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但し此の浄福は外的なる力によつて彼に与へられるものではなく、彼自身、自らの手を以て、一にして永遠なるものを把捉せねばならぬ、と

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 私は斯く考へる。人間は不幸に運命づけられたものではない。若しただ彼自身それを欲するならば、既に此の地上到る処に於て、又何時にても、平和、静寂、浄福を得ることが出来る。但し此の浄福は外的なる力によつて彼に与へられるものではなく、彼自身、自らの手を以て、一にして永遠なるものを把捉せねばならぬ、と。人間のすべての不幸の原因は、多様にして可変的なるものを追うて散乱してゐることである。浄福なる生の唯一絶対の条件は、深き愛と享受を以て、一にして永遠なるものを把捉することである。尤も、云ふ迄もなく、我々は此の一者を形像に於て把捉することが出来るのみであつて、我々自身、実際に於て一者となり、又一者に変ずることは出来ないのであるが。
--フィヒテ(高橋亘訳)『浄福なる生への指数』岩波文庫、1938年。

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どうも、連勤の続く宇治家参去です。

このところクレーム、トラブルなども久しくなく、仕事としては忙しいのは忙しいのですが、こころがこわれそうになることが少ないのが幸いです。

もちろん、会社という共同体における不条理なシステムとか発想に対して、パンチを繰り出してしまいそうな義憤は積み重なるものですが、この部分は、対自的案件とでも言えばいいのでしょうか。

営利企業としてのシステムとその一員としての問題ですので、そのあたりは、徹底的にすり合わせていく、改善していくしかありませんので、丁寧に処理していかざるを得ません。

それと同時に勃発する心が擦り切れそうになる案件が、クレームというものです。
ただこれは、いつ起こるのかというものが全く予測できない案件なのがいたいところです。しかも勃発してしまうと--これに関しても前述した対自的案件と同じく丁寧に処理していかざるを得ませんが--収まるまでに、前者以上に心が奪われてしまうのがチト難渋な部分ですので、そうした案件がこのところ久しくないというのは、ある意味ではありがたいものです。

--などと思っている矢先?
朝一番で会社から電話で店長に起こされた次第です。
昨日ちょいと勃発したクレーム(なのかしら?)……詳細は措きますが、お客様同士の喧嘩……の内容確認の電話で、起床予定時間よりも早く起きてしまいました。

内容は店長に報告した通りの状況なのですが、当事者から連絡があり、おっしゃる内容と立会い者の内容とのすり合わせなのですが……。

折り返し案件終了の連絡を頂き、問題なく終了するにはしたのでしたので、重ねてほっとした次第です。

こうした小売業にでもかかわることがなければ体験することのなかった問題なのですが、タツキをえるためには、どうになかるまでがんばらないといけない訳なのですが、強烈なのは、不可避的に人間の幅が「無理矢理」に「広げ」られてしまうということです。

こちら自身がこわれそうになってしまうのは否定しがたい事実ではあるのですが、それと同時に、かかわらなければ見えてこなかった問題というのも見えてくるようになったのも一つの事実ですから、その意味では、問題に直面し、人間の幅が「無理矢理」に「広げ」られてしまうことにより、内面もろもろが鍛えられるだけでなく、問題に冷静に向かい合う中で、フツーに生きていれば体験的でなかった貴重な体験を積むこともできるようになったという事実は、ありがたいと受け取るべきなのでしょう。

さてそのひとつを考えてみようと思うのですが、--そしてそれは、今回の事案に直接関連はしませんが--このところ事件と向かい合うなかで、ひとつ痛感するのが「ステレオタイプな世代論」が全く通用しなくなったということです。言い換えれば「ステレオタイプな世代論」というものは「賞味期限切れ」であるから「ステレオタイプ」であり、実は、それは議論としてはひとつの方向性を提示したものの、現実には古来より、現実を救いきれない概念化のひとつだったのではないだろうかと思うところです。

まわりくどい言い方をしましたが、その「ステレオタイプの世代論」とは何かと申しますと、要は「最近の○○は、~だ」というやつです。わかりやすく表現すれば、「最近の若者は・・・」とか「今の連中は・・・だ、昔にはなかった」的な状況描写とでもいえばわかりやすいでしょうか。

職場がGMSという業種になりますので、極端な話をしますと、0歳時から90歳(以上も含め)の、まさに「幅広い」「世代」の人と応対します。

うえの言い方をすれば、たとえば、「最近の若い者は、礼儀がなっておらん」的な復古主義的ディスクールというのが、いつの時代にも流通しているわけですが、はたしてそれは当を得ているのかと問うた場合、すべての問題をそのひとつのディスクールで片付けてしまうことが不可能になってしまったのではないだろうか、まさにうえに書いたとおりの幅広い世代の人々と接するなかで、そのことを痛感します。

と、同時に、復古主義的権威主義者でないしても、代々そうした見解にもまれた(=自分自身がそう批判され、そして年を取ると自分自身が他者に対して同じように批判する)知的伝統・精神風土の中に生きておりますので、その意味ではそうした見解が臆見(ドクサ)に過ぎないということを、肌で理解してしまいます。

たとえば、上では一番代表的な見解として「礼儀が~」とステレオタイプ化してみたわけですが、たしかにそうしたドクサから自分自身も自由であったことはないことは知っております。「昔の人間は~」「今の連中は~」という言い方でカテゴライズしてきたこともあります。

しかし、現実にはそうでもないのが事実です。

この商売とはある意味では、こちらがかかわるというよりも、相手から「かかわられてしまう」不思議な商売です。

そのなかで、年齢・世代、職種・性別、クラス、人種さまざまなひとびとと「かかわられて」しまいますと、若いから=礼儀がない、年配だから=礼儀がある、と言い切ることにはすこし抵抗がでてきます。
*もちろんいうまでもありませんが、これは年配者をないがしろにし、若輩者の権利回復を目論もうとする「新手」のネオ・復古主義のアンチズムなステレオタイプのディスクールを吐こうとしているわけではありませんので念のため。

要は、礼儀をふまえた人間は、世代に関わらず存在するということです。そしてそれとおなじくらい逆の場合も、世代に関わらず存在するということです。

そしてそのことは、礼儀だけの問題に限定されるわけではないということです。

「若いから○○だろう」
「年配者だから○○だろう」
「こんな感じだから××にちがいない」
「あいつは△△だ」

--と思っていると足元を掬われる経験ばかりです。

このひとは大丈夫だろう--そうした感じで接すると、間違いのないこともありますが、それと同時に、そうではなかった--とびびらされれてしまう瞬間も多々あります。

その意味では、人間は、人間対する判断・評価としてグルーピングしたような評価をもって全体を代表させてしまうアプローチをとってしまうと、どこかでその落とし穴にはまってしまうのかもしれません。

だからこそ「ステレオタイプ的な世代論」(そしてこの「世代論」の「世代」には「世代」以外の様々な言葉を等置することが可能でしょう)は「賞味起源切れ」であるだけでなく、はなから議論が成立しておらず、砂上の楼閣にきずかれた戦略的なイデオロギーに他ならないのかも知れません。

そのひとがそのひとに即してどうあるのか。

人間はこの部分から何かを学び、襟をただしていかないかぎり、同じ過ちや失敗に絶えず翻弄されつづけるのかもしれません。

そして、

そのひとがそのひとに即してどうあるのか。

これは他者に関する議論に収まらない問題です。否むしろ自己自身の問題なのかもしれません。

そのひとがそのひとに即してどうあるのか。

フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte, 1762-1814)の言葉にでも耳を傾けながら省察したいものです。

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