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はずせないので、はずせませんが、甘受もできず・・・という状況認識

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 問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持することになる。したがって、先入見が--他者やテクストが語ることに直面して--疑わしくなったとしても、それはその先入見が単純に脇の押しやられ、他人ないしは他なるものがそれに代わってただちに有効になる、ということではない。そのように自分自身を度外視できると思うのは、むしろ、歴史的客観主義の素朴さを表している。本当のところは、先入見はそれ自身危険にさらされる(auf dem Spiel stehen)ことによって、真に本来的な仕方で理解に働き始めるのである(ins Spiel gebrachte werden)。先入見は自らを賭ける(sich auspielen)ことによってのみ、他者の真理請求というものを経験しうるのであり、またそれによって、他者もまた自らを賭けることができるようになる。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(轡田收・巻田悦郎訳)『真理と方法II 哲学的解釈学の要綱』法政大学出版局、2008年。

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何度か議論した話題なのですが、やはり先入見を100パーセント廃棄することは不可能なんです。

ですけど、先入見の負の側面に注目した議論が過熱してしまうと、どうしても論旨が「先入見からの脱却」というスローガンのもとに集約されてしまいがちです。職業革命家たちによって魔女狩り的に標的とされる「先入見」がやり玉にあげられてしまうわけですが、その燻り出す職業革命家たちも、同じ乃至は別の「先入見」対しては無自覚でありつつ「先入見」を批判する……というスパイラルがその実際なのかも知れません。

いうなれば、結局の所、同じ土俵の中で、無邪気に……その無邪気さが実は恐ろしいのですが……燻り出しの盆踊りを踊るとでも表現すればよろしいでしょうか……。

そんなことをフト思う宇治家参去です。

思想史的に振り返れば、先入見を先鋭的にやり玉に挙げるのが「啓蒙」“主義”であり、その対極で状況を甘受してしまうのが「ロマン」“主義”なのでしょう。しかし両者には共通点もあります。“主義”と“”で括ったように先鋭化するところにその特徴があるのだろうと思われます。

しかしながら人間生活世界の実情を勘案するならば、「先入見」をすべて脱却するのも不可能であれば、その逆に「先入見」を総て肯定し、その状況をスルーしてしまうというのもおしなべて不可能なのでしょう。

その意味では、先入見に対する自覚といいますか認識・点検を時折点検しながら、そのフィクショナルな構造を知覚するほかありません。

「そうおもっていることは億見(ドクサ)に過ぎない、このバカもの!」と断じてしまうことは簡単です。

そして「そんなもんなんなのだよなー」などと状況を肯定してしまうことは簡単です。

しかし、その両者は極端のあり方にすぎないのかもしれません。

ちょうど、昨日、紀要論文の初校が到着しました。
製本・刊行は12月なのですが、9月月末に頭をなやませた課題のひとつです。

今回は、久し振りに……といいますか実は大切な課題なのですが……吉野作造(1878-1933)で1本書いてみたのですが、今回は時期を区切って、吉野作造のナショナリズムに対する考え方をまとめてみた次第です。

大きな見取り図をだすならば、吉野作造も時代の子です。少年時代から若い頃にかけてはナショナリズムを叩き込まれ、素朴にそこに対して熱くなったことを否定できません。

しかしながら、世界状況や時代状況との対応、そして信仰の深まりのなかで、それを相対化していく……それが彼の歩みです。

しかし、注意深く吉野の文献を読んでいて気が付くのが、「ナショナリズム」“そのもの”を否定はしていないということです。もちろん“ナショナリズム”を楽天的な世界連邦論者のように“全”否定し、ひとつの価値概念に集約するようなアプローチはとりませんが……これが啓蒙「主義」的否定でしょうが、同時に、その対極にある無自覚的自己主張の優先……これがロマン「主義」的肯定でしょうが、その両者を、両者から突っ込まれないように慎重に退けております。

確かにナショナリズムの問題点を勘案するならば、前者のように、素朴に全否定することは簡単で、その対極も簡単です。

前者が否定のための否定であるとすれば、後者は否定を寄せ付けない開き直りとでもいえばいいのでしょうか。

しかし、実際に、大地に生きている人間はその感情を全否定することも、全肯定することも不可能です。

であるとするならば、その問題を抱えている自分自身を認識し、そしてよりよき対応を模索するというのがベストかもしれません。

哲学的解釈学者ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)は、歴史と社会という地平の接点のなかから「よりよき」「解釈」はどのように可能になるのか徹底的に論じましたが、両方の「主義」的アプローチを退けながら、先入見の問題を「先入見」“だから”問題であるとすることもなく、「先入見」“だから”しょうがないとすることもなく、「先入見」“がある”ことを丁寧に論じましたが、それはとりもなおさず「自覚」と踏まえた「対応」の問題に他ならないのかもしれません。

ですから吉野の文章を読んでいると面白いのは、自分自身がナショナリズムにほだされていたその過去をまったく否定はしていないということです。経験を隠そうなどとはしておりません。むしろ、そうした自分であったけれども、そこから「何を学ぶのか」そこに焦点がおかれているようです。

吉野の場合、自分自身の「ナショナリズム」の意識的自覚が、他者の「ナショナリズム」の存在を自覚させたわけですが、これなどは、先入見の自覚の好事例かもしれません。

……ということで、初校がせっかく届いたにもかかわらず、既に飲み始めましたので、校閲作業は起きてから……ということで。

締め切りまでちょいとまだ時間がありますものですから・・・。

……ってタカをくくると足下を掬われる宇治家参去ですが、たぶん、大丈夫でしょう・・・。

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