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議論の範疇の限界にせまる形式的な問いの背後には、一切の形式を打破する問いがかくれている

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 対話的なものは、人間相互の交わりに制限されない。すでにそれはわれわれに例示されたごとく、相互に人間が向かい合う態度である。ただ人間の交わりにおいて、じつにこれがよく表されているにすぎない。
 したがって、会話や伝達がおこなわれなくとも、対話的なものの成り立つ最低条件には、内面的行為の相互性が、意味上分離しがたい要素となっているようである。対話によって結ばれている二人の人間は、明らかに相互に相手の方に向かい合っていることでなければならぬ、それゆえ、--どの程度、活動的であったか、どの程度活動性の意識があったかということはとにかくとして--向かい合い心がそこに立ち帰るということでなくてはならない。
 このことは、著しく形式的なことであるかもしれない。しかしこれを押しすすめることは、良いことである。なぜならば、議論の範疇の限界にせまる形式的な問いの背後には、一切の形式を打破する問いがかくれているからである。
    --マルティン・ブーバー(植田重雄訳)「対話」、『我と汝・対話』岩波文庫、1973年。

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講義を組み立てていてよく実感するのが、やはり語りが一方的になってしまうことです。たしかに、基礎的な知識や理論の紹介として「語らざるを得ない」部分が存在することは否定できないのですが、講述に徹してしまうと、パロールとしての言語だけでは、その実感とか内実とか言下の意味がなかなか伝わりにくいということも思い知らされてしまいます。

このところといいますか、例年頭をなやませていたのが、プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)のイデア論に関する講義です。

もちろん担当している科目が専門的な演習とかゼミではありませんので、ざっくりとやってしまっても問題はないのですが、そのざっくりを言葉だけで、例えば・・・

「イデアっていうのは英語でいうideaに語源をもつプラトンの真理の実在論です。現実には様々な事物や概念が存在します。しかしそうした現実“態”をこえたところにも、そうした現実“態”を規定するような何かってあるぢゃないですか。たとえば、この教壇も『机』です。そして皆さんが座っている目の前の長机も『机』ぢゃないですか。だとすれば、現実に存在するこの個別の机、要は皆さん目の前にある『机』も、そしてそれと形のちょいと異なる、ワタシの目の前にある『机』も、形はちがうけれども『机』でしょ。そうすると、そうした現実“態”をこえた“机”なるものが……存在としてはないのですが……発想としては出てきますよね、言うなれば、『机“一般”なるもの』が……。それがイデアなんです」

ですけど、言葉だけの説明ですと、結構半分の方々がぽかーんとなってしまいます。イラストを交えた私家版の教材ですがそれで支持しながらでもそうなんです。

ですから、何か、工夫が必要だよな~、と悩んでいたわけです。

ですが、不思議なもんで、閃きなのかもしれませんが、先の月曜の授業では、ぢゃあ……

「学生さんに「花を黒板に書いてください」と指示して……その際、花の銘柄は特定せずに……書かせてみるか」

……とやってみたところ、思った以上に、理解して下さった方が多く驚いた次第です。

「だれか『花』を書いて下さいませんか」

……って振って、2名の方に花を黒板に書いて頂きましたが、

一名は、ひまわりを、一名は、マーガレットを書いて下さいました。

先に書いたとおり、銘柄の指定はありません。

現実にひまわりも存在しますし、マーガレットも存在します。

両者は全く異なる「花」ですが、異なるにもかかわらず「花」なんです。

その意味では両者に共に、内在する……プラトン的に謂えば、両者をイデア界から規定する図面とか理念のようなものとして……「花」“なるもの”が想定できます。

そう、それがプラトンの言うイデアなんですね。

栄枯盛衰・流転・転変の現実世界の存在を超えた「~とは何か」とでもいうべき「○○一般」がイデアのアウトラインなのでしょう。

その意味では、今回初めて学生さんたちに作業を課してみましたが、その試みがちょゐと成功したのでは……などとほくそ笑む宇治家参去です。

……と、同時に、社会学者にして平和運動家のクェーカー、E.ボールディング女史(Elise M. Boulding,1920-)が対話とは「語るだけではなく、聞くことも対話である」と講演で論じたことがありますが、教室という講義空間においてもそれは同じかもしれません。

ブーバー(Martin Buber,1878-1965)の対話論をひもとくまでもなく、「相互に人間が向かい合う態度」が教室においてもその基礎にあるのかもしれません。

もちろん、しゃべらなければならないタスクも存在しますが、それだけに徹してしまうと、こと哲学とか倫理学とか神学といったものは、応答不可能な無味乾燥な学問に堕してしまうのかもしれません。

教室で教師と学生が向かいあうというのは内的必然と言うよりも外的的不可抗力によって向かいあう一局面です。

しかし、それだけでもないのでしょう。

いかなる理由があったとしても、人間が人間が向かいあってしまうと、そこには不可避的に対話的な空間が迫ってくるのかも知れません。

「どの程度活動性の意識があったかということはとにかくとして--向かい合い心がそこに立ち帰るということでなくてはならない」

……ことを肝に銘じる必要はありそうです。

……とはいえ、実は宇治家参去、イデア論が極めて苦手です……いうか違和感ももっております。

ですから、その違和感を解消するために、ビールのイデアを内包したチェッコ(チェコではない!)の「バドバー」の、濃ゆいモラヴィアンモルトでも飲みつつ、3時間ばかりの短い休息を楽しもうと思います。

……昨日掲示したタスクですが、レポート添削だけが対応できず、明日まわしです。
しめきりまで余裕はあるのですが、余裕にふんぞりかえると得てしてろくなことがありませんので、早めに沈没して、明日がんばります。

しかし……。

チェッコのプレミアムビールの「バドバー」。
アメリカの「バドワイザー」の語源になったといわれる700年の歴史をもつビールといわれますが、栓を抜いたときに迸った香りだけで、その味わいの豊かさが理解できるというものです。

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