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【研究ノート】権力の断念 ティリッヒ「権力の問題」」、『ティリッヒ著作集』第一巻、白水社、1978年。

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時間がない、忙しいときの、考察不足を補う【覚え書】とか【研究ノート】で恐縮です。

ですが、実にちょいと忙しく、生活パターンも朝方へ切り替え途中のこともありご容赦のほどを……。

ということで、現代キリスト教神学者・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich,1886-1965)の権力論からひとつ。

相関の神学、応答の神学ともよばれるティリッヒの発想は、この世のものがこの世のものにすぎない事態をつねにさらしつづけます。そのなかで、究極的なるものが顕わにされるわけですけれども、人間と切っても切り離すことの出来ない権力に関しても同じです。

革命家とか、メインラインに異議申し立てをなす政治屋に多い発言が「権力の廃棄」です。しかし「権力の廃棄」なんて不可能であり、革命家とか異議申し立てを為すもの自体が権力の走狗と化すのが実情です。

ですから、かかわりながら「断念」することが肝要なのかもしれません。

……ということで、細君の月に一度の日本酒配達便!ということで、今回は「手取川」((株)吉田酒造店・石川県)の『大吟醸 酒魂 吉田蔵』!!!

決して高い酒ではないのですが、「手取川」は決して価格に左右されない本物の味わいなんだよな……と思いつつ、肴がないので、北海道を代表する?スイーツ「よいとまけ」にて乾杯です。

なにげに、マッチングしております。

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 Ⅷ 権力の断念
 力とはそもそも「存在」であり権力とはそもそもが「社会的存在」であるならば、力の欠落は存在の解消、権力の欠落は社会的存在の解消ということになる。したがって力や権力を放棄することは、存在そのものの放棄になる。活発な精神の展開を、時間的にも空間的にも断念するような生とか、集団権力に参与することのない人間、また公然であれ非公然であれ、社会集団の緊張関係のなかで活動しようとしないような集団は、自らの存在を放棄しているのである。
 このような権力とか力の断念が可能なことも事実である。だがはたして、権力の断念が、いったい積極的な意味をもっているのか、それとも、強制によるのか断念によるのかわからないような、単なる投げやりな生的緊張の表現にすぎないのか、それが問題となってくる。積極的で第一義的な権力の断念とは、力に満ちたなかから生まれるのであって、困窮によるものではない。積極的な権力の断念は、無力のあらわれではなく、より高い力の表出なのである。何かそのような積極的可能性が存在するなら、それによって権力は新たな地平を獲得する。キリスト教や仏教のような宗教は、この種の地平、権力の断念の積極的意味を前提としてもっている。それらは原理の面で、権力とか力の領域を突き破るのである。つまりそこでは権力の断念は、力や権力の領域の超克であり、「超越すること」の性格を先取りにしている。ところが、それはひとたび権力の領域にふみいるや、再び生存のために自身を権力としなければならなくなる。こうして「権力を断念した権力」というパラドックスに満ちた、最高の現実構造がもたらされることになる。このパラドックスの可能性は、無言のうちに承認された権力が、同時に具体的、制約的内容をも超越するという点にかかるのである。
 あらゆる権力は、真実となるためにこの超越の契機を含んでいなければならないのである。つまりどんな権力も、権力を断念する契機をもたねばならないのであり、この契機によってこそ権力も活きるのである。存在とは自己超越のうえに築かれるからである。どんな権力にも含まれる権力の放棄ということは、いつの時代でも、権力の尊厳として表現されるが、むろん単なるイデオロギーとしてあるのではない。マルキシズムにおいては、プロレタリアートが、この経験をもち、未来の人間を完全に担うものとして、客観的な聖なる内容、すなわち「天職」をもっており、この力によって、彼らは権力闘争の勝利者になれるのである。しかし権力尊厳性は同時に批判的規範でもあり、いかなる時代でも、批判的規範であるからこそ尊厳的なのである。このような規範は、権力機構の地平を突破した存在を常に試行すると同一視できる。(法律的な意味ではなく預言者的な)正義、(キリスト教では、経験体概念というより、むしろ希望の概念である)愛、(抑圧体制の廃止がパトスとなる)階級なき社会、(インドの世界観のように権力秩序を超越した)一切の存在者との合一。これらの緒規範は機械的に操作されるものではなく、常に新しく権力との対峙のなかで告知されねばならないことは疑いない。それらの規範はただ権力との対峙によって具体化され、また時代時代の社会情勢の問題で満ちるとともに、越え出てもいるのである。
 権力を断念することは、人間にだけ許された事柄である。他の動物は、自分の生の発展過程に拘束されている。つまり、自己の置かれた環境内でしか、自分の力をふるうことができない。では人間集団が権力を断念することができるのだろうか。原理的にはこう答えることが可能である。権力の断念というパラドックスの形式によってのみ、集団は権力を握るということが自由な決断のもとで認識できれば、それは可能だと。この認識をもつ集団は、本質的な意味での「教会」、つまり権力の断念を表明する超越的規範で規定された集団なのである。教会とは、もし本質どおりであるなら、社会と存在一般の権力構造を根本的に克服する場のことである。教会は、権力の存在論を可視的にも突き破るものなのである。
   ティリッヒ(古屋安雄・栗林輝夫訳) 「権力の問題」、『ティリッヒ著作集』第一巻、白水社、1978年。

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