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【覚え書】宗教紛争とは何か  森安達也『近代国家とキリスト教』平凡社、2002年。

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読んでおりますと、ハアなるほど、とひとつの疑問が氷解しましたので、覚え書として残しておきます。
狭義ではなく広義における政治なるものが宗教を利用することほど恐いことはないと思います。その意味では宗教が政治を利用したことのケースの方が歴史的年代史に隠された奥底を見てみるならば、じつのところ希少なのかもしれません。

……つうことで、飲んで寝ます。
市井の職場のバイトくんが帰省していたのですが、

「(京都へ)帰るなら、帰りに何か酒を買ってきてよ~」
「オレ酒飲めないのでわからないんですが~」
「テキトーに駅のお土産コーナーにあるやつでいいよ」

……ということで千円を渡して返したのですが、そのお土産をサルベージです。

「純米大吟醸 而妙斎御銘 松の翠」

……はじめて聞いた日本酒です。
製造は酒どころ・伏見の(株)山本本家だそうな。

で……。

濃厚……すぎるっ!

四合瓶をと思い1000円渡したのですが(オーバーした分は後で払うということで)、買ってきたのは、1合瓶!(610円)。

高けええと思いつつ……も、

味わいがしっかりしており、くどくなく、マア、これなら、ありだわな……などと思う深夜です。

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 宗教紛争とはなにか
 ソ連の解体と東欧の再編は冷戦の終結をもたらしたが、同時に多数の地域紛争を引き起こした。「悪しき平和も良き戦争には勝るとの格言が真実であるとすれば、冷たい戦争の恐怖から解放されて熱い地域紛争に巻き込まれるというのは退歩ではないだろうか。地域紛争を民族紛争とか宗教紛争の名のもとに必要悪と考えるのは、精神的退廃である。武力闘争を容認しない社会理念と紛争を押さえ込む政治権力は、これまで人間が試行錯誤を重ねながら営々と築いてきた政治体制の一部であり、それを脱イデオロギーとともに放棄してしまうのでは、いつまでたっても地域紛争のない世界は実現しないであろう。
 ここで問題としたいのは、宗教紛争とはなにかということである。常識的には別々の宗教に属する集団の抗争ということになるが、上に述べた宗教の解釈を用いれば、別々の社会制度を戴く集団の抗争となる。内紛、軋轢、抗争は人間社会のつねであるが、では、宗教が異なるからといって人間は武力闘争にまでいたるものであろうか。この点は大いに疑問であって、別々の社会制度に属する諸集団のあいだでは、少々の差別や反目はあっても、お互いの殺し合いなどは考えられない。ある日突然、隣の住人が自分とは別の宗教であることを知って、その隣人に殺意を抱くなどということがあろうか。日本でも公開されたユーゴスラビア映画に『パパは出張中』という興味深い映画があった。その舞台はキリスト教徒とイスラム教徒が隣りあって住む都会の一角で、両者の生活風習にはほとんど違いがなく、ただイスラム教という歴史的に別の制度に属している家では、男の子の割礼といった儀式が残っているものの、葬儀などの宗教行事にはお互いに参加しあうといった社会である。じつは両教徒のこのような生活が常態なのであって、ボスニア内戦で明るみに出た「民族浄化」などは異常中の異常の事態である。すなわち、宗教を含め社会性どの違いは、肌の色、言語もしくは方言の差、出身地と居住地の違い、所得の大小、教育程度、職業の種別などと同じく、きわめて多数の識別要因のひとつにすぎない。したがって民族紛争とか宗教紛争と呼ばれているものは、便宜的に民族とか宗教の名を冠していても、実際にはそれと別の動機が求められる。その動機とは、あらゆる地域紛争に共通している政治であり、政治の背後には経済上の不均衡がある。
 宗教紛争といわれるものも実際には政治に原因を求めるべきだというと、例えばキリスト教世界における異端論争とか宗教戦争を反論の材料として持ち出すかもしれない。だが、古代教会におけるドナートゥス派、アリウス派、ネストリウス派、単性論派などをめぐる教義論争は、純粋に教義をめぐって対立したわけではなく、むしろ教会政治における主導権争いであったし、中世の東西ヨーロッパにまたがる二元論的異端にしても反体制運動といった政治的側面が強く、また弾圧者の側もアルビジョワ十字軍に見られるように政治的にこれを弾圧した。さらに、フス派戦争、三十年戦争などの宗教戦争の原因が宗教的信念の違いだけにあるとはとうてい考えられないだろう。
 ところが紛らわしいことに、宗教上の主張、例えば敵対者の教説を異端と極めつける場合の主張は、人々を扇動するためにはきわめて大きな地からをもつのである。ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスのいう「組織的に歪曲されたコミュニケーション」を借りるまでもなく、キリスト教では古代教会以来、また宗教ではないがスターリニズム時代の「人民の敵」裁判などでは、きわめて容易に異端や偏向を作り出してきた。その方法は簡単で、相手のごく些細な誤りを針小棒大に取り上げて、大宣伝によって全体が誤りであるかの印象を与え、また相手の主張をすでに断罪された異端説と強引に結び付けてそれを葬り去ることである。このようなわけで、宗教上の主張はセンセーショナルな地からをもちやすいので、それが政治的な権力闘争の隠れ蓑となるのである。そして紛争の陰で糸を引くデマゴーグたちは、他の宗教や教派に対する敵対心を人々のなかに目覚めさせ、煽り立てることによって、いわゆる宗教紛争を作り出していくわけだが、ユーゴスラビアの内戦を見ていて明らかなように、本来なら紛争を抑止するのが使命であるはずの政治家が、逆に紛争を拡大させていると考えてよい。
 異常のように、宗教紛争ということばはきわめて便利なラベルであるが、実際には、本質と実体がよくわからないもに適用し、それをなんとなく理解したつもりになるための道具である。
    --森安達也『近代国家とキリスト教』平凡社、2002年。

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