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肥えた畑は酷使してはいけない

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 また、心はいつも同じ緊張のうちに抑え付けておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい。ソクラテスは幼児と戯れても顔を赤らめなかった。カトーは公務に疲れた心を酒で和らげた。またスキピオは凱旋の折の、あの武人らしい体を楽の音に合わせて動かした。もっともそれは、なまめかしく体をくねらせて当世風に、足取りまでが女のなまめかしさそこのけに流していく連中のようにではなく、まるであの昔の人たちが、競技や祭礼のときによく勇壮な踊りを踊って、たとえ敵側から見られても、不利にならないようにしたのと同様であった。心には寛ぎが与えられねばならぬ。心は休養によって、前よりも一層よき鋭さを増すであろう。肥えた畑は酷使してはいけない。つまり、一度も休耕しないで収穫だけを上げるならば、畑はたちまち不毛の地に化すであろう。それと同じように心も休みなく働くと、その活力をくじかれるであろうが、少しでも解放されて休養すると、再び活力を取り戻すであろう。こころが休みなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感である。
    --セネカ(茂手木元蔵訳)「心の平安について」、『人生の短さについて 他二篇』岩波文庫、1980年。

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たしかに「心はいつも同じ緊張のうちに抑えつけておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい」のでしょう。

ですので、休日の趣味とかリフレッシュのつくり方のうまい人間は、仕事のできもばがよいものです。逆に、ずるずる休みの日にまでひっぱている場合は、オンの業務時もなかなか彩り豊かというわけにはいかず--その辺りの心理をセネカは実にうまく表現していると思います。

こちらもなかなか休みをとって、日がな一日趣味に惑溺するというわけにはいきませんので、休みの日にも、学問の仕事は継続中というお粗末な毎日をおくっておりますが、それでもそればかりやっておりますと、「こころが休みなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感」になってしまいますので、寝る前の晩酌がそれを払拭する「寛ぎが与えられる場」として活用させていただいている次第です。

とわいえ、「時には娯楽に興ずるもよい」とセネカ(Lucius Annaeus Seneca,c. 4 BC-AD 65)が「時には」と断っているとおりで、その「寛ぎが与えられる場」が「公務」そっちのけとなった場合、本来の機能を発揮できないのもまたしかりです。

残るのは、学齢期の学生さんが無目的に長期休暇を消化してしまったあとの焦燥感のようなものもそのひとつでしょう。

ですから、毎晩の「寛ぎが与えられる場」としての「晩酌」において一番大切なのは、「過度の摂取」を「控える」ということに他なりません。アリストテレスは「中庸」を論じ、「過剰」と「過少」を退けよと提示しましたが、そのことがこの部分でも大切になってくるのは言うまでもありません。

ですから、ビール2本程度に、日本酒二合ぐらいがちょうどよいのですが、やはり次の日授業があることを考えるとも、もちっとセーヴするわけですが、それはそれでもそれが「適度」なのかもしれません。

物事にはバランス感覚が大切だとよく言われますが、このバランス感覚ほど体得していくのが難しい事案はほかにはありません。なにしろ、これだけは自分自身で確認しながら--失敗と成功をもってして--やっていくしかありませんので、その積み重ねをひとつひとつ大切にしながら、バランスを体得していくしかありません。

昔はもっといけたのですが、最近では上の量ぐらいがほどよい分量です。

で--
この「時には娯楽に興ずるもよい」というところですが、実は微妙なところが存在します。いわばスポーツマンが練習とか鍛錬をあくなく追及するような局面がそれに相当します。そのような熱中期においては、そうした「興ずるもよい」というプラスアルファの部分は不要なのかもしれません。

若い頃?を思い出しつつふりかえってみれば、何かに--それがスポーツであったり勉強であったり、社会活動であったり--熱中し、四六時中それに専念するときっていうのが人間には何気にあるものです。
そのときは、「興ずるもよい」部分などほしくもない、他ごとに「興ずるもよい」時間ほどもったいないものはなく、その時間すら惜しい--そう思うときっていうのもあるものです。

その場合は、まさにそれ自体に「興ずるもよい」のでしょう。

そのことにより、建物でいえば、その基礎が強固となり、あっちへふらふら・こっちへふらふらしている場合よりも、よいのかもしれません。

いずれにしましても、それを経た?大人?には、どこかで「興ずる」精神を大切にしたほうが、この現代社会には最適かもしれません。

さて--

古代ローマの哲人政治家・カトー(Marcus Porcius Cato Uticensis,95 BC-46 BC)は、「公務に疲れた心を酒で和らげた」わけですので、カトーにならい、今宵もいっぺえ飲んでから沈没といういつものパターンです。

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