« 考える生活 | トップページ | 「君の自己定立に対する君の注目を注目せよ」 »

「「我」が「汝」に出会う「関係」こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況」でありますから……

01_img_0637

-----

……対話とは、「汝」が「我」に対して「無関心でないこと」である。それは無私の感情=存在の外をめざす感情(sentiment dés-inter-rssé)である。たしかに、その感情が憎悪に変質することもあるのだが、それは愛、そして愛に似たものと--慎重を期しつつも--名づけるべきものの好機でもある。だからと行って、それは道徳を盲信したり、中庸の観念や価値観に無思慮に屈服することを意味するわけではない。出会いにおいては、他なるものがあらゆるものに優先して重要性を持つからこそはじめて、超越の対話において、善の観念が立ち上がるのである。「我」が「汝」に出会う「関係」こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況である。倫理という事実はいかなる価値観にも依存しない。逆に、もろもろの価値観が倫理という事実に基礎づけられるのである。「善」の具体性とは、他の人間は価値があるということである。価値があることの両価性、つまり「善」と「悪」のそれぞれから等距離にあるときの決定不可能性は形式的な問題にすぎない。「他の人間は価値がある」ということにおいて、「善」は「悪」に先行しているからである。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「対話--自己意識と隣人の近さ」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

-----

ものごとには「慣れて」「向き合った」方がよい場合といいますか、スムーズにいく局面が存在します。

その一方で、「向き合った」場合が、カウントとして何万回と数えようとも、それが「一回目」「初めて」のことととして「向き合った」方がよい場合も厳然として存在します。
こと、人間に「向き合った」場合に関しては、むしろ「慣れて」向き合うよりも、何度の邂逅であったとしても「初めて」として「向き合った」場合の方がよい場合の方が多いのかもしれません。

ですけれども、人間という生き物は、“よく知っている”「間柄」の対象に関しては「こんなものだよな」という態度で、無意識的に対象コードを転換して向き合ってしまうことのほうが多く、そうした場合、足下をすくわれてしまいますので、「なんなんだ」とかって式に自噴してしまうことが覆いのかもしれません。

そうした場合の向き合い方というのは、対象に関して“よく知っている”と本人は自認しつつも、その実は、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が指摘するごとく、対象に対する「無関心でないこと」“でない”状態に他ならないのでしょう。

しかし、なにかと面倒な理由を付けつつ、人間は向き合う人間に対して“無関心”であることによって、状況を都合のよいように解釈し、他者の他者性を剥奪し、自己認識の帝国主義によって、世界を解釈してしまうのかも知れません。

しかし、世界とか対象というものは、そうした独白的なモノクロームの世界と対極にある総天然色の世界であるのがその実です。

であるとするならば、意識的にでも対象に対して「無関心でないこと」という流儀をどこかで持ち合わせたいものです。

--ということで?

何度も邂逅し、指導を受けている指導教官との打ち合わせが本日あります。

不思議なことに、10年以上の師弟関係になりますが、いつお会いしましても、それが「慣れた」とか「そういうものだ」というものではありません。

いつ伺ってもそのひとときが、まさに自分自身にとって「はじめて」であり「無関心」であり得ない状況になってしまいます。

まさに幸福な瞬間とはこのようなひとときのことをいうのでしょう。
※いうまでもありませんが、もちろん厳しい叱責もありますヨ。

--ということで?

本日は早めに沈没し、数時間後の論文指導を有意義なひとときにして参りたいものです。

--ということで?

そのネタである吉野作造(1878-1933)に敬意を表して、本日は吉野の故郷・宮城県大崎市(旧・古川市)の地酒「一ノ蔵 無鑑査」にて思索のひとときを彩りつつ--。

いずれにしましても、対象が人間であれ物であれ、世界であれ、それを「そういうものなんだ」と決め込むことよりも、向かいあうたびに「初めて」の経験であると接する方がなにか豊かな歩みを残せそうと思われて他なりません。

不思議なもので、紫陽花とは初夏の彩りと記憶しますが、なかなかどうして、最後の花びらをシブイ色合いで付けいるのに遭遇すると、実にそう思われて他なりません。

「『我』が『汝』に出会う『関係』こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況である」がゆえに、その邂逅を大切にしたいものです。

02_levinaskainosit 03_img_0856

観念に到来する神について (ポリロゴス叢書) Book 観念に到来する神について (ポリロゴス叢書)

著者:エマニュエル レヴィナス
販売元:国文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 考える生活 | トップページ | 「君の自己定立に対する君の注目を注目せよ」 »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「「我」が「汝」に出会う「関係」こそは、倫理の出現の起源的な場であり、状況」でありますから……:

» ケノーベルからリンクのご案内(2009/10/16 09:13) [ケノーベル エージェント]
大崎市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。 [続きを読む]

受信: 2009年10月16日 (金) 09時13分

« 考える生活 | トップページ | 「君の自己定立に対する君の注目を注目せよ」 »