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先ず生活それ自身の意義目的を確信するのでなければ、国家の意義は到底理解できない

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 国家とは既完にして与へられたる既成品ではなくして、活ける人間の活ける営みに於いて、時々刻々その活けるいのちを展開しつゝある所の活動態である。即ち国家とは生活の名である。故に国家についての根本の問題は、生活に於いての根本問題である。(中略)……即ち先ず生活それ自身の意義目的を確信するのでなければ、国家の意義は到底理解できない。(中略)……然らば生活それ自身の意義目的、人生そのものゝ意義目的は何であるのか。この最も古く、最も基礎的にして、又それだけ最も忘れられ易き根本問題が、根本的に解決されるのでなければ、国家についての問題も終にほんたうには解決され得ない。さればこそ国家に関する基基礎づけ論の論理が、根抵を倫理に、更に一歩進めて宗教に置かざるを得なくなるのである。
    --三谷隆正「国家哲学」、『三谷隆正全集』第3巻、岩波書店、1965年。

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ちょうど金曜日に論文指導があり、指導教官の先生のもとを訪れてきましたが、車中、内村鑑三(1861-1930)門下のキリスト者・法学者・三谷隆正(1889-1944)の文章をひもといておりました。

吉野作造(1878-1933)よりちょうど一つ若い世代になるのですが、かれの抵抗の論理に共通しているところに目が見ひらかれるばかりです。

コミュニズムにみられる抵抗の論理とは、善悪二元論的「対峙」の「対決」型にその特徴をみてとることができるかと思いますが、実はこの論理、大変わかりやすい理論なのですが、現実の実行力を勘案した場合、なかなか成果の出せにくい点も併せ持つという落とし穴をかかえております。

要は敵(なるもの)と「対峙」し、「対決」構造を喧伝するというパターンですから、大変にわかりやすいのですが、現実的実行力に問題があるということでしょう。

それに対して、吉野作造とか三谷に見られる論理とは、一方的な「対峙」の「対決」型というスタイルをとりません。どちらかといえば、威勢いい勢力からは、「不徹底」とのレッテルをはりつづけられる評価なのですが、きちんとその言説を検討してみるならば、はたして彼等の議論が「不徹底」かどうか、疑問が出てくるのも事実です。

たしかに、あぶりだして「批判」することはありません。
しかし、よくよく読んでみますと、相手をも、こちらの議論にひきこみ「ふむふむ」と考えさせてしまう根源的な対話の精神をそこにみてとることのできるのでは……そう思われて他なりません。

「国家についての根本の問題は、生活に於いての根本問題である」

たしかにそうなんです。
その意味では国家「生活」の部分も大切ですが、その基礎となるパーソナルな「生活」も看過できない大問題です。

その意味では国家志向でもない、個人志向でもない、第3の極の提示といっても良いかも知れません。

そして続きます。

「……即ち先ず生活それ自身の意義目的を確信するのでなければ、国家の意義は到底理解できない」

なるほど……ね。

……というところです。

べつに三谷も吉野もそうなのですが、国家が先か、個人が先かそうした二者択一の議論には毛頭興味がありません。国家にせよ社会にせよ共同体にせよ、人間はなんらかの共同体から離れて生活することができません。その意味ではまさに大問題なのです。しかし、それとおなじくらい大問題なのは、何か……といった場合、やはりそれはひとりひとりの生活なのです。その両者が両者のために犠牲にならないためにはどのようにあるべきか。

……そこに議論が集約されていってるような気がします。

ですから、システムのあり方の問題、体制の如何の問題というのはおおきな問題ではありません。どちらかといえば、どのようなあり方、体制をとろうとも、そのなかでの幸福増進には現実的には何ができるのか……様々な人々との対話のなかで、そして信仰に基礎づけられた超越即内在の観点から、どこまでも現実態を相対化させながら、よりよき方向へスライドさせていく……その探求が吉野や三谷の実践にはあったのでは……おぼろげながらそう思う次第です。

たしかに、吉野の民本主義(これも数度議論が変遷しますが)に関していっても、そのシステム論は不完全です。主権の所在は問いませんので、「対峙」の「対決」型からはやはり「ものたりない」のでしょう。

批判することは簡単です。
しかし現実に、どうスライドさせていくのか……そちらは荊の道にならざるを得ません。その辺の消息を無視して現代の視点から議論してしまうと、……読み方を誤ってしまうのでは……そう思います。

いずれにしても三谷にせよ、吉野にせよ、「対峙」の「対決」型が指摘する敵(なるもの)すらも「敵」ではないのでしょう。かれらもひとしく人間であるならば、対話を重ねながら、納得をお互いに目指すところで、……それが妥協と評されようとも……、現実を変革していく……それを目指していた歩みだろうと思われてしまいます。

その意味では対話の「脱構築」型と表現しても良いかも知れません。

……というわけで?

この論文ツアーに出かけると、必ずよるのが「笠置そば」となります。

本川越駅(西武新宿線)で降りてから、東武東上線の川越市駅まで歩くのですが、その道中にあるので、手近で利用しておりますが、今回は、満員でしたので、スルーしてしまいました。

ここでそのまま食の探求をスルーしてしまうと、宇治家参去らしさがなくなってしまうというものですから、前々から気になっていた、ちょうどその「笠置そば」の裏手にあります「焙煎RA-MENかれんと 川越らーめん」(川越市駅店)にてネクタイをゆるめた次第です。

注文したのは、「焼豚焙煎醤油ラーメン」です。

食通をきどるわけではありませんが、ラーメンも結構たべていると自負するぶぶんがありますが、この「焙煎」なるものははじめてです。全国的に「焙煎」系がひろまりつつありますが、ここは関東なので、醤油で頂戴した次第です。

焙煎ですから「スープ」の材料とか薬味が焙煎されているようで……

蓮華をつっこんで、すすってみますと……

「香ばしい」

……正直な感想です。

ものの10分も経たない時間でしょうか。

最後の一滴まで頂戴した次第です。

汁の色合いからしますと、

「これ、醤油か?」

……と思いますが、

味わいはしっかりと、「醤油」なのですが、実に「香ばしい」味わいです。

焼豚がちょい固めかな、と思う程度で、しっかりした太麺との愛称もよく、さわやかな一杯を頂戴した次第です。

店の看板ラーメンは「黒ゴマ坦々麺」のようですので、次回、挑戦してみようかと思います。

「生活に於いての根本問題」を丁寧に探求したひとときでございます。

何故なら「先ず生活それ自身の意義目的を確信するのでなければ、国家の意義は到底理解できない」わけですから。

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店内は、居酒屋さんを思わせるたたずまいで、トッピング素材を中心に、かんたんなおつまみメニューも充実してい、かるくいっぺえやるにもよさげな雰囲気です。

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