い頃に。ですけどねえ……」

「なに?」

「作品は確かに面白いし凄いんですが、ちと瑕疵があるんです。要は、軍部の翼賛報道に迎合した、ペン部隊参加という経歴があるのでねぇ……」

「もういいです」

……。

昨日は休みでした。
息子殿は幼稚園が終わるとそのまま剣道教室ですので、帰宅時間がちょいと遅い夕方です。
ですから自室で本業をしておりました。

……しかし、家人にとっては、家にいる=休みというわけですので、仕事をしている宇治家参去の後ろから、(入試の)面接の練習! ……と称して、質問をしてくるので、うえのように答えたところちょいと激怒られた次第です。

しかし、事実を羅列しているだけですので、激怒られるフシはさらさらないのですが、なにか公定・模範解答で勝負しないといけない!という風潮には、「いかがなものか」などとバルト的に戦闘モードに入る宇治家参去です。

この「学問やくざ」的なところをどうにしかないとマズイのですが、なかなか治りません。

ともあれ?

その後、質問者を演じた細君と共に、「生命は大切だ!」ということで?意見が落ちつきましたので、家で飼っているジュウシマツの「ピーチャン」の伴侶を求めに行こうということで、「ピーコ」を我が家に迎えました。

さすがに、“手乗りジュウシマツ”の異名を取る「ピーチャン」ほど、人間に慣れていなく……、どちらかといえば、人間を避けるような「ピーコ」さんですが、さすがジュウシマツ同士です。

最初は様子を伺っておりましたが、仲良くやっているようで……。

マザー・テレサのいう「私たちは、ある目的のために創られたのです。その目的とは、愛であり、思いやりであり、善であり、喜びであり、そして仕えることです」という言葉を噛みしめた次第です。

で……。

その様子をみていると細君が、

「結局、最近は、マザー・テレサ以外に何読んだの?」

……と聞くので、思い返しながら

「う~ん、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)をちまちま読みつつ、論文関係で、植村正久(1853-1925)と吉野作造(1878-1933)は再読しておりますが……、そうそう、思った以上にヒットしたのが初期大乗経典のひとつ(中村元・早島鏡正訳)『ミリンダ王の問い』(Milinda Pañha/平凡社、1963年)ですかねぇ。買うだけは買っておいた一冊なんだけど、宗教的寛容とか真理の実在論をめぐる論争はかなり参考になりますヨ」

「…………」

「あのぉぉ」

「ぢゃア、仕事でなくて、純粋に読みたくて読んだものは?」

「やっぱりあれですよ、アレ。『鬼平犯科帳』かな~。再読・28回目に突入ですけどねぇ、昨日、12巻の「密偵たちの宴」まで読んだけど、やっぱふかいなア~」

「…………」

「で?」

「ゲーテとか、そのへんできちんと模範解答をつくっておくように! ドイツ文学出身なんでしょ」

……大切な宿題をもらってしまいました。

嗚呼、ピーチャンとピーコのうぶな関係がうらやましく思われて他なりません。

……ということで、最後の「秋味」でも飲んで寝ます。

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