「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ」……ということらしいです
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善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ。
--マルクス・アウレーリウス(神谷美恵子訳)『自省録』岩波文庫、2007年。
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このところ、専任の公募を数カ所だしているなかで、細君から、結局の所、要は何が専門なのか……分かりやすく説明せよ……という意味不明の難癖をつけられますので、
例の如く……
「キリスト教一般」
……と答えざるを得ないのですが、「キリスト教一般」と答えてしまうと……それでもキリスト教一般というのはかな~り広い意味で、まるで「物理学一般」と答えてしまうのと同じなのですが、素人にはそれでも……間口が狭すぎる……ということで、
「思想・宗教一般」
……と間口を広げて説明するようにしました。
専門は確かに「キリスト教一般」ですが、現実に現在教鞭をとっているのは「哲学」「倫理学」になりますので、
「そこで一体何を論じているのか」
……などと聞いてきますので、
「要は、『善とは何か』?」
……と答えざるを得ません。
しかし、当惑するのはその言葉を投げかけられた方かもしれません。ご多分に漏れず、細君も
「『善とは何か』……って何?」
……って聞いてくる始末で、議論と言うよりも作業としてはこれだけで、博士論文が1本かけてもなお答えをだすことのできないテーマですので、即答することが甚だ難しいというものです。
「……」
「でも、貴方はあんまり善をやっていないぢゃないの?」
「そ、そ、そンナコトハナイハズデスヨ」
「例を出してみなさい」
「……」
「ほらね」
……むちゃくちゃな誘導尋問をされてしまうのに辟易とするわけですが、
「カントは『哲学は学ぶことができない。学ぶことができるのは哲学することだけだ』といっているとおり、学問の段取り的構造として『善とは何か』なんて図式的に講壇できるものでもないんですよ。ですから、受講者と対話しながら、共通了解としての「善」を構想していくなかで、見出すことが大切なんですよ」
……と返したわけですが
「要は『善とは何か』を“教える”ことはできないわけでしょ?」
……とツッ込んでくる始末で、
「“教えることは不可能”ですが、“探求”し、生き方として“還元”していくことは可能だとは……」
「可能だとは……?」
「……思うのですが・・・」
「……」
そ、そそくさと逃げようとしたのですが・・・
「要するには、「教える」コンテンツがないということでは?」
「そんなことはない!」
「いやいや、だから金にならない」
……手厳しいオコトバです。
ちょいと盛期ローマの哲人君主マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus,121-180)の言葉にでも耳を傾けるほかありません。
しかしながら、実際のところ「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ」と言われるならば、だからこそ「教えることは不可能」なハズなのですが・・・
……ということで、この季節になると1ヶ月程度販売される季節モノの「一番搾り とれたてホップ 生ビール 2009」をようやくゲットしましたので、大好きな里芋の煮物を肴に一ぺえやって沈没します。
……ぐだぐだいわれるわけですが、仕事から帰ってくると、里芋の煮物が用意されているということは、これは予定調和……というよりも、「業績だしてがんばれ」と解釈すべきなのでしょうか……。
自省録 (岩波文庫) 著者:マルクスアウレーリウス |
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