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2009年11月

【覚え書】修行 精進 SF とんかつ

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電車のなかで読んでいてたしかにとおもうこと屢々ありましたので、ひとつ覚え書。

何かに向かいあうということには、たしかに修行・精進といった趣が濃厚にあったかと思うのですが、そうした風潮といいますかエートスというのは弱まってきたなあとこのごろ切に感じます。

便利である、わかりやすい、ということは確かに大事なのですがそれがすべてを表象するわけではありません。

とんかつひとつもそうなんです。

とんかつが好きでよく食べ歩きました。

そのなかでここのとんかつはこうだ、あそこはこうだと理解を積み重ねてきたわけですが、手軽なガイドブックを頼りにして、一番旨い奴だけをハナから食べてしまうと、食べてしまう経験自体はいい経験なのですが、それですべてを代弁されているように語られてしまうと「何それ??」って思ってしまう・・・宇治家参去は古いタイプの人間かもしれません。

とんかつとは、とんかつ全体という地平をみわたしたとき、つまり様々なとんかつへの挑戦と応答のなかでこそ出てくるような気がしますし、そのなかで、これがまあ、比較的いいやつかな、というかたちが形成されてるのだろうと思う訳なのですが。。。

いかがでしょうかねえぇ。

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 さて、ではなぜSFというものが、滅びたのでしょうか?
 SFが滅びた最大の原因は映像SFでした。もちろん原因といっても、悪者だという意味ではありません。単に原因だという事実があるだけです。
 映像SFが広がることで、わかりやすいSFが浸透してしまった。それまでSFというのは、ファンの間では「一冊読んでもダメ、百冊読んでもダメ、千冊読んだらSFってなんだかそろそろわかるんじゃないかな」と言われていました。嘘みたいに思われるかもしれませんが、本当に常識だったのです。
 学生時代、私にはある程度「読んでいる」という自負がありました。なので「私はわかってますよ」と先輩に言ったら、言い返されたことがあります。じゃあお前、あれを読んだか? これはどうだ? という風に次々にまだ翻訳されていないSF小説を挙げるのです。「読んでないです」と言うと、「おまえはまだわかってない」。
 それがくやしくて、高校二年か三年ぐらいのときから、辞書を片手にペーパーバックの翻訳を自分で始めた。そんなことをやらなくてはならないくらい、当時のSFというのはハードルが高いものでした。
 もちろん、単に一読者として娯楽の範囲で読むぶんには、誰でも楽しめる作品もあるわけです。そうではなくて、ここで言っているSFというのは、SF界に身を置くということも含めての「SF」です。その世界で「わかっている」と認められるには、特訓めいたものをしなくてはいけない。そんな時代でした。
 ところが『機動戦士ガンダム』や『スター・ウォーズ』でSF界に入ってきた人たちというのは、一瞬で「わかる」のです。少なくとも本人たちは「わかっている」と思えるのです。先輩に「まだまだ」と言われて発奮する、なんていう面倒な手続きはここには必要ありません。
 『スター・ウォーズ』を見て、「惑星タトゥィーンに沈む二重太陽の夕焼け、かっこいい!」と思ったっら、その人にとってはその瞬間にSFがわかったことになるのです。
 実際、その理解でもたしかに正しい面もあります。一瞬でわかるSFもわかるからです。一瞬でつかんだ概念というのは、それまで千冊ぐらい本を読んで「コレだ!」と思ったものとまったく等しい場合もある。
 ただし、そうやって「わかりやすいSF」で入ってきた人は、その後もやっぱり「わかりやすい」ものを求める。「わかりやすいSF」ばかり求められた結果、「わかりにくいSF」が避けられる。
 「アニメ見てるんだから、別に本なんか読まなくてもいいじゃないですか」
 「昔の日本の作品なんか読まなくてもいいじゃないですか。えー、SF好きだからといって小松左京とか読まなくてもいいでしょう」
 という調子になります。必然的にラクチンなものが、どんどん普及していったわけですね。
 つまり、SFファンであるというのは「千冊読まなきゃダメだ」とか「自分で翻訳してでも未訳の本を読め」といったかなり求道的なものだった。何か道を極めて、それで一人前になるためにはものすごく修行しなければいけない、修行とか精進するのが当たり前だった。それが、どんどん楽でわかりやすいものになっていった。
 結果、どんどんSF愛好者の人口は増えていきます。しかし代わりに「SFは素晴らしいけど、常に勉強しないとダメなんだ」という共通文化は失われていく。かつての中学生のファンの「SFの普及のために自分ができることは何だろう?」という悩みは理解されず、受け継ぐものもいなくなりました。

 文化というのは「便利」「快感」だけで、できているわけではありません。
 お正月は初詣に行かないと、なんとなく後ろめたい。
 八月十五日近辺になると「終戦特集」とか「戦争特集」の特番があって、「ああ、もうそういう季節か」と思う。
 袴姿の女の子が街にいれば「卒業式の時期なんだなぁ」と思う。
 年賀状を出すか出さないか、毎年悩む。
 これが現代の日本文化です。つまり文化というのは、あるいは義務感だったり季節感だったり行動様式だったり、そういった「便利」「快感」ではないものの集合体なのです。
 目新しく面白いアニメや映画を求めるファンばかりが増えてしまったSF界は、すでに「SF文化」を喪失してしまった。つまり「SFは死んだ」というわけです。
    --岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』新潮新書、2008年。

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過ぎたるは猶及ばざるがごとし

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子貢問う、
師と商と孰れか賢れる、と。
子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず、と。
曰く、然らば則ち師は愈れるか、と。
子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし、と。

金谷治訳注「先進篇」、『論語』岩波文庫、1999年。

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これは掘り出しものだ!
……って思って手を伸ばして、買ってから損をすることを「安物買いの銭失い」というのですが、その固辞を痛罵する物件に出会う事があり、世の中捨てたものではないことをしみじみと実感する宇治家参去です。

ちょうど、月曜日に大学へ出講した帰りに、中古のPCショップで、めぼしい物品を物色していたのですが、、、

デル DIMENSION 4600C スリム デスクトップ

2003年発売のPCですが、17インチ液晶モニタ、本体、リカバリー(XP)が付いて、マウスのみ欠品の状態にて、4980円というのを見つけてしまい、即売してしまった次第です。

「起動確認のみ」とのふれこみでしたので、購入時にお店で状態を確認したところ、

メモリはマックスの1Gまで増設済み、
HDDも160GB(流体軸受け7200回転)にアップグレード済み
DVDもマルチドライブに変更されていたので・・・

懐かしい?Pentium4 3.2GHz(HT対応)でしたが即決した次第です。

ちょうど息子殿用のPCを探していたところです。
基本的にはYoutubeしか使わないのですが、自分のPCを使われると仕事にならないわけですし、本人用に用意したLenobo(旧IBM)のノートブックのThinkPad X61はwindows Vista Businessで起動が遅い!と不評を買っておりましたので、それを売却して、さくっと使えるXPマシンを!と思っていたのですが、存外なめっけものでした。

5年以上前のデスクトップPCですが、USBも6個あり、モニタの発色も良いし、Pen4HTを発揮するために?メモリも512MB×2という絶好調なセッティングでしたので、ついつい散財した次第です。

帰宅後、簡単に動作確認をすると、OSの立ち上げに30秒というところでしょうか・・・もちろんこれはSP1までの状況ですので。

本体、モニタなどにも不具合もなく、週末にでもセットアップしようと思ったいたわけですが、、、

ちょうど昨日は、風邪でヘロヘロでしたので、その合間をみつつ、セットアップしましたが、思った以上に調子がよく、これで息子殿用専用PCの完成です。

さすがにService Pack3までOSをアップグレードして、常駐のウイルスソフトやスパイウェア対策をぶっこむと、起動に1分はかかるようになったのですが、vistaBusinessをノートブックで使うよりはすこぶる快調で……

……起動確認をしおえたところで、再度、パソコンではなく、宇治家参去本人の体調も悪化したのでちょいと仮眠したのですが・・・

起きると……

宇治家参去専用のPCでYoutubeを見ている……!

……という不可思議な現証が登場しておりました。

なんでやねん!

ひとりぼけつっこみといういそがしい10秒でしたが・・・。

ダイニングのテレビの横にモニターを設置したのが仇でした。
細君がテレビを見たいとのことで、宇治家参去が寝ている間に、宇治家参去の自室のPCを使わせていたようです・・・。

配置転換が必要のようです。

息子殿には「十分すぎておつりがくる」とまで思った次第ですが、現実にはそうではなく、このことを、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」というのでしょうか・・・。

ですけど、やっぱほりだしものですわ。
この中古デスクトップ!

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強制ダイエット

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 私は、死を運命づけられた一つの生命を自分のうちに感じる。如何なる瞬間においても、如何なる事柄においても、それが死ぬであろうと私は感じている。しかし、死を運命づけられていない別の生命も私は感じる。その性質、その経過、その運命が何たるかは知らない。知っているのは、死がその意味の中に含まれていないということだけである。この第二の生命は、二つの形態の中において現れる。即ち、第一に、私を貫いて流れ、永遠に子孫の間に弘められて行く種属の生命としてであり、第二に、創造さえた、思想の無時間的な意義、私達の道徳的な善及び道徳的な悪の存在による世界の価値の増加或いは世界の堕落としてである。これに加えて、第三のものとして、この世界のおける私たちの生活と行為とが遺す影響があり、これは不断に増大して行くものである。しかし、右の三つの形態にしても、あの第二の生命を表現するものではない--また、固より、世常の霊魂の不滅というのも、これを表現するものではない。
    --ジンメル(清水幾太郎訳)『愛の断想・日々の断想』岩波文庫、1980年。

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ようやく熱はさがったのですが、まだまだフラフラ・くらくらする宇治家参去です。

とわいえ、市井の仕事にも出かけなくてはならないので、髭をそって今から出発です。

生命に関しては普段、文字としての理解はできるのですが、生命それ自体に即して理解するというのは甚だ難しいものです。

フラフラ・くらくらするなかで、その一端を垣間見た次第です。

二日間でリンゴ1個、ビール350ml×1缶、日本酒×1合、ちゃんこ鍋×1椀しかやらなかった所為でしょうか・・・。

4kgほど体重が痩せておりました。

これを称して風邪による強制ダイエットというやつです。

さあ、仕事へ出かけますか。ダルイですが・・・。

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自分の心を癒し、清らかにし、無垢にしなさい。そうすればあなたご自身がこの世で楽園となる

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33 地上の楽園。
あらゆる苦しみと不安から解き放たれた楽園をあなたは探し求め、そこへ行きたいと願っている。自分の心を癒し、清らかにし、無垢にしなさい。そうすればあなたご自身がこの世で楽園となる。
    --シレジウス(植田重雄・加藤智見訳)『シレジウス瞑想詩集』(下)、岩波文庫、1992年。

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幼稚園の行事か何かなのでしょうが、息子殿から宇治家参去宛に郵便物が届いておりました。何かの記念日の取り組みとかそういうのではありませんが、はじめてそういうものを頂くとなにやら嬉しい宇治家参去です。

最近は、幼稚園で「カンチョー(浣腸)」という悪ふざけを覚えてきましたので、このひと大丈夫からしら……などと不安に思ったものですが、元気に真面目に生きているようで安堵した次第です。

さて……
楽園とはどこにもとめればいいのでしょうか。

「あらゆる苦しみと不安から解き放たれた楽園」とはどこか遠くの世界にあるわけではないようです。ドイツ・バロック時代を代表する神秘主義的宗教詩人・シレジウス(Angelus Silesius,1624-1677)は、「そこへ生きたい」と願うのであれば、「自分の心を癒し、清らかにし、無垢にしなさい。そうすればあなたご自身がこの世で楽園となる」と述べております。

その通りなのでしょう。

「そこへ生きたい」と願うのであれば、自己自身の現場を開拓する他ありません。

……ということで、息子殿の励まし?の手紙を導火線に今日もがんばるぞ!と思った矢先、、、どうやら風邪をひいちまったようで・・・。

宇治家参去の場合、365日が慢性的な風邪状態(=微熱維持)ですので、そんなに気はしていないのですが、この季節になると、それでもちょいと敏感になるものです。

まずは、きちんとアルコール消毒を体内から行い、ウィルスを退治するほかありません。

なにゆえなら、今日は月に一度の地酒のプレゼントがありましたものですから、飲まずにはいられないというやつです。

なにしろ山形県の銘酒「出羽櫻」の「地元還元酒」という一品です。

「出羽櫻 地元還元酒 誠醸辛口」

光うるわしく 水清い故郷「山形」
地の酒は 地の人々が長い歳月をかけ
育てた酒
誠心こめて醸す「山形」への感謝の想い
「山形」で多くの人に愛され続ける
地元ご用達酒

……とのことだそうです。

もちろん「十四代」のようにはいきませんが、これはこれで味わいの自己主張がしっかりとしていながらも雑味がなく、いっしゅ、潔い銘酒です。

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シレジウス瞑想詩集〈下〉 (岩波文庫) Book シレジウス瞑想詩集〈下〉 (岩波文庫)

著者:A. シレジウス
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徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。

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 恐れるものなく独立心をもっていた藤樹(引用者註=17世紀日本の儒者・陽明学者、中江藤樹のこと、「近江聖人」)でしたが、その倫理体系でもっとも注目されるのは、謙譲の徳に最高の位置を与えていた事実です。藤樹にとり謙譲の徳とは、そこから他の一切の道徳が生じる基本的な態度でした。これを欠けば一切を欠くにひとしくなります。

 学者は、まず、慢心を捨て、謙徳を求めないならば、どんなに学問才能があろうとも、いまだ俗衆の腐肉を脱した地位にあるとはいえない。慢心は損を招き、謙譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるなら、善悪の判断は自然に生じる。

 虚という言葉の意味を説明して次のように述べています。

 昔から真理を求める者は、この語につまずく。精神的であることは虚であり、虚であることが精神的である。このことをよくわきまえなければならない。

 この徳の高さに達するための藤樹の方法は、非常に簡単でした。こう言いました。

 徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、善をつとめるならばすべての悪は消え去る。
    --内村鑑三(鈴木範久訳)『代表的日本人』岩波文庫、2001年。

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どうも宇治家参去です。
本年度は、大学の通信教育部で担当する「倫理学」のスクーリング(対面授業)ものこすところ2回です。

来月は、愛知県の名古屋市にて講義予定なのですが、ちょうど1ヶ月(4週前)になりましたので、大学の事務方から、開講に関する案内(出張申請とかその他諸々)がメールにて届いておりました。

来週ぐらいに受講者数など詳細の案内が来ると思われるのですが、講義で使う機材の申請など諸々の手続きの案内がきましたので、はやめに返却しないとまずいです。

例の如く、締め切り日直前に返却するという悪しきパターンで生きておりましたので、今回はなるべく早めに返信しなければと思う次第です。

本年度の担当地方スクーリングは今のところ、受講者不足に起因する「不開講」は免れているわけですが、案内は来ているものの、最終的なゴーサインはまだでておりませんので、「不開講」にならぬように祈るばかりです。

なにしろ、吹けば飛ぶような非常勤という非正規雇用ですから、これが「不開講」になると……生臭い話ですが……生活が成り立ちません。

ですので、「不開講」にならないことを祈るばかりです。

初めてのスクーリングから数えると、次の名古屋で16回目の講義となります。

中江藤樹の言葉を頭と心に刻みながら、精励する他ありません。

恐れることなく独立心をもった人物とは、藤樹のように「謙譲の徳に最高の位置」を与えなければならないのでしょう。慢心を絶えず警戒しながら、真理を目指す。そしてその歩みの中で、「毎日善をしなければならない」のでしょう。

宇治家参去の場合、謙譲に関しては、謙譲を通り越して自虐にまで到り、それがネタになるというジレンマに陥るのが常ですが、慢心で開き直るよりはまだマシであろうと思い、自虐的謙譲をモットーにしておりますが、最後の「毎日善をしなければならない」というのがチトムズカシイです。

しかし、東洋の道徳思想に依るならば、善とはそれを為そうと力んでやるものだけでもないという発想(『孟子』)がありますので、そこをテコにしながら、何かあったとき、すばやく、そして自然に動けるようには気を配っていきたいものです。

何しろ、感性が鈍磨してしまうと、善にせよ悪にせよ、それを対象と認知できなくなってしまうものですから・・・。

ということで、感性を磨く必要悪ということで、季節外れですが「冷やおろし」でいっぺえやって寝ましょうか。

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代表的日本人 (岩波文庫) Book 代表的日本人 (岩波文庫)

著者:内村 鑑三
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自然に従えというのが健康法の公理である

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 自然に従えというのが健康法の公理である。必要なのは、この言葉の意味を形而上学的な深みにおいて理解することである。さしあたりこの自然は一般的なものでなくて個別的なもの、また自己形成的なものである。自然に従うというのは自然を模倣するということである。--模倣の思想は近代的な発明の思想といは異なっている。--その利益は、無用の不安を除いて安心を与えるという道徳的効果にある。
    --三木清「健康について」、『人生論ノート』新潮文庫、昭和六十年。

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哲学者・三木清(1897-1945)がいうとおり、「自然に従えというのが健康法の公理」でありますので、外で飲みてえ・・・という「魂の叫び」という「自然に従え」といふことで、昨日は、先週の結婚記念日の祝もかねて、行ってしまいました。

最初は、この時分になりますと、「鍋」がうまいので、その手の店へいこうと思っておりましたが、息子殿に訊くと・・・

「寿司がいい」

・・・といふので、これも息子殿の魂の「自然に従え」というのが道理ですので、宇治家参去一家御用達のまわる鮨やさん「魚屋路」へ逝った次第です。

ちょうど、翌日からが「青森・大間の天然本まぐろ」の入荷予定日でしたので、その日は遠慮したかったのですが、「いくいく」とウルサイので逝ったわけですが、久し振りに魚を楽しませて頂きました。

先ずは、軽くプレミアムモルツを水代わりに流し込み、

板長お薦めの三貫握り(鯛・かんぱち・平目)で、戦いの狼煙をあげました。

ビールをもう一杯頼んでから、アボガドが大好物ですので、アボガドネギとろ握りをやりはじめると、あたまのなかでは「軍艦マーチ」響きだし、決戦準備はOKです。

……ということで、米飯も3日ぶりでしたので、なかなか箸がすすむという具合で、、、食べ過ぎた次第です。

しかしながら、それは「自然に従えというのが健康法の公理」であるゆえに、致し方なく、ぼってんぼってんふくらんだ(はじめから?)腹を撫でてやるので精一杯という状況です。

ただし、この言葉の意味に対しては、「形而上学的な深みにおいて理解」することも同時に必要不可欠なわけですが、てんこ盛りの、純米大吟醸の腰の寒中梅やら、澤乃井の大辛口などをがっぷがっぷ飲んだわけですので、その考察は後日になってしまいそうです。

ただ、この鮨やさんに来ると、回転するお店ですが、握って出してくれる奴は、それなりに……否、それなり以上に上等な一品が多く、普段よりもすすんでしまうので致し方ありません。

その意味では、前回に訪問したのと同じ状況……食べ過ぎ……という悪循環になってしまうわけですが、「自然に従う」結果、前回と同じ状況を「模倣」したという意味では、「その利益は、無用の不安を除いて安心を与えるという道徳的効果にある」ことは否定できません。

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……ということで?

大間の天然本まぐろには出会えませんでしたが、久し振りに生まぐろの大トロを頂戴しましたが、これが、これがなかなかどうして。奥地……失礼、お口の中で噛まずにとろけるという次第です。

細君はぼたん海老を頂戴しておりましたが、宇治家参去は、海老がNGですので、定番の八幡鯛を頂きましたが、さっぱりとしている身にしっかりとした味わいにいつも驚かされる次第です。

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いつも握りで穴子を頂きますが、たまには……ということで、特大穴子を握って貰いましたが、お米が見えません。これで376円ですから、ありえません。

光りものやなにやらを休憩をいれながらやっていると、息子殿が注文していた天ぷらの盛り合わせが届きましたが、息子殿はすでに満腹のご様子にて、その解体処理を任されましたが、このタイミングになってきますと、けっこうキツイですが・・・、揚げたてはやはりうまいものでして・・・、再度ビールを注文して格闘戦という状況です。

さあ、帰るぞって腰を上げると、運悪く、「鯛の解体ショー」がはじまっちまい、息子殿が……本人が食べるわけではないのですが……「一枚」注文の挙手をしてしまい、最後の戦いとなってしまいました。この時分には既に「軍艦マーチ」というより「海ゆかば」が脳内をループするという始末です。

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いやはや、「自然に従えというのが健康法の公理である」とは大変な「戦い」です。

人生論ノート (新潮文庫) Book 人生論ノート (新潮文庫)

著者:三木 清
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おまえら本読めよ!

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 現代の知性人とは如何なるものであるかという問いに対して、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」というベルグソンの言葉をもって答えることができる(第九回国際哲学会議におけるデカルト記念の会議に寄せた書簡)。ところで思索人の如く行動し、行動人の如く思索するということは構想力の媒介によって可能である。我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来るであろう。「そこへ哲学が突然やって来て、万人に彼らの全運動の全意識を与え、また分析を容易ならしめる綜合を暗示するとき、新しい時代が人類の歴史に新たに開かれ得るであろう。」知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験に綜合しつつしかも経験的現実を超えて新しい哲学を作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている。すでに個人から民族へ移るにも、民族から人類へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性である。
    --三木清「新しき知性」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年。

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古典名著とよばれる人類の知的遺産は読まないよりは読んだ方がよいのはいうまでもありませんが、誰に言われなくても挑戦するひとというのはいつの時代にも存在します。

しかしそれと同時に、……世俗の言葉を使うならば……ハッパをかけなければ向き合うことのできないひとというのも存在しますし、どちらかといえば、その割合のほうがおそらく高いでしょう。

ですので……

短大の哲学の授業では、一回は、「古典名著と呼ばれる人類の知的遺産への挑戦」を促すようにしております。

本来であれば、もっと早い段階で、挑戦すべきなのしょうが、遅くても挑戦しないよりは挑戦したことに越したことはありません。ですから、なるべく挑戦しようと声をかけるようにはしているのですが、それでも、物理的な拘束時間の自由度を勘案するならば、義務教育とは異なる、大学時代にこそ、その挑戦がスパークする時間は他においてないのかもしれません。

哲学者・三木清(1897-1945)が指摘するとおり、骨董棚で黴くさく陳列された知性ではなく、現代の新鮮な知性人というのは「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」知性なのでしょう。

しかしその構想力をよりよく発揮するためには、このいきている現代世界のただなかで、古典名著との対話を独り継続していくことは必要不可欠なのだろうと思います。

何かを考える、為すにはコンテンツが必要です。人間は神ではありませんので、無から創造することは不可能です。

古典名著との対話、生きている社会との対話(格闘)、そしてその両者の弁証法的関係のなかからこそ、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」ことの媒介となる「構想力」がよりよき発揮するのだろうと思います。

ですから、毎度毎度口が酸っぱくなるまで「おまえら、本読めよ」とやくざモードで語ってしまいますが、どうしても語らざるを得ません。

三木清は、ロゴスとパトス、また存在の合理性と非合理性という相反するカテゴリーのただ中にたち続けるなかで、晩年『構想力の論理』(未完)を模索します。

ロゴスによる把握は対象をロゴスとして確定するわけですので、必然的に、常にロゴスから漏れ出ていてこれに逆らい続けるもの、非ロゴスなるものが不可避的に現出してしまいます。その問題を、三木の同時代の他の論者たちは、どちらかといえば一元的価値観への収斂というかたちで筋道をつけたわけですが、三木清は、価値序列の優先順位的価値観による綜合をさけながら、第三の選択を提示しようと心がけたように思われます。存在そのものをできあがったひな形とか鋳型に精製していくのではなく、相反する存在を存在そのものとして捉え、そこから構築していくとでも言えばいいのでしょうか……。

三木の論理ではありませんが、日々、古典名著と向かいあっておりますと、そこからなにか豊かなものを学ぶということばかりではありません。

どちらかといえば、違和感を覚えたり、賛同できなかったり、頭にきたりする経験も否定できません。

しかし、そうした違和感、否定の感情と向かいあいながら、自分自身と全く異なる発想、人柄、存在と向かいあうことにより、ひとはこれまでになかったなにがしかを構想できるのかもしれません。

若い人にはそうした暇を無駄だとは思って欲しくない……そう思われて他なりません。

……ということで

「おまえら、本読めよ」

若い知性が青葉のごとくその新緑をのばしていくためには、必要不可欠な難事です。ですが難事であるがゆえに挑戦してほしいものです。

「我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来る」のでしょう。たしかに実験ですから、そこには模範解答もハウトゥー的方法論もないのですが、ひとびとの足跡を古典名著から尋ねながら、たえず現在の生きている自分自身の問題として考察する。そして批判的にたがやしていくなかで、やがて考えても見なかったような時代がおそらく到来するのだろうと思います。

……ということで、ちょいと飲みにいきっています!

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時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである

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 私は現在私が何を考え、何を思うのか知るのみならず、昨日何を考え、何を思うたかをも直ぐに想起することができる。昨日の我と今日の我とは直接に結合すると考えられるのである。これに反し、私は他人が何を考え、何を思うかを知ることはできない。他人と私とは言語とか文字とかいうごときいわゆる表現を通じて相理解するのである。私と汝とは直に直結することはできない、唯外界を通じて相結合すると考えられるのである。我々は身体によって物の世界に属し、音とか形とかいう物体現象を手段として相理解すると考えられるのである。しかし物体界とは如何なるものであるか。物体界というものも、我々の経験的内容と考えるものを時間、空間、因果の如き形式によって統一したものと考えることができる。内界と外界というものが本来相対立したものではなく、一つ世界の両面という如きものに過ぎない。両界は同じ材料から構成せられているのである。すべて実在的なるものは時に於てあると考えられ、時は実在の根本的形式と考えられる。内界と考えられるものも、外界と考えられるものも、それが実在的と考えられるかぎり、時の形式に当嵌ったものと考えられねばならぬ。然るに、時は現在が存在自身を限定するということから考えられるのである。而して現在が現在自身を限定するということを意味していなければならない。時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである。時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生まれるといってよい。非連続の連続として時というものが考えられるのである。時というものが斯くして考えられるとするならば、時は斯くの瞬間においても二つの意味において永遠の今に接すると考える事ができる。永遠の今と考えられるものは、一面においては絶対に時を否定する死の面と考えられるとともに、一面においては絶対に時を肯定する生の面と考えられねばならない。時の限定の背後に永遠の死の面というものを置いて考える時、永遠なる物体の世界というものが考えられ、その背後に永遠の生の面というものを置いて考える時、永遠なる精神の世界というものが考えられるのである。内界と外界とは時の弁証法的限定の両方向に考えられる、永遠の今の両面に過ぎない。すべて具体的に有るものは弁証法的に自己自身を限定する、即ち時間的に自己自身を限定するのである。時に内外の別があるのではなく、時は固一つでなければならぬ。真の時は歴史時というべきものであり、具体的なる実在界は歴史的と考えることもできるであろう。
    --西田幾多郎「私と汝」、上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I 場所・私と汝 他六篇』岩波文庫、1987年。

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西田幾多郎(1870-1945)研究がなかなかすすまないのですが、進めざるをえませんので、後期の論文集と格闘しております。

基本的にはカント(Immanuel Kant,1724-1804))の『純粋理性批判』で展開された「時間、空間、因果の如き形式によって統一」されているうえのでの知覚・認識の原理から叙述がスタートするのですが、一頁もすぎると、矛盾的自己同一を説く西田独自の哲学論へと転回されているようです。

好き嫌いの問題はありますが、哲学者としては、やはり日本では稀有な存在なのだと思わざるをえません。

「時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである。時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生まれるといってよい。非連続の連続として時というものが考えられるのである」。

連続と非連続、限定と非限定なるものの接点を模索する西田の哲学は極めて難解ですが、読み応えもあり、秋の読書を堪能している宇治家参去です。

・・・って思っておりますと、世の中は、三連休のようでした。

しらずに土日は仕事をしており、勤労感謝の日の本日は、大学での講義ということで、ふつうのひとびととの意識の連続というよりも、時に対する感覚としては、その非連続を感じざるを得ません。

が・・・、
本日のキャンパスは快晴で、休みの所為でしょうか、、、散策される来客者もそれなりに多く、なんとなくにぎやかです。

その意味では、人間はほかの人間と「連続」しているよりも、「非連続」の「連続」ぐらいがちょうどいいのかもしれません。

一定の枠組みによって連続しているよりも、ゆるやかにつながるぐらいのほうが、いいとでもいえばいいのでしょうか。

そのあたりを思念しつつ、、「時」だけにかぎらず、どちらかに一方に重心をおくのではなく、「肯定」と「否定」の弁証法的関係のただなかで、やっていくほうがよいのかもしれません。

・・・ということで、早めに学食にてランチをいただきましたが、本日は照り焼丼セット。

きつねうどんに小さな照り焼丼をつけたセットメニューです。

天気があまりにもいいので、テラスで頂戴しましたが、晴れているとはいえぼちぼち寒い時期ですので、これぐらいのホットメニューでちょうどいいという感じです。

ただ・・・

失敗したな!というのは、隣の美術館が通常ですと月曜休館日なのですが、今週は祝日とのバッティングで月曜開館・火曜休館でした。

もうすこし早めに出勤して美術館へいくべきでした。

がっくし!!

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「ア・ヴォトル・サンテ!!」

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 翌朝、小雨が降っている。
 私は、オマールのソースに汚れた上着が、あまりにみっともなかったので、ホテル近くの男物のブティック〔ジョン・カレス〕という店へ行き、替上着とネクタイを買う。
 それから、また、レアールの居酒屋〔B・O・F〕へおもむくと、老亭主セトル・ジャンが今日はいた。
 抱き合ったとき、ジャンは少し肥ったように感じられたが、三年前にくらべると顔つきが円満になっている。やはり商売をゆずってしまったから神経をつかうこともすくなくなったのだろう。
 七十歳になったセトル・ジャンが、ルノー青年に店をゆずったのも、古女房のボーレットが階段から落ちて腰を強打したのがはじまりで、病床に就いてしまったからだ。
 ジャン老がフランス語で語るのをルノー君が英訳してS君につたえ、それをS君が私に日本語でつたえる。
 セトル・ジャンは、
 「先日は、すばらしい絵の、すばらしい本をありがとうござんした。いまはボーレットの看病で、毎日、昼ごろ二時間だけ店へ来ます。というのは、古い常連が私の顔を見たがるものだから……ええ、一ヶ月前から、とうとう女房はうごけなくなってしまいましたよ。何から何まで私がしてやらなくてはね。せっかく昼食にさそっていただいたが、そういうわけで御一緒できないんです。そのかわり、このモーゴンをきれいに空けて行って下さい」
 こういって、ジャンは自慢のモーゴンの地酒を持って来て、あくまでも慎重に、長い時間をかけて栓をぬき、しずかにしずかに壜をかたむける。こうしないと、酒の中の澱がまざってしまうからだ。
 さほどに〔B・O・F〕のワインは地酒なのである。むろん、レッテルもついていない。樽詰で運ばれて来たのをジャン老人が古い壜へ詰めるのだ。
 みんなで乾杯をした。
 「ア・ヴォトル・サンテ!!」
 健康を祈って、と、セトル・ジャンが叫んだ。
 ジャンはペルノーのグラスへ、わずかに口をつけただけだ。
 あれほど好きだったペルノーと煙草をやめたのも、五つ年上の古女房の看病へ打ち込むためなのだろう。
 ボーレットへは何のおみやげも持って来なかったので、
 「奥さんの好物は何?」
 と、私が尋くや、セトル・ジャンは間、髪を入れずに自分の顔を指し、にっこりとうなずいてみせた。
    --池波正太郎「セトル・ジャンとの再会」、『田園の微風』講談社文庫、1990年。

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ドイツ文学専攻でありながら、ドイツ語が苦手でドイツに行ったこともなく、専門としているドイツ語よりもフランス語の方が達者なのですが、フランスにも行ったことのない宇治家参去です。

いつの日か、フランスの飲み屋へ行くだろう……飲み屋ではなく、なんとかアカデミーとかであればなおよし!……ということで、池波正太郎先生(1923-1990)の滞仏紀行文を再読しつつ、その日のための仕込?に余念のない宇治家参去です。

しかしながら!!

そのためには、現在のペースの晩酌では躰を壊してしまうだろうということで、禁酒をすればよいのですが、一目散に禁酒することもあたわず、とりあえずは、減酒からはじめようということで、いつも飲んでいるよりも1合ほど量を減らしてみようかと考えております。

とりあえず、冷蔵庫をみると、日本酒がまったくなく、ニッカのシングルモルトの「余市」しかありませんでしたが、やはり、日本酒がないとはじまりませんので、仕事へいくまえに近所のリカーショップにて、

「蓬莱 飛騨の田んぼ 純米酒」(渡辺酒造/岐阜県)が手頃な価格でしたので購入したわけですが、これがなかなかいけております。

中部の酒をやるのも初めてですので、興味津々でやった次第ですが、おもった以上に味わい深く、……帰宅すると、おでんがありましたものですから、

……すすむという奴です。

しかし、ここで、すすみすぎると、減酒の決意がフイになってしまう!

……ということで、なんとか、ふんばって・・・

・・・いきます。

これを称して……

「男はつらいよ」

……というのでしょうか。

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「善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する」らしい・・・

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 だが、究極的な性質の愛は、善きひとびと、つまり卓越性において類似したひとびとのあいだにおける愛である。けだし、かかるひとたちのいずれもひとしく願うところは「善きひとたるかぎりにおける相手かたにとっての善」なのであるが、相手のひとびとは彼ら自身に即しての善きひとびとなのである。しかるに、相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、最も充分な意味における親愛なるひとびと(フィロイ)たるのでなくてはならない。まことに、かかるひとびとはお互いに相手かたのひとびととそれ自身のゆえに、そうした関係を保っているのであって、付帯的なものに即して愛しているのではないのである。それゆえ、これら善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する。
    --アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学』(下)、岩波文庫、1973年。

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日本語で流通している「愛」よりも広汎な意味をもつ、フィリア(φιλια)としての「愛」……日本語では「友愛」……の概念をちょいと整理しようと思いつつ、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の『ニコマコス倫理学』の愁眉を飾る友愛論を繙いておりますが、この友愛の概念は、密接に「善」と関わる概念です。

それゆえに、永続性が問題となる寸法なのですが、鳩山由紀夫(1947-)さんのおっしゃる「友愛○○」の友愛の議論にまったく「善」の問題を見て取ることができず、どちらかといえば、恣意的な「正義」論が見え隠れするようで、東西において「友愛」理解というものがまったくことなるものなのか……などと頭を悩ます昨今です。

テクネー(技術)としての側面のみが喧伝され、その形而上学なるものが提示されないものであるとすれば、概念そのものを劣化させてしまうのでは……などとフト思うわけですが、議論としてはおそらくアリストテレスに由来するフィリアというよりも、フランス革命における「友愛」(Fraternite)を意識した言葉ということなのでしょうが……。

周知の通り、フランス革命においては、当初「自由」と「平等」が革命のスローガンとなるわけですけども、自由と平等とは本来相反する概念です。そこで最後に付け加えられたのが「友愛」という概念ですが、過度の自由と、強制としての「平等」を調停させる「他者への共感」として「友愛」が登場した経緯があります。

おそらく、自由を強調するアメリカニズムと、平等を強調した共産主義を乗り越える概念として、その言葉を使用されているのでしょうが、根拠と経緯を整理しないまま、戦略的標語として使用されるままであるとすれば、概念と、その概念を生み出した人間たちに対する敬意が喪失されてしまうのでは……とふと思うわけですが、いずれにしても、旗印の戦略論だけでなく、その内実を内実たらしめる思想的格闘というものが欲しいものです。

思想的格闘があればこそ、過度のの自由と平等の強調を回避できる、生きている人間に即した中庸なあり方が可能になるはずだとは思うわけですからひとしおです。

……などと思案しておりますと、そのようなことをくどくどと考えるゆえに「銭にならない学問」などと揶揄されてしまうわけですけども……、

我が家庭におけるフィリアにおける「永続性」を確認するための何かをしませんか……ということで、、自分が財布をだしたわけではありませんが、公私ともにお世話になっている老夫婦さんのお誘いで、「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」へ行ってきた次第です。

ありがとうございましたっ!

さて訪問先は、東京・関東を中心に展開しているステーキ、ハンバーグのファミリーレストランというわけですが、宅の近くに新しい店舗ができましたので、サクッと行ってきた次第です。

単品以外の、ファミレス系のセットメニューを注文すると、サラダバーがついており、ライス(カレーもついてきます)、スープ、そしてサラダ(フルーツ含む)は食べ放題ということで、育ち盛りのお子様がいらっしゃるご家庭にはもってこいのお得なお店です。

細君は何度か利用しているようでしたが、宇治家参去は今回はじめての訪問でしたので、お店の名前を冠した「kenステーキ」(180kg)を頂戴しまいた。

ガーリックソースで味わいたいところですが、翌日が仕事ですので、オニオンソースで頂戴しましたが、価格の割には、焼き具合も申し分なく、味わいがしっかりとしてい、おすすめではないかと思います。

やはりやすいので、肉はそれなりなのですが、サラダ、ライス等食べ放題という意味ではリーズナブルといってよいでしょう。

これですませるとフツーのファミリーになってしまいます?ので、ビールは言うまでもなく注文するわけですが、扱っているのはSAPPOROで、SAPPOROビール応援団としては垂涎な事態です。

久し振りに「大ジョッキ」でやりましたが、改めてみますと、「大ジョッキ」とはかなりサイズが「でかい」ですね。

ライスはほとんどやらずに、やりますので、おつまみメニューで「骨付き粗挽きフランク」を頼みましたが、実にこちらが大正解!

様子がまんま「マンガ肉」!

アニメ『はじめ人間ギャートルズ』なんかにでてきます、骨付き肉……この場合フランク……ですが、ぱりぱりになるまで火の通ったフランクにナイフを入れると、なかはジューシーで、肉汁まですすりたくなるような一品でした。

ビールにはちょうどよい随伴起動歩兵といったところでしょうか。

息子殿は、あまり肉を所望しませんので、お子様ランチでお茶を濁すというところですが、育ち盛りのお子様をかかえるご家庭にはお薦めです。

たしかに、まわりはファミリーばかりだったことは言うまでもありません。

さて、いずれにしましても、フィリアにおける個々の人間における「卓越性」の問題、そして中国古典における「友愛」論も参照したいところですが、時間がないのでまた後日……ということで、失礼。

ただ、いずれにしましても「善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する」わけですので、思想的格闘だけでなく、実践の問題としてもその両者が相即的関係にあるとき、いちばんうまく有効に機能するのかもしれません。

ただ、人間はいずれにしましても、どちらかに傾きやすいわけではありますが・・・。

http://www.mgfood.co.jp/

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「この100円の違いって何よ?」

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 資本主義時代は、魔法解きに至る途上の一段階である。今日の経済システムに結びついた思考は、それ自体で完結している自然を、これまでの時代にはありえぬまでに支配することを可能にした。だが決定的なのは、この段階の思考に、自然を収奪する能力があるということではない--人間が自然の収奪者であるというだけならば、自然が自然に対して勝利したということになろう--決定的なのは、この思考が、人間をますます自然的条件から独立させ、そのことによって、理性が干渉する場をつくりだしたことだ。世俗にからみとられた教会、君主制、封建制という生の暴力を清算したここ百五十年のブルジョワ革命については、部分的にはメルヒェン的理性にも由来するこのような思考の合理性に--これだけではないかも知れないが--感謝すべきであろう。これらの神話的束縛を不断に解体することは、理性の喜びである。自然的統一体の瓦解の場でのみ、メルヒェンは実現されるからである。
 だが資本主義的経済システムのラチオは、理性そのものではなく、曇った理性の一つである。一定の地点以降、それは、自分もたずさわっている真理を見捨てる。ラチオは、人間を算入していない。人間に対する配慮によって生産過程が規制されることはなく、人間に基づいて経済的、社会的組織が建設されることもなく、そもそもどこであろうと、人間の根底がシステムの根底であることがない。人間の根底といった。というのも、重要なのは、資本主義的思考は人間を歴史の中で成長し、形成されてきたものとして大切にせよとか、おなじく資本主義的思考は人間の人格を論難してはならぬとか、人間本性の提起する要求を満たすべきだ、とかではないからだ。このような考え方の代弁者は、資本主義に対して、資本主義的合理主義が人間に暴力を加えるといって非難し、資本主義社会よりも、いわゆる人間性をもっと保護する共同体の新たな到来を渇望する。このような退行現象の緩慢な影響についてはさておくとしよう。これは資本主義の欠陥の確信を逸している。資本主義は、合理化しすぎるのではなく、合理化することが少なすぎるのだ。資本主義に支えられた思考は、人間の根底から語りかける理性を目指しての完成に抵抗するのである。
 資本主義的思考の場のメルクマールは、思考の抽象性である。今日、思考の抽象性の優勢によって、全表現を包む一つの精神空間が設定される。抽象的思考様式に向けられる非難とは、それが生の本来的内容を把握することができず、したがって現象の具体的観察に道をゆずるべきであるというものであるが、このような非難は確かに抽象性の限界を指し示してはいるものの、有機体と形態とを究極とみなす神話的な誤れる具体性をよしとしてのことであるとすれば、この非難の提起はあまりにも性急すぎるといえよう。そのような神話的な誤れる具体性へ退行することは、いったん獲得された抽象能力を犠牲にするものであって、抽象性を克服したことにはならない。抽象性は、行き詰まった合理性のあらわれである。意味内容について抽象的一般性の水準で下された規定は--たとえば経済的、社会的、政治的、倫理的分野において--理性に属するものを理性に与えはしない。このような規定によっては経験的知識が考慮されないままになり、無内容な抽象からどのような利用法でもひきだすことができることになる。このような経験的知識を閉ざす抽象の背後にはじめて、その時その時に問題とされる状況の特殊性に対応する個々の理性的認識がある。理性的認識に要請される内容性にもかかわらず、この理性的認識は転義的意味においてのみ具体的である。決して、自然的生にとらわれたさまざまな見解に具体的に表現を与える俗流的な意味で具体的なのではない。したがって、今日の思想の抽象性は両義的である。自然がナイーヴに主張される神話的理論からみれば、たとえば自然科学が行う抽象の手続きは、自然的事物のかがやきをそこなうたぐいの合理性の獲得ということになる。理性のパースペクティフからすれば、同じ抽象の手続きが、自然に制約されていると映る。自然的なるものの勝手気ままな活動の場を与える空虚な形式主義に、この抽象の手続きはとらわれていると映る。現状を支配する抽象性は、脱神話の過程が依然として終わっていないことを示している。理性に心を開くべきか、あるいは理性に対して心を閉じたままやっていくかという問いの前に、現在の思考は立たされている。土台としての経済システムが本質的に変わらない限り、自らが設けた限界を、現在の思考は超えることができない。土台の存続は、思考の存続をともなう。つまり、資本主義的システムの不断の発展は、抽象的思考の成長を条件づける(あるいは誤れる具体性の中で溺れることを思考に強要する)。だが抽象性が強固になればなるほど、人間は理性によって統御さあれぬままに立ち遅れる。中途半端に抽象へカーヴした人間の思考が、真の認識内容の発現に対して抵抗するなら、人間は、ふたたび自然的諸力の暴力の前に屈するであろう。行き詰まった思考は、その暴力を制圧する代わりに、理性の上を上滑りすることによって、暴力の放棄をよびおこす。理性のみが暴力と対決し、暴力を屈服させることができるのに、暗黒の自然がますます脅威の度を強めていきり立ち、理性に由来する人間の到来を妨げるのは、資本主義的経済システムのとどめようもない権力拡大の一つの帰結にすぎない。
    --ジークフリート・クラカウアー(舟戸満之・野村美紀子訳)「大衆の装飾」、『大衆の装飾』法政大学出版局、1996年。

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資本主義とは確かに、世俗のこの上ない魔術と神話の世界であるということであり、その魔術と神話の世界では、すべての対象が<抽象化>されて扱われるという時代なのでしょう。

そして、そのシステムを支えるラチオは「理性そのものではなく、曇った理性の一つ」であるということを念頭に置く必要があるようです。

たしかに、この世界には、「人間の根底がシステムの根底であることがない」のは確かででありますが、しかしながら、「人間の人格を論難してはならぬとか、人間本性の提起する要求を満たすべきだ」と声高に叫ぶのは、別の神話と入れ替えるだけなのかも知れません。

そこから始まるのは、まさにもうひとつの「曇った理性」を根底におくラチオの体系にすぎませんから……。

ただいずれにしても、問題なのは<抽象化>という状況です。。
抽象化は「全表現を包む一つの精神空間」を設定することが可能です。

このことによって世界は飛躍的に拡大することは否定できません。

しかし、その抽象的思考様式に対して、具体的観察を欠如しているからとって非難するのもさきのラチオの入れ替えと同じかも知れません。

……というわけで、久し振りに身動きの取れない状況をとってしまった宇治家参去です。

昨日から、本朝では、ボジョレ・ヌーヴォーが解禁されたわけですけども、「ボジョレ・ヌーヴォー」と一言でいっても一言ではつきません。

最安値は各社で夏目漱石先生1枚を下回る値をつけており、そのうえはそのうえをいくというわけですが、売れごろ商品というやつは、実際には「50円」、「100円」という差異しかありません。

市井の職場でもそのあたりの「お手頃商品」が売り込み最前線といいますか、よく売れる価格帯のアイテムになるわけですが……

「この100円の違いって何よ?」

……って訊かれますと、、、

「専門は神学ですので、ちょいとねえ、判断できません」

……などとのたまうことは不可能ですので、それなりに勉強?して売り場には臨むわけですが、

……実際のところ、

丁寧に説明せざるを得ませんが、実にこれが難事です。

「味わい」の違いに関しては「雑味」程度の反映の違いしか実際にはありません。

そして、常酒としてワイン文化と異なる日本人の味覚であれば、ほとんど違いがありません。

もちろん、価格におけるローとハイには大きな違いがありますが、この程度で差を味わえるのは素人には難事です。

ですけど、販売側には、その違いを説明する、「説明責任」(acountability)がありますので、、、

今日は疲れた一日です。

流通・販売という手法としては、一色たんにしてすませても問題ない=抽象化というわけですが、実際にその面前交渉になると、抽象的還元主義とは異なる技倆が要求されるようでして・・・、またまたなにやら、「人間とは何か」という命題に対する「間口」が大きく開かれたようで御座います。

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人間のかたちは美しい

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BEAUTÈ 美しさ
醜さはすべて、失寵、臆病、激高、時期を失した試み、自分自身と矛盾した試みから生まれている。たとえば、殴ろうとしていないまさにその時、殴ることは、筋肉組織を、そしてまた神経組織を壊すことになる。行動が流れるような、反動のないものとなるためには、神経の、さまざまな命令(それはおそらくリズミカルなものである)が一致している必要がある。互いに強め合う必要がある。そのことは、筋肉をおいて、それぞれの部分が全体に及んでいることを意味している。たとえば、斧を振り下ろすためには、まず足に、膝に、腰に力を入れる--一方で、腕の準備をしながら。この準備はまず、神経を探ることであるり、力がリズミカルに堆積する間の調和である。出だしは何の抵抗もない状態で始まる。まるでどんな重みもないかのように--。はたして、人間のかたちが至るところに広がっているこの意志を言い表している限り、人間のかたちは美しい。
    --アラン(神谷幹夫訳)『アラン 定義集』岩波文庫、2003年。

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フランスには丁寧な人間観察とその省察に根ざすモラリストの系譜が滔々と地下水脈のようにながれているわけですが、アラン(Emile Auguste Chartier,1868-1951)もそのひとりに数えてよろしいでしょう。

現代のモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533-1592)といってもよい、その軽快な筆致と深い人間理解にはいつも驚かされるわけですが、年末に刊行予定の論文の再校に朱を入れたり、添削したレポートを大学へ返却したりと、種々仕事をしておりますと、なかなか、長部の文献をひもとく体力・精神力というものがありません。

ですので……
アランの『定義集』で気になる項目をぱらぱらとひもといていた次第ですが、何度読んでもこれがマア、目から鱗というやつです。

ギリシア・ラテンの伝統を濃厚に受け継ぐ、リズム、ハーモニーを基調とした「美」観になるといってよいでしょうが、そこで提示されるリズムとかハーモニーはアランにおいては何かスタティックな観念ではないようです。

もっと活動的でダイナミックな動きの中に見いだされた動態的な美意識なのですが、そのことに何故かすこぶる納得してしまうというものです。

「行動が流れるような、反動のないものとなるためには、神経の、さまざまな命令(それはおそらくリズミカルなものである)が一致している必要がある」ことは、アランに指摘されるまでもないことで、このことは生活世界のなかでよく実感するところです。

思念と動きが、意識するにせよしないにせよ、絶妙なタイミングでリズムカルで流れるようにうごくとき、その有様は一種の美として現出するのかもしれません。

市井の職場で流暢にレジをうっているときでもそうですし、整然と缶ビールを売り場に展開しているときでもそうですし、また論文を執筆するために、よどみなくキーボードを入力しているときもそうです。

まさに「行動が流れるような、反動のないもの」として現れるとき、それは一種の美なのでしょう。

ですけど……、

「そいつはないゼ、アランの旦那!」

……と、声をかけそうになってしまうのが、その美を表現するためにアランが用いている「たとえ」です。

宇治家参去自身もたいがいの「たとえ」をやってしまいますが……

「たとえば、殴ろうとしていないまさにその時、殴ることは……」

……って、旦那!

ですけど……

「殴ろうとしていないまさにその時」に「殴る」ことは、あまりリズミカルでもハーモニカルでもありませんので、アラン先生の仰るとおりなのですが……、そのへんが、フランスのモラリストの諧謔・ユーモアといったところでしょうか。

ゴシック建築を思わせるドイツの文筆とまったくちがう世界がフランスのウイットというわけですが、「思想にユーモアが随伴する」というのはまさにこのことなのでしょう。

モラリストという表現は、モラル(moral)に由来するわけですが、モラルとはすなわち日本語の道徳です。

道徳と聞くとなにやら、しばりつける掟、ルールとの感が本朝では濃厚ですが、それだけがモラルではないのかもしれません。

フランスの知的・精神的伝統においては、モラルとは他律であるよりも、自律的なものという認識が強く、そこにその主観性(恣意的ではないという意味での)を見出すことが可能なのですが、その意味では、自分自身の問題としてモラルを、余裕をもって受容するならば、そこにユーモアとか諧謔が、その間口をひろげているのだろうと思います。

……ということで?

アランの指摘する通り、「醜さはすべて、失寵、臆病、激高、時期を失した試み、自分自身と矛盾した試みから生まれている」わけですから……

「時期を失した試み」は「美しさ」の対極に位置する「醜さ」になりますので、「時期を失し」ないように心がけなければなりません。

ですので、季節の味覚を彩る、0時解禁と同時に「ボジョレー・ヌヴォー(Beaujolais Nouveau)」で乾杯「しなければなりません」。

フランス・ワイン法に規定されているとおり「それぞれの国の現地時間で11月の第3木曜日」がその解禁日になるのですが、これを呑むといつも思うのが……

「ぼちぼち、大好きな秋が終わるなあ」

……そのことです。

ちなみに、昼と夜の境の秋の光景は何ものにも代え難い絶景です。
地上にいながら、天空とつながるような錯覚を覚えます。

さて……。

ともあれ、安物ですが、フルボトルやっちゃいそうな勢いでやっておりますが、飲めない細君にも何かないとマズイのが「政治」という世界です。

結婚記念日は、所用で何もできなかった……宴は後日予定で決着しておりますが……ので、とりあえず、季節の鉢植え……名前がわかりませんが……をテーブルの上に置いておきます。

……これにより、「時期を失した試み」を避け、「美しさ」を追求するために、解禁日当日深夜にボジョレを鯨飲してしまうわけなのですが、朝起きてから、「酒臭く」ても、「怒られない」はず……なのではないかと思います。

……ということで、リズムとハーモニーの「美しさ」が完成するのではないでしょうか? アラン先生!!

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(かなわぬまでも……) 飛びつくまでと覚悟をきめた平蔵へ、

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 石段の上へ、ふわりと人影がさした。
 平蔵より一足先に石段をのぼっていた井関録之助が、その気配を感じ、傘をあげてふり仰いで見て、
 「あっ……」
 と、叫んだ。
 叫んだときには、横なぐりのすさまじい刀風を受け、番傘をつかんだまま、録之助が石段を転げ落ちて行った。
 〔凄い奴〕だ。
 〔凄い奴〕が、本門寺・石段のいただきに凝と息をひそめて、二人を待ちうけていたのである。
 「あっ、録……」
 いいかけて平蔵が、自分の傍を転げ落ちて行った録之助の安否をたしかめる間とてなかった。
 五、六段を一気に走り下りて来た凄い奴が、低く腰を落として、下からすくいあげるような一刀を平蔵へ送りこんで来た。
 長谷川平蔵は、とっさに、さしていた番傘で、おのれの躰を庇うのが精一杯であった。
 ばさっと、番傘が音をたてた。
 凄い奴の一刀が、番傘を切りはらったのだ。
 平蔵の手をはなれた番傘は、凄い奴の刀に切り破られた姿を雪片の中に一瞬浮かせ、それから石段の下へ落ちて行った。
 「たあっ!!」
 間髪を入れぬ鋭い二の太刀。
 「む!!」
 平蔵は石段二段を飛びあがり、辛うじてこれをかわしたが、抜き合わせる間もなく、凄い奴が平蔵の足を薙ぎはらってきた。
 平蔵は、飛びあがった。
 飛びあがったが平地ではない。急な石段の上なのである。
 息つぐ間もない恐るべき斬撃を、ここまでかわしたのも平蔵なればこそであったろう。
 平蔵は、凄い奴へ自分の躰を叩きつけるつもりで飛びあがって体当りをくわせた。まさに捨身であったといわねばなるまい。
 これには凄い奴もおどろいたらしいが、
 「ぬ!!」
 もちろん、体当りをくらうような奴ではない。
 ぱっと、燕のごとく飛びちがった。
 平蔵は、石段へ落ちてすぐさま、片ひざをたてて向き直った。
 向き直ったが太刀を抜きはなつ姿勢ではなく、また、その余裕はない。
 平蔵は辛うじて、差しぞえの小刀を抜いてかまえた。
 凄い奴が、にやりと笑い、太刀を上段にふりかぶった。
 片ひざをついたままで身うごきもならず、
 (ああ……これでは、こやつの太刀を、とうてい受けきれまい。おれも、これが最後か……)
 と、平蔵は感じた。
 このとき、はじめて凄い奴の顔を平蔵は見た。
(中略)
 (かなわぬまでも……)
 飛びつくまでと覚悟をきめた平蔵へ、
 「まいるぞ」
 じわりといい、自信にみちた一刀を打ちこまんとした凄い奴が……
    --池波正太郎「本門寺暮雪」、『鬼平犯科帳 (九)』文春文庫、2000年。

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長谷川平蔵のごとくありたいと切に願う宇治家参去です。

本日が結婚記念日のようでして……結婚してから、どうやら、8年の歳月が流れてしまいました。

結婚したときが、博士課程の二年目ですから、今思えば、そうとう無茶苦茶な決断をしたものだと思われます。

まあ、このへんで、年貢を納めておくか……ぐらいの意識で、フツーに式まで挙げて、ともかくもここまで家族で生きてこられたことには、感謝せざるを得ません。

不可能と思われる対象に対して「シカタガナイ」と嘯くことはやめ、「なんとかしよう」と思えば「なんとかなった」のがこの8年の歩みかもしれません。

別に大難があったわけでもなく、大喜があったわけでもありませんが、なにかを積み重ねていく……ということはそこで学んだのかもしれません。

……ということで?

何気に人生、崖っぷちの宇治家参去です。
これから半年かけて、廃業との戦いです。

ですけど、覚悟を決めるとナントカナル……。

否、むしろ、何とかしていこう……細君と話し合うなかでそのようにナイーヴに決意したある日の宇治家参去です。

来年の結婚記念日には、

「まあ、あんなこともあったな」

……と、

軽く言葉を交わすことができるように、ちょいと額に汗しながら、健闘してみようかと思います。

何しろ、私淑する長谷川平蔵ですら、、、

「(ああ……これでは、こやつの太刀を、とうてい受けきれまい。おれも、これが最後か……)」

……と思ってみた瞬間など数え切れないぐらいあったわけですけども、「(かなわぬまでも……)」と勇気を振り絞って奮闘する中で、一番よい方向へと導かれるわけですから、、、

「おれも、これが最後か……」

なのですが、

「かなわぬまでも」

ちょいと立ち向かうというのは、なんだか恰好いいですわい。

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鬼平犯科帳〈9〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈9〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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思考は、そのままではいわば不明瞭でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない

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四・一三
 哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
 哲学は学説ではなく、活動である。
 哲学の仕事の本質は解明することにある。
 哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
 思考は、そのままではいわば不明瞭でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。
    --ウィトゲンシュタイン(野矢茂樹訳)『論理哲学論考』岩波文庫、2003年。

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オーストリア出身の言語哲学者・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889-1951)は哲学を定義してうえのような命題にまとめたわけですが、哲学……ここでは広義にうけとめるならば、倫理学、宗教思想に関連した学問も含む……を教授するなかで、、、

「たしかに」

……と思うことがしばしばです。

俗に哲学者と称されるひとびとの言説はたしかに難解で難渋で読んでいてチンプンカンプンな側面を否定することはできません。しかし、丹念によんでいくと、そのいわんとすることが理解できます。

しかし、それを教える段になって、そのいわんとすることのおいしいところだけをピックアップして「チャート式」のように「まとめて」しまうと、その「いわんとしている」ものが煙のように吹き飛んでいきます。

「哲学の目的は思考の論理的明晰化」なのですが、これは、おいしいところだけを「まとめて」語ることではないのでしょう。

その意味では、論理的明晰化とは「単純化」という行為ではなく、なんどもその言説と向かいあうなかで、あたまに打ち付けられる言葉を、その言葉として受容していくことなのかもしれません。

それが解明という行為に直結しているのだと思います。

だからこそその成果は、諸命題の明確化であるからこそ、「哲学は学説ではなく、活動」なのかもしれません。

前者に重きを置いてしまいますと、哲学・解説者となってしまう消息はいうまでもありません。

人間という生き物は、手順やポイント、要点をかいつまんで明確化することが大好きなようですが、それでは本質を見失ってしまうことの方が多いのかもしれません。

現実の「思考は、そのままではいわば不明瞭でぼやけている」ことは否定できません。

しかし、不明瞭な部分をスルーして、明確なところだけかいつまんだとしてもそれは対象を明晰にすることはでいず、かえって「限界」を曖昧なままにしてしまうのでしょう。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)は、主著である三大批判書を公刊するなかで、「人間の限界」を示そうとしたわけですが、限界がはっきりしない限り、人間は無限へと跳躍できないのかもしれません。

思考を明確にし、限界をハッキリと知ることにより、人間はきちんと歩くことができるのでしょう。

……ということで??

月曜の短大のでの講義は無事終了!
いつもながら熱心に聞いてくださる短大生に感謝です。

ヘンな話ですが、専門でやっている学生が熱心に聞くのはアタリマエなのですが、一般教養として受講している学生さんたちが熱心に聞いてくださるというのはアリエナイことでして、そのアリガタさに、もうちょいと頑張ろう!……そう思う宇治家参去です。

ただ不養生がつのり痛風がいたく、そいつがちょいと結構きついというやつです。
痛みを庇いながらあるくわけですので、他の部位もちょいと悲鳴をあげてきておりますので、どこまで「呑んでよいのか」という「限界」をきちんと把握した方がよいかもしれません。

……とわいえ??

午後からの授業ですので、講義を行う前に、何かを入れておかないと……酒ではありませんよ……、腹が減るというやつですので、例の如く、学生食堂にて華麗なるランチタイムとなってしまいました……っていつもの好例事です。

日曜が二日酔いでほとんど食べておらず、何か

「ガッツリ」

いきたいと所望しておりましたので、ハンバーグ系のランチでも!

……と思った次第ですが、生憎本日ハンバーグは「キムチソース」という逸品でしたのでスルーしてしまいました。なにしろ「しゃべる」ことが「商売」ですので、遠慮した次第です。

で……
この学食では、丼物にチャンレジしたことがなかったので、本日の丼を物色したところ、「秋刀魚の竜田揚げ丼」と「麻婆豆腐丼」がありましたので、後者をセレクトした次第です。

麻婆豆腐といえば、いまでは手軽なご家庭メニューとして定着した感がありますが、宇治家参去が幼稚園・小学校低学年時代には、まだまだご家庭メニューではなく、中華料理屋で食べるメニューだったような気がします。

そののちCookdoなんかで、手軽なセット調理材が出始め、家庭メニューとして定着した感がありますが、丼として利用するには、あまりにべたべたしてもまずく、ぱさぱさしていてもまずく、その頃合いがなんとも難しい一品だよな・・・と思いつつ、オーダーして、テラスへと移動です。

ぼちぼち肌寒くなってきておりますので、屋外テーブルでのランチは、12月だと難しいかもしれません。

さて、味わいですが、どちらかといえば、さっぱりとつくられていたのですが、おもった以上にさっぱりでした!

質より量、味付けは濃い目……というのがエネルギッシュな学生さんたちを相手にする学食の本道です。

ですけど、どちからといえば、味付けは薄目で、自分自身としてはちょうどよく、晩秋の小春日和にその味わいを堪能させて頂いた次第です。

さて……

授業終了後、大学で一緒に倫理学を担当させて頂いている大家の先生のもとを訪問させて頂き、レポート添削に関する打ち合わせを少々行い、現在崖っぷちという近況報告をさせて頂き、研究室を辞すると、すでにまっくら・・・。

昨年よりもやや暖かい晩秋ですが、確実に冬の気配を感じさせるひとときでした。

帰りにぎわには、先日出張で韓国の大学で講演をしてきたとのことで、伝統工芸品のキーホルダーとカードケースのお土産を頂き、息子殿にまで、お菓子を頂戴してしまいました。

ちょいと、この半年が宇治家参去自身にとっても人生の正念場になりそうです。

ひょうひょうと軽薄に生きてはおりますが、ちょいとその足下で真剣に水掻きをフル回転させねばと思った一日です。

「思考は、そのままではいわば不明瞭でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない」

人生も同じかもしれません。
だいたいにおいて不明瞭でぼやけているのでしょうが、それを単純化することなく、明晰にし、限界をはっきりと見定めた上で、何ができるか、何ができないのかふまえて、つみかさねていくしかありません。

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他の人間に対する私の有責性、見知らぬものの自由のための、逆説的で、背理的な有責性。

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 他の人間に対する私の有責性、見知らぬものの自由のための、逆説的で、背理的な有責性。タルムードのなかの言葉を借りて言えば(『ソター篇』三十七B)、他の人間の有責性についてさえ有責であるような有責性。それはなんらかの原理や、なんらかの道徳的明証性の普遍性に捧げられた経緯に由来するのではない。その有責性は、「他なるもの」が「同一なるもの」に統合されてしまうことなしに、「同一なるもの」が「他なるもの」と関わりうるような、例外的な関係のことである。この関係性においては、厳密な意味で、人間の精神に賦与する霊感が認められる。とまれ、私たちのどんな熱狂の修辞ともきわだった対照をなすがゆえに、いかなる雄弁をもってしても、いかなるポエジーをもってしても曇らせることのできないひとつの意味が、他者に対する有責性というかたちで到来するということだけは確かである。
    --エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)「イデオロギーと観念論」、『観念に到来する神について』国文社、1997年。

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こんばんわ。

前日、かなり飲んでおりましたので・・・

今日はきついゼ・・・と思った通りの市井の職場でございました。

宇治家参去の勤務する店舗は、屈指の「雨に弱い」店といわれているのですが、土曜が風雨の一日で、日曜がど晴天でしたので・・・予想通りの展開といいますか、いわゆる「レ地獄」(レジ・地獄)という一日です。

前日、かなり飲んでおりましたので・・・
レジ・接客というのは、正直なところ、キツイわけですが、、、

それでもその自分自身を省察してみると面白いものです。

体調がふつうとかややいいときよりも、体調が悪い・ゲフゲフなときほど、丁寧な接客、すばやいレジ業務ができる!というのが不思議なモノです。

本日もキツイのはキツイわけですけれども、一人一人のお客様に対して、自分でありえねえ!と思いそうな、いい業務ができてしまう・・・そのことに驚きです。

人間は、体がよわっているときのほうが、感覚が鋭敏なのかもしれません。
そうしたとき、普段、考える・意識することのない人間に対する有責性というものが自覚できるのかもしれません。

今日は昼から短大で授業です。
夕方には、通信教育部のレポート添削に関して石神先生と打ち合わせで、終わるとそのまま市井のしごとへ直行です。

酒を呑んでいようが呑んでいまいが、きついといえばきつい毎日ですが、きついからこそ、感覚を鋭敏にとぎすますことができるのかもしれません。

……などと思いながらピークタイムをおえ、倉庫在庫の数値確認をしておりますと、はや「ボジョレヌーヴォー」が店舗に納品されておりました。今週には販売開始ですので、ちょいと楽しみです。

・・・ということで、あれだけ呑んだにも拘わらず、そして仕事をしていてきつかったにもかかわらず、とりあえずいっぺえ呑んでから沈没です。

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観念に到来する神について (ポリロゴス叢書) Book 観念に到来する神について (ポリロゴス叢書)

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高談雄弁 四筵を驚かす

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 飲中八仙歌   杜甫

知章騎馬似乗船
眼花落井水底眠
汝陽三斗始朝天
道逢麹車口流涎
恨不移封向酒泉
左相日興費萬銭
飲如長鯨吸百川
銜杯楽聖称避賢
宗之瀟灑美少年
挙觴白眼望青天
皎如玉樹臨風前
蘇晋長斎繍仏前
酔中往往愛逃禅
李白一斗詩百篇
長安市上酒家眠
天子呼来不上船
自称臣是酒中仙
張旭三杯草聖伝
脱帽露頂王公前
揮毫落紙如雲煙
焦遂五斗方卓然
高談雄弁驚四筵

知章が馬に騎るは船に乗るに似たり
眼花み井に落ちて水底に眠る
汝陽は三斗にして始めて天に朝す
道に麹車に逢えば口に涎を流し
恨むらくは封を移して酒泉に向わざりしを
左相の日興 万銭を費す
飲むこと長鯨の百川を吸うが如く
杯を銜み聖を楽しみ賢を避くと称す
宗之は瀟灑たる美少年
觴を挙げ白眼にして青天を望めば
皎として玉樹の風前に臨むが如し
蘇晋は長斎す 繍仏の前
酔中往往逃禅を愛す
李白は一斗 詩百篇
長安市上 酒家に眠る
天子呼び来れども船に上らず
自ら称す 臣は是れ酒中の仙と
張旭は三杯 草聖伝わる
帽を脱ぎ頂を露わす 王公の前
毫を揮い紙に落せば雲煙の如し
焦遂は五斗 方めて卓然
高談雄弁 四筵を驚かす
    --前野直彬注解『唐詩選(上)』岩波文庫、1961年。

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きのうは、どうやら、ちょいとではなく・・・かなり飲んだようで、かなりのこっております宇治家参去です。

ご同道いただきました皆様、くだらないお話におつきあいくださり、ありがとうございました。

これに懲りずに?どうぞまたよろしくおねがいします。

もう「かなり飲むまい」と決意しつつ、深く落ち込む宇治家参去でしたっ。

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<語ること>が、言表された主題による客観化に還元されることはない

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 <語ること>においては、発語者としての主体は他者にさらされるのだが、このような<語ること>が、言表された主題による客観化に還元されることはない。さもなければ、主体を傷つけるものは何もないことになろうし、したがって、主体がその思考をさらし、みずからの<語ること>のうちで自分をさらすこともないであろう! 主体は他者による触発にさらされている。ほかならぬその不可逆性ゆえに、他者による触発は、普遍的思考に変容することがない。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。

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ようやく公募推薦入試の面接官のおしごとがおわりました。
今年で三回目なのですが、非常に神経をつかいます。

ともあれ、一名の欠席者も出さず、無事にすべての受験生が試験をおえられたことに感謝です。

ひとりひとりの人間と向かい合い、言葉を交わし「語ること」というのは、非常に大変で生命力をつかう行為であるわけですが、そのなかでお互いがお互いから学ぶというものかもしれません。

筆記試験中の午前中は、突風・豪雨というまさに嵐のような状況でしたが、お昼頃から晴れだしましたので、受験生たちも、こころに余裕をもって面接に臨めたのではないかと思います。

もちろん、「入試」ということですから、すべての人々を包摂することは不可能ですが、どちらの結果になろうとも、ひとりひとりの人間にとって幸あれと望むばかりです。

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言語のなかで、また社会のなかで確固たる意志をもった明確な声としてたちあらわれる個々人の使命

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 知識人のありようを変質させた元凶として、とりわけ合衆国を槍玉にあげることについても腑に落ちないところがある。今日、どこをみても、たとえフランスでも、知識人はもはやボヘミアンでもなければ、カフェで語る哲学者でもない。彼らの人物像は、従来のものとはまったく異なり、彼らが代弁=表象(レプリゼント)するもののおおくは、これまでとまったく異なる領域であり、彼らの代弁=表象法もまた、これまでとは劇的といえるほど異なるものである。今回の連続講演で示唆してきたことだが、知識人が表象するのは、静止した聖画(イコン)のごときものではなく、言語のなかで、また社会のなかで確固たる意志をもった明確な声としてたちあらわれる個々人の使命であり、エネルギーであり、堅固な力である。そのような使命感、そのようなエネルギー、そのような力がたくさんの問題と、それも、最終的には啓蒙と解放と自由とがわかちがたくむすびついた問題とかかわりあう。したがって、今日、西欧であれ非西欧であれ、知識人のありようをとくに脅かすのは、アカデミーでもなければ郊外住宅でもなければジャーナリズムやなりふりかまわぬ商業主義でもなく、むしろ、わたしが専門主義(プロフェッショナリズム)と呼ぶようなものなのだ。専門主義ということでわたしが念頭においているのは、たとえば朝の9時から夕方の5時まで、時計を横目でにらみながら、生活のために仕事をこなす知識人の姿であり、こんなとき知識人は、適切な専門家としてのふるまいにたえず配慮していることだろう--自分が波風をたてていないか、あらかじめ決められた規範なり限界なりを超えたところにさまよいでてはいないか、また、自分の売り込みに成功しているか、自分がとりわけ人から好感をもたれ、論争的でない人間、政治的に無色の人間、おまけに「客観的な」人間とみられているかどうか、と。
    --エドワード・W・サイード(大橋洋一訳)『知識人とは何か』平凡社、1995年。

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今日はひがな一日ゆっくりとしてしまった宇治家参去です。
外は真冬を思わせる寒さでしたので、珈琲を飲むついでに、何か甘いものが欲しくなるという寸法で、雨音を楽しみながら、仕事と全く関係のない読書にふけるという一日です。

おたふく風邪の息子殿も食事がなかなかうまくできませんが、熱はひいたので、ひさしぶりにYoutube三昧というわけで、、、休日を楽しんでいるようです。

さて・・・
明日は勤務校の公募推薦入試です。
嵐?が予想される空模様ですが、せめて受験生が大学へ向かう間と帰る時間には収まって欲しいものです。

素晴らしい、未来の学生さんたちが集まることをいのりつつ、ぐだぐだの現状に甘んじてはならぬと鉢巻きを締め直し、サイード(Edward Wadie Said,1935-2003)を再読しております。講演録をまとめた知識人論ですが、プロフェッショナリズム(大学教授をプロフェッサーというのも同じ語義)ですが、サラリーマン教師に留まることなく、たえず、ひとと語らい、分かち合い、専門を深めつつも、その領域を横断していく振る舞いをこころがけなければならぬ・・・などと諭された次第です。

もっとも「カフェで語る哲学者」……カルチェ=ラタンで論じるサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)が意識されているのですが、宇治家参去の場合、「カフェで語る哲学者」でもなければ、「朝の9時から夕方の5時まで、時計を横目でにらみながら、生活のために仕事をこなす」仕事人でもありません。

どちらかといえば「ボヘミアン」が正しく、正確には「居酒屋で語る哲学者」がその正体?かもしれません。

ただ、いずれにしましても「知識人が表象するのは、静止した聖画(イコン)のごときものではなく、言語のなかで、また社会のなかで確固たる意志をもった明確な声としてたちあらわれる個々人の使命であり、エネルギーであり、堅固な力である」ことだけはどのような形態であったとしても、忘れてはならない・・・そのことをサイードに励まされたようにも思えます。

……ということで、明日も朝から早いので、そして多分遅くなりそうなので、このあたりでおやすみなさい。

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知識人とは何か (平凡社ライブラリー) Book 知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

著者:エドワード・W. サイード
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故国喪失についての省察 2 Book 故国喪失についての省察 2

著者:エドワード・W・サイード
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「道を邪魔するものは、道を開いてくれる。」

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 マルクス・アウレリウスと比較すること。<<生きることができるところならばどこでも、ひとは立派に生きることができる。>>
 <<企てられた仕事をやめることも同様に仕事になる。>>
 「道を邪魔するものは、道を開いてくれる。」
    --カミュ(高畠正明訳)『太陽の賛歌 カミュの手帖--1』新潮文庫、昭和四十九年。

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「たぶんそうなるだろう」……ってだいたい、先が見えていることって世の中にあるんです。

その「たぶん」ですが、よく使用するパターンとして、

「たぶん、だいじょうぶだろう」

とか

「たぶん、だめかな」

……っていうのがあって、希望的観測とか悲観的推理ではなく、実感として「たぶんそうなる」だろうなあ……って思っていて、結局たしかに「そうなる」ことって、よくはあるんです。

今回は後者でした。

昨日、息子殿が受験した小学校の合格通知が届いたのですが・・・

受験後に細君と確認はしていたのですが、

「たぶん、やばいねえ」

……の、、、

「まさかが実現?」

……したようです。

感触として、、、

「ちょとやばいんでねえの?」

、、、って感触していたわけですが、

実際に、それを宣告されると、なかなか事態を受け入れることができない宇治家参去です。

自分自身、小学校から換算すると、28年間ほど……長えぇぇ……教育をうける「身分」にあったわけですが、そのなかで実感したのが親が子供に遺すことができるのは「教育」だけだと思い、1年間かけて小学校の授業料よりも高い塾に泣きながら通い、奮戦した次第ですが、、、

「御縁がなかった」ようです。

一番ショックだったのが、本人のようで、、、

通知を確認すると、、、

一時間ほど、小さな肩をふるわせ、泣いておりました。
おまけに、昨朝より、おたふく風邪を発病してしまい、その様が、なんともいえず、、、言葉になりません。

感触としてはその事実は予見できておりました。

たぶん、ダメだろうってわかってはいたんです。

しかし、その事実をつきつけられますと、うまく整理することができませんし、このあとの道筋を組み立てることへなかなか集中もできません。

まだ出願できるミッションスクールという手もあるのですが、、、

細君はいい顔をしませんし、たぶん、息子殿も、その話に乗らないのではないかと思います。

敗戦を終戦とはしたくありません。
しかし、敗戦を敗戦と認識する必要はあります。

しかし、このことによって、「学ぶ」ことへの意欲を本人が閉ざしたりしてしまうことだけはなんとかして回避したいものです。

ちょゐとそことナイーヴに向かいあっていくしかありません。

「学ぶ」ことは辛いわけですが、その辛さを「生きるエネルギー」に転換していきたい……とは思うのですが、それでもなかなか整理ができないダメオヤジです。

とりあえず、頭を整理するためには、自らがその「学ぶ」ことに挑戦することが必要不可欠でしょう。

カミュ(Albert Camus,1913-1960)は「<<企てられた仕事をやめることも同様に仕事になる。>>」「道を邪魔するものは、道を開いてくれる」といっております。

まずは、自分の仕事に専念しようと、思い、再度「中世ラテン語」の勉強を再開しました。
古典ラテン語はそれなりに読み書きできるのですが、ちょいと……以上に隔離のある……趣をことにしたのが中世ラテン語なのですが、実はこれがかなり苦手です。

まずは、自分が辛い「学び」の姿を「生きる勇気」に転換する姿を息子殿にみせることによって、局面を転換し、「道を邪魔するものは、道を開いてくれる」ように筋道をたてていきたいと思います。

しかし、正直なところ・・・

わかってはいたのは否定できませんが、、、

「なんだかな・・・」

……ってところです。

肩をふるわせ、涙を流す、その姿が目蓋から消えません。

ひさしぶりですわ、酒の味がわからないという一日です。

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人間の超越性を否定して、人間を、その唯一の内在性に還元しようと主張してはいけない

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 くそまじめな人は、計画が目的を決定している以上、計画から目的を切り離し、目的にはそれ自体の価値を認めようと主張します。つまり、価値というものは、人間以前に、人間なしで、世界に存在していると信じているわけで、人間は、それを摘みとりさえすればいいというのでしょう。しかしスピノザが、そして、ヘーゲルがより決定的に、この偽の客観性の幻影を追い払ったはずです。ここにまた偽の主観性があります。これは前者とは正反対に、目的から計画を切り離しことを主張し、計画を単なる遊び、気晴らしと見ようとします。この主観性は、世界にいかなる価値が存在していることをも否定するのです。とりもなおさず、この主観性は、人間の超越性を否定して、人間を、その唯一の内在性に還元しようと主張しているからです。欲望する人間、明晰に計画する人間は、その欲望において真摯です。すなわち、彼は一つの目的を欲しています。ほかのどんな目的も排して、その目的を欲しています。しかし、彼はその目的に立ちどまるために欲するのではなくて、それを楽しむために欲するのです。つまり、その目的が追い越されるために、彼はその目的を欲するのです。どんな目的も同時に出発点である以上、目的の観念は曖昧です。だからと言って、このことは、それが目的として目標されうることの妨げにはなりません。つまり、人間の自由性が在るのは、実にこの権限内なのです。
    --ボーヴォワール(青柳瑞穂訳)『人間について』新潮文庫、昭和五十五年。

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子供をみていると、目的と計画を切り離したり、目的から計画を切り離したりしながら、価値と実存を切り離して思索し、行為することはあまりないな~と実感することがよくあります。

それにくらべると、「賢い」「オトナ」と自称するひとびとは、結構、目的と計画を切り離して思案したり、目的から計画を切り離したりしながら行動し、価値と実存を切り離して思索し、行為するものだよな・・・などと強く実感する宇治家参去です。

学問の仕事で食べることができないので、オサムイ状況ですが、一般の仕事で糊口をしのいでおりますが、その指定休が、火曜と金曜です。

ただし、学問の仕事との調整や、市井の職場における調整なんかもありますので、結構流動的で、その休みに休むことができず、別の日に休みをとってしまいます。

今週もそうした流動的一週間です。

土曜日に勤務校の推薦入試の試験監督があるため、市井の職場をお休みするために、前日の金曜日と振り替えたのですが、急に?、お歳暮ギフトコーナーの担当者の休日調整で、休みであった火曜日を出勤して、金曜を振り返ることになってしまいました。

……そうしますと、あたまにくるのが息子殿。

火曜日=休みとの認識で、生活を組み立てておりますので……それでも、休日変更はなるべく早めに本人に伝えておりますが……、休みで一緒に遊べると画策していたようですが、やはりこうした突発事で前日にその話をしなければならないこともマアあるわけで、それを話したところ・・・

あたまにきたのでしょうか・・・。

泣きながら腹を噛まれた次第です。

このときほどメタボでよかったとおもった一瞬はありません。
ただ歯形はのこっておりますが・・・。

さて……
「賢い」「オトナ」を自称するひとびとからすると、おそらく彼の行為は、「大人げない」「幼稚」な「反抗」にすぎないと評することはたやすいことです。

しかし実際のところ、よくよく観察するならば、そうした言葉で片づけることの不可能な出来事かもしれません。

休みの変更は、まさに「賢い」「オトナ」の都合です。
しかし、一本気で、「計画」と「目的」を、そして「目的」と「計画」を分断しない思考で生き抜くその歩みには、、、噛み付くという抵抗として形としてはあらわれたわけですが、そうした「賢い」「オトナ」の「小利口」さに還元しきれない、なにか、「人間」の「強さ」というものを実感されてほかなりません。

うえには、実存主義の女流哲学者・シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir,1908-1986)の人間論の一節を引用しましたが、「計画」と「目的」が一致した、裸の人間の力強さをウマイ言葉で表現しているというものです。

「欲望する人間、明晰に計画する人間は、その欲望において真摯」なのでしょうから、精一杯の抵抗を噛み付くと表現したのかも知れません。

しかし、それをあざ笑うことはできません。「どんな目的も同時に出発点である以上、目的の観念は曖昧」なことは承知ですし、そのことは「それが目的として目標されうることの妨げにはなりません」から。

そこに人間の自由性が在るのだとすれば、そのあたりをきちんと把握しないかぎり、人間の行為というものの意味合いを一歩深く考えることはできないのかもしれません。

……ということで?

お酒のディスカウントストアで、捨て値で売られていた純米酒「奥入瀬の魔力」(桃川(株)・青森)をゲットしたのですが、思った以上に、旨口です。

濃厚!な味わいなのですが、さっぱりとしてい、何杯でもいけるというやつです。

一升瓶で1500円ですから、下手なパック酒には手が出せないというものです。

……ということで連日飲んで撃沈している宇治家参去でした。

息子殿に噛まれた傷口も、これで体内からのアルコール消毒というやつです。

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人間について (新潮文庫) Book 人間について (新潮文庫)

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「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」ほど恐ろしいものはありません

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 人間は「真理」をもとめる、すなわち、自己矛盾せず、欺瞞せず、転変しない世界を、真の世界--苦悩をうけることのない世界を。矛盾、欺瞞、転変が--苦悩の原因であるとは! 人間は、あるべき世界のあることを疑わず、この世界へといたる道を探しもとめたがる。(インド的立場から批判すれば、「自我」ですら、仮象であり、非実在であるとされる。)
 ここでは人間はどこから実在性の概念をえてくるのか? --なぜ人間はまさしく苦悩を、転変、欺瞞、矛盾から導きだすのか? なぜむしろ人間の幸福を導きださないのか? ・・・--
 移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪。 --恒常なるものをよしとするこの価値評価はどこから由来するのか? 明らかにここでは真理への意志はたんに恒常なるものの世界へと入りたいとの要望にすぎない。
 感覚は歎き、理性は誤謬を訂正する。したがって理性こそ恒常なるものへの道であると、人は推論した。最も非感覚的な理念が「真の世界」に最も近接しているにちがいないのである。 --感覚からたいていの不運が由来する、--感覚は、欺瞞者、眩惑者、絶命者である。--
 幸福は存在するものにおいてのみ保証されることができる。転変と幸福とはたがいに排斥しあう。したがって最高の願望は存在するものとの一体化をめざしている。これが、最高の幸福への道をあらわす定式である。
 要約すれば、あるべき世界は現存しており、私たちがそのうちで生きている世界は誤謬である、 --この私達の世界は現存すべきではなかったということになる。
 存在するものによせる信仰は一つの帰結にすぎないことが、立証されている。すなわち、本来の最初の動き primum mobile は、生成するものを信じないこと、生成するものに対する不信、すべての生成の軽視なのである・・・
 いかなる種類の人間がそのように反省するのか? 非生産的な、苦悩をうけた種類の人間、生に疲れた種類の人間で和える。私たちが反対の種類の人間を想いうかべてみれば、そうした人間は存在するものを信ずる必要はないにちがいない、それどころか彼は、存在するものを、死んだ、退屈な、どうでもよいものとして軽蔑するにちがいない・・・
 あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探し求める。「真理への意志」--創造への意志の無力としての。
    --ニーチェ(原祐訳)「権力への意志 下」、『ニーチェ全集』13巻、筑摩書房、1993年。

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ちょいとイレギュラーな授業……短大の「哲学」での講義……を組み立ててしまったのですが、先週、今週と2回ほど、教材から全く離れた授業を組み立ててしまいました。

なにをやったかと申しますと、宇治家参去特有の表現を使うならば……、

「演説」

……という奴です。

宇治家参去の授業を受けたことのある御仁であれば、

「ああ、あの表現か」

……ということになりますが、、、

要は……じぶんらしくないのですが……ちょゐと熱く語ったてしまった次第です。

「語り」が入りますと、やはり、一般教養の科目ですから、辟易としてしまう受講者もいるのではと思い、いつも、「語ってスイマセン」というおまけをつけてしまいますが、おまけのおまけをつけてしまって……

……やっちゃった、、、などと忸怩たる宇治家参去です。

ちょうど、ポストコロニアル批評のスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の発想を紹介するなかでのひとことになりましたが……そのうちスピヴァクでも論文を1本書きたいところですが……、、、ここだけはどうしても語らずにはおけません。

理念と現実の矛盾感覚の自覚の問題です。
ひとはそのどちらか一方に足をツッコンで、重視して生きていくことのほうが多いのですが、それはむしろ、現実からも、そして理念とか理想といったものからも遠ざかってしまうからです。

理念が先にたつとどうなるのでしょうか・・・。
70年代の学生運動を末路を想起するとその消息が理解できるというものです。
職業革命家たちは、理念や理想に対して俊敏になればなるほど、現実から遠ざかっていったものです。

「人間のための革命」を標榜しながら、同志を抹殺していく……そうした陥穽をそこにみてとることが可能でしょう。

そこには生きた人間も、そして人間のための理念も理想も存在しません。

地に足がついていない……といったところでしょうか。

そしてその対極には何があるのでしょうか。

自称「現実主義者」と評して「おまえ、もうちょっと現実を見ろよ」とうそぶくシニシズムです。
現実にあり方には実が不満タラタラなんですが、諦めてもいる状況です。ですけど、やっぱり、気にはかかるのですが、「シカタガネエ」と嘯き慰めつつ、理想を語る連中に冷や水を浴びせるとでもいえばいいのでしょうか。

ここには地に足が埋まっている……といったところでしょうか。

しかし、現実はその両者は両方の両極端であり、そこには生きている人間は存在しておりません。

どこに生きている人間世界が存在しているのか。

死に向かって生きている人間存在そのものが矛盾の当体であるわけですが、その矛盾を理念とか現実という言葉によってカテゴライズさせずに、その矛盾を矛盾として受け止め……スピヴァクの言葉で言えば、「ダブルバインド」ということですが……黙々と歩む世界にのみ、現実の沃野があるのかもしれません。

熱意のある学生というのは、おおむね、理念に傾きがちで、学生を終えた社会人というものは、おおむね、現実主義を吹聴しがちです。

ですけど、そこには生きた人間世界は存在しません。

どちらも現実を単純化した抽象化された立場に過ぎないからです。

現実と理念という「重荷」である十字架をせおいつつ、開拓すべきなのですが……、、、人間はどこかで、そこから概念的跳躍というウルトラQを選択肢がち……といったところでしょうか。

……その辺を説明……もとい、かたり始めると、とまりません。

これがいわゆる宇治家参去ワールドというやつでしょうか。

語る自分に辟易としながらも、小難しいスピヴァクの議論を展開したわけですが、思った以上に学生さんたちが、目をキラキラと輝かせて聞いてくださったことに感動です。

たしかにニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,,1844-1900)の語る通り、「自己矛盾せず、欺瞞せず、転変しない世界を、真の世界--苦悩をうけることのない世界」があったほうがいいし、そうなってほしいとは素朴ながらに思いも致します。

しかしながら、職業革命家たちが夢想するとおり「あるべき世界は現存しており、私たちがそのうちで生きている世界は誤謬である」と断ずることも不可能です。

そして同時に、シニシズムの現実主義者が「あるべき世界」を変革不可能と断ずることにもう同意できません。

であるならば、どうすればよいのでしょうか。

極端な道を排しながら、もくもくと我が道を歩みしかありません。しかしそれは孤立した我ではなく、全体のなかでの自己、自己としての全体のなかでの歩みでなければならないのでしょう。

関係性がたたれてしまうと、簡単に革命家になったり、自称・現実主義者になったりしてしまうものですから・・・。

真の世界とはどこにあるのでしょうか。

いきている、このぐだぐだの素晴らしき世界にこそあるのでしょう。

だからこそ、「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」から卒業したいものです。

そして、「あるべき世界」は「あるべき」批判概念ではなく、「あるべき」ように「創造しようとの意欲」をもって、ダブルバインドを自覚しつつ格闘するしかないのでしょう。
その辺を、柄にもなく語っちまいました・・・。

ですけど、そのへんの自覚、ふんぎり、といった感覚がないと、たやすく人間は人間生活世界に対して「閉ざして」生きてしまい、手段論に籠絡されてしまうというものです。

……ということで???

錦秋のキャンパスで、めずらしい学食メニューをランチで頂戴した次第です。

「カレー、ハッシュドビーフのWプレート」(うろおぼえ)

……という逸品です。

カレーと、ハヤシの、二品をいっぺんに楽しむ?ことができるという便利なアイテムであり、まさに、観念の籠絡を粉砕する一品です。

しかし……

……ながら……、

カレーは、カレー、

ハヤシは、ハヤシ、

、、、で食べた方がグッドだったかもしれません。

その意味では、理念とか概念を超克しようと尽力した宇治家参去自身の脳内理念・概念脱却論もひとつの陥穽に陥っていたのかも知れませんが……

……たぶん、、、そんなことはなかったハズ・・・。

ま、いずれにしましても「 あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探し求める。「真理への意志」--創造への意志の無力としての」呟きなのでしょう。

……ねえ。。。

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生活のすべてを失わぬために、そのごく一部をさくことはいたってあたりまえだ

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 生活のすべてを失わぬために、そのごく一部をさくことはいたってあたりまえだ。お腹がぺこぺこにならぬように、日に六時間か八時間を割くこと。あとは、その残りを有効に使おうとする者には有効に使えるものだ。
    ----カミュ(高畠正明訳)『太陽の讃歌 カミュの手帖--2』新潮文庫、昭和四十九年。

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先月末に大学での通信教育部のスクーリングが終わってから、はじめてのレポートの束が週末に送られてきていたのですが、なかなか目を通すことが出来ず、日曜の日中に内容を確認--朱を入れるのはまだですが--したところひとつの驚きといいますか、喜びがありました。

だいたい1週間~10日分ぐらいをまとめて大学から送られてくるのですが、今回は手元に来たのは21通です。

一般教養の『倫理学』ですから、当然必修科目ではなく、履修してもしなくてもよいわけなのですが、21通というのは、少なくはなく、やや多めの分量といったところでしょうか。

で‥‥、
その喜びといいますか、驚きといいますか、それはレポートの内訳です。
21通中、14通が先の秋期スクーリングの受講者さんの手によるもので、はやいひとは必須となる2通を同時に投函してくださったようでして、スクーリング後にこんなに多く受講者から送付されてきたのは初めてです。

ですから、驚いた次第です。
そして、、喜んだ次第です。

地方でやる場合とか、大学でやる場合によって、履修者数とかもろもろ温度差があるのですが、スクーリング直後に、書きまとめ投函された数としては自分自身の経験のなかでは一番多くとどけられたことになります。

レポートを見るようになってちょうど1年弱ですが、やはり、スクーリングに参加してから送られてくるレポートは、1年経過したとしても、20-30パーセント前後というところが実情です。
*もちろん科目によってはさらにその数値は前後するのでしょうが。

通学制の大学と違い、通信制の場合、やはりレポートがその生命線となってきます。
しかし、それをこつこつとやっていくことは、実に至難の業です。

ですから、スクーリングの際、レポートのポイントを紹介するようにはしているのですが、それでもなかなか難しいのが実情です。

ですから、先のスクーリングでは、レポートのポイントを紹介するだけでなく、

「とりあえず、出してみること!」

--この点を、2日間にわたって力説した次第です。

たしかに、用紙や升目、またパソコンのモニターに向かって文字を埋めていくというのは大変な作業です。

そして圧倒されてしまうことや、なにも思いうかばないとか、これって素っ頓狂なことを書いているのでは--というような疑惑が出て着たりとか、、、種々、レポートを完成させることを頓挫させてしまう要因は山のように存在します。

しかし、

「とりあえず、書いて出してみること!」

これが大切かもしれません。

とにかくいずれにしましても、受講者のレポート提出率があがるための自分自身の努力を怠ってはならない・・・そのように考えさせられたひとときです。

挫けずに、挑戦しつづける姿勢が大切なのだろうと思います。
そのためには、やはり自分自身も挫けずに挑戦しつづけるしかないのだろうと思います。
ただ正直なところ、まさにこれがキツイわけなのですが、キツイということ自体が実は、マア、あたりまえなことなのかもしれません。

カミュ(Albert Camus,1913-1960)がその「あたりまえ」なことをさらっと語っておりますが、このさらっと語った一節には、千金の重みが感じられて他なりません。

自分自身もなかなか論文とか原稿をかくのに時間がない!というのが正直な実感です。
まず市井の仕事、そして学問の仕事によって、「必然的」に「あたりまえ」の「事態」として、時間が「つぶされて」しまい、創造的な仕事をすべき時間がない!と思ってしまうことは正直あります。

しかし、時間そのものが有限--ここでの有限という表現は宇宙論的な意味合いではなく、人間に等しく降りかかるという意味での有限--であるとするならば、その「あたりまえ」の事情をふまえたうえでの、活路を「創っていく」ことが肝要なのでしょう。

……などと思案しながら、帰宅したところ、大切にしていた戦時量産型駆逐艦「松型駆逐艦(Matsu class destroyer」のネームシップ「松」が大破しておりました・・・。

犯人はわかっているのですが、こわされて「あたりまえ」ということを自覚しつつ、ちょいとサミシイ宇治家参去でしたっ。

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「哲学者というものは自分の語ることを実行しない」わけでもない……

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 「哲学者というものは自分の語ることを実行しない」と言う。だが、哲学者たちは自分の語ることを、また彼らの立派な心に期待することを、沢山に実行している。もちろん、言った言葉どおりに、いつも行うことができれば、彼らとしてもこれ以上の幸福があろうか。とにかく、立派な言葉を軽んじ、立派な考えに満ちた精神を軽んずる法はない。有益な研究というものは、たとえその成果を見なくても、それに従事することが賞賛に値するのである。険しい山道を攀じ登りながら、山頂に達しないことがあっても、なんら不思議はない。君がいっぱしの男ならば、大きな業に励んでいる人たちを、たとえ、彼らが倒れるとも、賞賛すべきである。むしろ立派なことは、自分の普通の力をでなく、自分の本性の力を顧みることに努め、高遠なるものを得んと志し、また、勇猛心を備えた人でも実現できないほどの大業を、心に期することである。
    --セネカ(茂手木元蔵訳)「幸福な人生について」、『人生の短さについて 他二篇』岩波文庫、1980年。

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仕事……学問の仕事でもそうですし、市井の仕事でもそうなのですが……頭にくることも多々あり、社会情勢に関しても頭にくることが多々あり、「頭にくる」ことで押し潰されそうにもなることが多く、取り組んでいる課題に対して、「もう、このへんが潮時か」……などともう一人の自分の声が聞こえてきそうなこともなくはないのですが、そうしたひとときに、セネカ(Lucius Annaeus Seneca,c. 4 BC-AD 65)の言葉に接してしまいますと、なんだか、励まされてしまうといいますか、黙々と道を歩む中にこそ、偉大な営み……ここでいう偉大というのは有名になるとかそうしたチンケな意味ではもちろんありませんが……があるのだろう、……そう痛感されて他なりません。

……ということで?

静岡の銘酒「花の舞」(花の舞酒造株式会社)が、リーズナブルでウマイよ!……っていう話を聴いておりましたが、自家用として購入するに至らず、飲み屋でときどき勝負していたのですが、昨日ようやく手に入れた次第です。

所用で?酒屋に立ち寄った際、ウィスキーがきれておりましたので、最初は、シングルモルト(アイラモルト)の、BOWMORE(ボウモア)の12年ものでも買おうと思ったのですが、日本酒コーナーを覗いてみると、「花の舞」の「冷やおろし」(本醸造)と「超辛口」(純米酒)の1升瓶が2000円を切っている価格で列んでおりましたものですから……、

「冷やおろし」も捨てがたいと思いつつ……、

やはり「純米酒」でしょ!

……ということで、ウィスキーを買うことをやめ、「花の舞 超辛口 純米酒」を買ってしまった次第です。

吟醸酒の「花ラベル」とかはやったことがあるのですが、「超辛口」は初めてでしたが……、、、

辛口なのですが、味わいが「濃厚」でして、、、

「なんぢゃこりゃああ」

……などと嬉しい悲鳴を上げてしまった次第です。

さきほどからずんやりとやっておりますが、すでに半分カラッポとなる始末でして……。

コストパフォーマンス的には、嬉しい「難あり」……というところでしょうか。

いずれにしましても、この味わいをひとつの肥やしとしながら、起きてからまた、黙々と道を歩みしかありません。

ただ……これはよく細君からもいわれますが、「哲学者というものは自分の語ることを実行しない」……そうなのですが、そうでもないとは思うわけですが・・・。

静岡の銘酒「花の舞」をなんどもやろうやろうと思って「実行しなかった」わけですが、ようやく「実行できた」という意味では、「自分の語ることを実行した」ことにはなるはずですから・・・。

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人生の短さについて 他二篇 (ワイド版 岩波文庫) Book 人生の短さについて 他二篇 (ワイド版 岩波文庫)

著者:ルキウス・アンナエウス セネカ
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物の原子が夫々如何なる順序に配置されているか、又如何なる原子と結合して運動を与え、且つ受けるのか、が重要な点である

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 さて、我々の見るところで感覚を持っていると思われるものも、すべて無感覚なる原紙から成り立っているのだ、ということも認めなければならない。明らかなる事実がこれを反駁することもないし、明白に認められる事実がこれと矛盾することもない。のみか、むしろ我々の手を引き、信ぜよと強要している--私の云うように--〔感覚を有する〕生物は無感覚なる原紙から生まれるのだ、と。
 例えば、過度の雨の為に湿った地が腐って来ると、悪臭を放つ糞から、生きた虫の発生するのが見られるし、又あらゆるものが同様に変化することが見られるからである。川、木の葉、繁茂する牧草は化して家畜となり、家畜はその体を変化して我々の肉体となり、我々の肉体から往々にして野獣の力が増大し、又翼強き鳥〔猛禽〕の体が成長する。
 であるから、自然はあらゆる食物を、生きた肉体に変え、その肉体からすべての生物の感覚を造り出すのであり、これは自然が乾燥せる薪を焔の中にひろげて、悉く火と化してしまうのと、何ら異なるところがない。では、物の原子が夫々如何なる順序に配置されているか、又如何なる原子と結合して運動を与え、且つ受けるのか、が重要な点であるということが直に君に判るであろう。
    --ルクレーティウス(樋口勝彦訳)『物の本質について』岩波文庫、1961年。

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古代ギリシア、ローマの哲学者たちのなかには、今でいうところの自然科学者のような人物か数多く存在します。

共和制末期の詩人・哲学者として知られるルクレティス(Titus Lucretius Carus,ca. 99 BC-ca. 55 BC)なんかもそのひとりで、原子論的自然観を説き、一切の現象を因果関係においてとらえ、原子と空間から成立する自然法則を説明したことで有名ですが、おもしろいのはそうした自然法則の説明に関して、それを人間の問題として詳論しているところです。

ルクレティスのほかにも原子論をとく自然科学者は多数存在しますが、自然を「法則」で説明するひとびとの態度が、法則に縛られてしまい、人間の自由を否定する方向性へと傾きがちなきらいがあるのですが、ルクレティスの場合は、そうした態度とはむしろ相反する方向性を提示しているところがあり、読んでいると頗る興味深いところが多々参存在します。

では、ルクレティスの態度とはどのようなものでしょうか。すなわち、原子と空間から世界を法則として理解しようとも、そのうえで、人間は現実の生を楽しむべきだというのがルクレティウスの一貫した主張です。

もっとも思想的には世界を快苦によって理解しようととらえるエピキュリアンの知的伝統を受け継ぐ人物ですのでいたしかたありませんが、ローマの問題としてとらえるならば、世界を十分に楽しんでやろうとするローマ市民の精神的態度も過分に繁栄されているのではないかと思われてもしまいます。

さて、いずれにしても、世界を楽しむ、人生を楽しむにはある程度の技術が必要なのでしょう。

暗中模索で対象と関わり楽しむことは不可能です。その場合、そもそも楽しむことがなにかすら理解できていない出発点に立ち止まっているわけですから。

だからこそ、ルクレティウスは楽しむための手順・準備を念入りに確認・点検することを自然理解からスタートして、人生論として説いたのも知れません。

いずれにしても手順・準備というのは学問だけでなく、楽しむことにおいても必要かもしれません。

昨夜はひさしぶりに「ほうとう」を頂戴したのですが、手順・準備を間違えたのでしょうか・・・。

親子3人で頂くには、かなり少な目に作ってしまったようで・・・。

ですけど、他に食べるものもなく・・・。

「何か買ってきてくれ」

……とのことで、自転車で5分のすき家へとミニサイズの丼を買いに行くハメとなってしまいました。

「ほうとう」も「ねぎ玉牛丼」もウマイのはウマイのですが、食事を途中で中断され、買い出しに出発し、そして食事を再開するというのは、微妙な感覚……否むしろ心地よくない感覚です。

手順・準備というのをひとつ誤ってしまうと「楽しい」ハズの「何か」は「微妙な」何かになってしまう……そのようなことを考えさせられたひとときです。

「物の原子が夫々如何なる順序に配置されているか、又如何なる原子と結合して運動を与え、且つ受けるのか、が重要な点である」ことをきちんと理解することは大切かもしれません。

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「ポーク」が「フォーク」で「あったとする」

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 ある人が痛風に悩まされており、我慢できないほど衰弱した状態になっているとする。ところが全く期待していないときに、もう戻っては来ないだろうと思っていた彼の家出息子がふいに現われ、再会できたとする。その瞬間、もはや痛みは消えている。その次の瞬間、彼の家が火事になったとする。すると、もはや衰弱はなくなっている。彼を救助しようと人が思う頃には、彼は逃げ出してすでに危機を脱しているのである。彼の想像力はすばやく激しくかきたてられ、彼の身体のあちこちの部分に反作用を与え、それによって生じる激変が彼を助けるのである。
 これこそが、想像力の最も驚くべき効果であると思う。想像力はさらに、真理に魅力を与えてくれるのであるが、これについては次の一節で一言述べておきたい。
    --コンディヤック(古茂田宏訳)『人間認識起源論』(上)、岩波文庫、1994年。

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どうも痛風とだましだまし生きてゐる宇治家参去です。
二十年来の付き合いですから、お互いにだましだまし生きておりますので、宇治家参去対痛風以外にも、その成果を利用して、だましだまされ生きるなかで、適度な自分の位置をようやく見定めることができるようになったのか……などと思いつつ、そう思った矢先に足下を掬われ、杖を探し求める賢者の風体?です。

しかし?

いずれにしても不思議なのは、啓蒙思想家と表現され人々……冒頭の引用文のエティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック(Etienne Bonnot de Condillac,1715-1780)もそうですが……というものは、啓蒙「主義」と表現されるイデオロギーとは趣が遙かに異なるようで、その差異に驚いてしまいます。

これは啓蒙思想家と啓蒙主義の関係だけに限定される問題ではなく、あらゆる思潮に見受けられる現象かもしれません。

その当初の叫びが一旦、固定化したスローガンと化してしまったとき、人間の肉声は、人間そのものから乖離し、ひとつのイデオロギーへと転換してしまうというのが、この浮世の実情なのでしょう。

ですから、コンディヤックの議論をひもときますと、そこには無知蒙昧を弾嘩する啓蒙「主義」を唱導する、拡声器を抱えてがなり立てる人物とは似ても似つかない好々爺としてのその人が立ち上がってくるものです。

主義主張を厳しく峻別する、エリート然した人物からは「ある人が痛風に悩まされており、我慢できないほど衰弱した状態になっているとする」というような「なっているとする」ような「想定」などできやしませんから。

人間世界の喜怒哀楽、そして流転にまみれた世界だけでなく、一瞬一瞬に転回する生命そのものの当体を体感しているからこそそうした「……なっているとする」というような「想定」ができるのかもしれません。

たしかに、コンディヤックの「……とする」という想定が重なっていきますと、当初はそうだろうと思っていたものがおおきく覆されてしまうのが人間の実情であり、その実情を踏まえない限り、あらゆる主義主張というものは人間から遠く隔たっていってしまうだけにすぎないのかもしれません。

これが人間生活世界の人間に関する議論の大きな出発点なのでしょうが、ひとは議論に過熱するなかで、その当体を見失ってしまう……というもうひとつのおおきな事実に紛動されているのかもしれません。

……などと、市井の職場の休憩中、書物をひもときつつ、うつらうつらまどんでおりますと、その心地よいひとときをかき消す内線電話が鳴り響く……といういつものパターンです。

「宇治家参去さあ~ん、すんません。じぶん、英語わからないので、対応できませんか~」

「……って、おれの英語もけっこうばやいぞい」

……ってスルーしようと思ったのですが、他に対応できる人物も存在せず・・・

売り場へ戻った次第です。

お客様と向かい合いますと、そのお方も英語が母国語ではない模様で、最初に話を伺ったバイトくんに状況説明を依頼すると、

「フォークがどうの、こうのということなのですが・・・」

……と要領を得ません。

お客様に、再度、ご用件を伺いますと、

「この肉はポークか?」

……とのこでした。

フォークとポークの聞き取り違いのようで・・・。

かなり、訛り?が酷く……たしかに「ポーク」が「フォーク」に聞こえるな!……と思いつつ、今回は、精肉売り場の前で、風体がムスリム風でしたので、「フォーク」から「ポーク」へとうまく連想できたので助かりました。

ただ、しかし、この意味では、啓蒙「主義」は、あらゆる「先入見」からの脱却ないしは滅却を主導してやみませんが、人間生活世界においては、ある程度の「先入見」……この場合は、①精肉売り場のスチュエーション、②ムスリム、③英語が母国語でない、という状況認識によって形づくられる「先入見」……は、まったく無意味ではなく、時のよってはうまく機能してしまう、というのも事実ではあります。

その意味では、哲学的解釈学が「先入見」の脱却・滅却を唱導するどころか、むしろをそれを「踏まえた」上での「対応」を重視する姿勢を披瀝してやみませんが、そこに何か一つのヒントがあるのかも知れません。

……ともあれ、こんな時間ですので、飲んで寝るのが肝要というのが人間生活世界の実情です。

たしかに「ある人が痛風に悩まされており、我慢できないほど衰弱した状態になっていると」として「飲んでいる」ときには痛むことがないのが不思議なもので、むしろ心地よいというのがその実でございますから……。

本日のお相手は、舶来ビールの「Satan Red」(デ・ブロック醸造所・ベルギー)。
アルコール度が8度と高めのビールですが、サラッとしつつも甘味のある味わいで、ゆっくりと楽しめそうです。

悪魔を忌み嫌うのではなく、「飲む干す」勇気が21世紀には求められているのでしょう・・・。

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備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる

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 定理三六 かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する。
 証明 人間が自分を楽しませたものと同時に見たすべてのものは、彼にとって偶然による喜びの原因となるであろう(この部の定理一五により)。したがって(この部の定理二八により)彼は、これらすべてを、自分を楽しませたものと同時に所有しようと欲するであろう。すなわち彼が最初にそれを楽しんだと同一のすべての事情のもとにそれを所有しようと欲するであろう。Q・E・D・
 系 それでもし、愛する当人は、これらの事情の一つでも欠けていることに気づけば、悲しむであろう。
 証明 なぜなら、何らかの事情が欠けていることに気づく限り、彼はそのものの存在を排除するある物を表象する。ところが彼は、そのものあるいはその事情を(前定理により)愛ゆえに欲しているのであるから、したがって(この部の定理一九により)それが欠けていることを表象する限り、悲しみを感ずるでろう。Q・E・D・
 備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる。
    --スピノザ(畠中尚志訳)『エチカ(倫理学)』(上)、岩波文庫、1975年。

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最近、一日一個、子供のために買わなければならないのものがあります。
「百獣大戦アニマルカイザー」という子供向けのゲーム……内容としては動物たちが荒唐無稽な戦術を駆使して対決するというわかりやすい?、カードを利用したアーケード・ゲーム……に関連した食玩です。

小さな飴だかガムだかといっしょに、登場する動物のフィギュアと、ゲームで使用できるカードがはいっている200円ぐらいのおもちゃがそれなんですが、いうまでもなく同梱されているフィギュアとカードは基本的には同じ動物ということになります。
ただし、箱を開けてみるまで中に何が入っているかという親切心は全くなく、そのギャンブル的要素と同じ奴をひいちまったという怯懦がさらに購買意欲を加速させるというやつですが、今回のシリーズではいまのところ……

「またこれか!」

……という事案はなかったのですが、それとは違う状況が到来した次第です。

先に書いたとおりですが、開けて中身を確認するまでは何が入っているのかわかりませんが、開けて入っているのは動物のフィギュアとその動物のカードです。たとえば、ライオンならライオンのフィギュアとライオンのカードが入っている--というのが、いわば正常な状態なのですが……

……昨日開封した箱からは、フィギュアは「始祖鳥」で、カードは「オオサイチョウ」……ちなみに「オオサイチョウ」とは「大犀鳥」(Buceros bicornis)のことで、ブッポウソウ目サイチョウ科サイチョウ属に分類される鳥のことです……という組み合わせのようでして、誤梱包といいますか……あそらくそのあたりの理由で始祖鳥のフィギュアにオオサイチョウのカードが同梱されたようだと思うのですが……

……しかしながら、その事実に息子殿は当惑したようです。

宇治家参去の感覚からするならば、「普通じゃないから、それ面白い!」ということになるのですが、息子殿はそうではなかったようです。

17世紀オランダの哲学者・スピノザ(Benedictus De Spinoza,1632-1677)が『エチカ』の定理三六で示して見せた通りの状況とでもいえばいいでしょうか。

「かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する」

これまで何度も、ライオンならばライオンのカード、イッカクならイッカクのカードという状態になれておりましたので、「最初にそれを享楽したと同じ事情」では今回はありませんので、傍から見ているとありえないほど「当惑」している様子です。

そしてその「当惑」は、「系」で示されたがごとく「愛する当人は、これらの事情の一つでも欠けていることに気づけば、悲しむであろう」ということになりますので、直面した状況が「辛い」ということで、「なんとかしてくれ」--という始末です。

状況を説明はしたのですが、こうした場合、説明を納得することが不可能です。
解決策としては、販売製造元のお客様相談の窓口に電話をかけて対応を依頼するしかないのですが、このような問題の場合、宇治家参去の場合通常でしたらスルーしてしまいます。

そんなことで相談するのは「大げさ」すぎるし、みっともない--そう育てられてきたものですからいたし方ありません。

ですけど、そのように悩むわけですので、大人向けの提案ですが、

「販売元に電話をかけておねがいするしかないかな--」

--と、解決策のひとつを提示したところ、

「電話をしよう」

--ということになってしまいました。

自宅の住所・電話番号は本人は覚えているので本人がダイヤルしそうになったのですが、6歳の人間にその状況を説明できるわけではありませんので、細君に依頼して1分程度で案件クローズです。

始祖鳥のカードが後日送付されてくる手はずとなりました。
*電話窓口では丁寧に応対してくださいまして、ありがとうございましたっ!

さて、宇治家参去としては、どう考えても、おおげさにしか思えないわけで、そのようなことで申し出として声をあげることは「アリエナイ」と思ってしまうわけですが、ひょとすると、それはいまの自分が大人だからなのかもしれません。

今となってみれば忘れているだけかもしれませんが、子供の頃は、そうした些細な事件で自分も、さんざん騒いで親に電話をかけさせたのかもしれません。

案件がクローズしてから「おおげさに」と思う反面、同時に、「いや待てよ」などとも思った次第です。

多分、スピノザの指摘する「愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕」という状況は子供にも大人にもかかわらず、誰人にも平等にふりかかってくる事案なのでしょうから……。

仕事へ出かけてから、ちょうど息抜きで屋上にあがったとき、富士山が遠望できたのですが、どこから見ても富士山は富士山なのですが、そのアプローチにより対象のとらえ方はちがうのですが、富士山は富士山だよな~と思いつつ、アニマルカイザーの問題も子供のアプローチは子供のそれであり、大人のそれは大人のそれであるのですが、その乖離を乖離のまま放置してしまうと、富士山はひとつであるにもかかわらず、本来の富士山からかけ離れた、そして、本来存在し得ない「子供の富士山」と「大人の富士山」が出てくるのでは……などと感慨に浸った次第です。

乖離をかけ結ぶ何らかの努力が本来必要なのでしょうが、そこを「大人の論理」「子供の論理」という言い方でスルーしているだけなのかも知れません。

さて……
結局の所、子供はそれに対してストレートに表現するのであり、大人はちょっと格好をつけているのでしょう。

とわいえ、昨今の過剰請求型のクレームと日常的に接する機会の多い宇治家参去としては、そうであったとしてもその表現に関しては「大人」(オトナではなくダイジンと読む)の対応のほうがよろしいとは思うですが、その意味では、「オトナ」の「コドモ」化という新しい状況が出来しているのが現代社会の特徴のひとつなのだろうとも自然に思われてくる始末でして……。

どうでもよい思索が枯野をかけめぐるというのはまさにこのことでしょう。

思索のスパイラルに陥る前に、いっぺえ飲んで寝るのが大事です。

できれば、今日、買ってきた「百獣大戦アニマルカイザー」の食玩がきちんとそろった内容物であることを祈るばかりです・・・。

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エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫) Book エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

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「人間の心に付きまとって離れぬ傲慢と不遜とを抑えて隠すように」してくれるところ

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 会話(conversation)〔とは、互いに自己の見解を表明し合うことによって成り立つ言論本位もしくは談論本位の人間交際の仕方ですが、この会話〕にかんするさまざまの技術〔ないし作法〕のうち、相互に相手を立てて敬意を示し合う態度ほど、あるいは、相互に相手に対し礼儀を尽くそうと努め合う態度ほど、ひとびとが好ましく思う態度はありません。そのような態度はわれわれを導いて自分自身のしたいこと、言いたいことを相手のそれに合わせるようにさせ、人間の心に付きまとって離れぬ傲慢と不遜とを抑えて隠すようにさせます。育ちもよければ受けた教育もよく、しかも、気立てもよいひとは、前もって意図するとか利害を打算するとかではなしに、あらゆるひとびとに対し、そのような礼儀正しい態度を、いわば第二の天性として、とることができます。
    --ヒューム(小松茂夫訳)『市民の国について』(下)、岩波文庫、1982年。
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市民社会の成立期に、その社会の理想的なあり方を現実の政治生活・公共空間との対話のなかで論じたのがヒューム(David Hume,1711-1776)の『市民の国について』というエッセイ集なのですが、歴史の教訓から政体論を論じ、現状との往復関係のなかでその適応可能性を模索したその筆致は鮮やかで、読み直すたびにふむふむと頷いてしまう宇治家参去です。

話題もポリティカルなものだけでなく、商業(商売)の話、貿易(外交)の話、ひとりの市民としてのあり方として論じられるラグジュアリーの問題に幅広く及んでおります。

結局の所、政治を論ずるにせよ、経済を論ずるにせよ、そしてその対極にあるとされる人間の私的生活空間における話題にせよ、その中心に何が存在するのか……その論点が欠如した議論がその両極端の話題の中では多いのですが、ヒュームの議論には、かならず、その中心に存在するはずの「人間」に焦点が当てられており、そこから大きな話題〔物語〕も、小さな話題〔物語〕もきちんと論じられており、議論の見本というものを見せてくれるような気がします。

めまぐるしく転変するように演出された社会情勢のなかで、ともすれば、政治を論ずるにせよ、そして私的趣味を論ずるにせよ、何か議論が先鋭化し、その当事者の問題が看過される風潮が顕著なわけですが、結局の所どのような問題にせよ、それを自分自身の「人間」としての「問題」として議論の原点をきちんと把握しておかなければ、議論そのものが単なる「議論」に堕してしまうのかもしれません。

さて……
人間が他の人間と向かいあう際の言葉のやり取りに関しては、おおむねつぎのふたつの流儀があるかと思われます。すなわち対話(dialogue)と会話(conversation)ということです。

前者が問題に対する目的意識を自覚的に持ち合わせた言葉のやり取りであるすれば、後者は問題に対する目的意識を持ち合わせてはいないものの、そうした対話の場を育成するための基礎的環境形成の出発点ともいうべき雰囲気醸成へむけた言葉のやり取りかもしれません。
※ただ日本の場合、対話文化というものがほとんどないという問題が濃厚に存在するために、議論がまともに成立しないという問題を内包していること、そして後者に関しても、「井戸端会議」という言葉に象徴されるように、単なる言葉のやり取りで終わってしまうという問題がありますが、ここではひとまず置きます。

問題に関してまともに真面目に議論しようとすれば対話の場が必要となってきます。しかし対話のテーブルにはいきなり臨席できないのも事実です。その意味では対話のテーブルに着座するための、仕込の作業……しかもそれは無意識的・生き方〔art of lifeとしての礼儀〕なものであればあるほどよいのでしょうが……というのが「会話」なのかもしれません。

では、この「会話」においては何が肝要になるのでしょうか。
ヒュームによると、どうやら「相互に相手を立てて敬意を示し合う態度」と「相互に相手に対し礼儀を尽くそうと努め合う態度」が大切なようであります。

このことにより「人間の心に付きまとって離れぬ傲慢と不遜」とが抑制され、相互尊重の空間が成立するのかも知れません。

しかし、これは先験的には獲得できる人間「性」でないのも事実のようであり、品性として助長していく取り組みも必要なようであります。ですからヒュームは「“第二”の天性」と表現しているのでしょう。

宇治家参去の場合、その恰好の練習空間というのが、マア、食事や酒を前に、言葉を交わすという例の空間になるわけです。

先日は久し振りに、家族で、イギリス湖水地方風の洋食屋「RAKERU」へ立ち寄りましたが、テーブルで交わされたのは、とりとめもない言葉でありますが、自室とか自宅のプライベート・スフィアでもありませんので、やはり公共の中での私人としての言葉になりますので、言葉を意識的に使うようになりますので、おなじ「とりとめもない」話題であったとしても、ひとつ工夫が必要で、少したのしませて頂いた次第です。

この意識的工夫により、人間は言語の沃野を開拓し、拡大していくいのかもしれません。

……ということで?

ちょうど、「北海道マスカルポーネ&ブラウンソースフェア」というのをやっておりましたので、「KUKUビーフブラウンオムレツ」をセレクトし、味わってきた次第です。

キャベツのオムレツにデミグラスソースとトマトソースで煮込んだブラウンソースをかけものへ北海道産マスカルポーネチーズ添えたメインディッシュと、RAKERUパンに、ジャガバターのプレートです。

家人は、「オムライス」系をよく頼むのですが、宇治家参去の場合、「オムライス」ではなく「オムレツ」を所望してしまいます。

単なる卵料理といえば卵料理なのですが、何度も足を運ぶうちに痛感するのが、家庭料理もそうなのですが、単なる卵料理だからこそ、一番難しいのではないだろうか……、というところです。

玉子焼きにせよ、目玉焼きにせよ、卵を焼くだけの潔いシンプルメニューです。オムレツにしても同様ですが、シンプルすぎるからこそ一番難しく、しかし逆に言えば、だからこそ、うまくできればできるほど、複雑で高級な料理よりも、味わいがひとしおというのかもしれません。

ですから、「オムライス」よりも「オムレツ」を頼むわけですが、卵そのものの味わいが素材によってひきたてられ、生でもカリカリでもない、その絶妙なバランスに悶絶するという始末です。

……ということで?

やはり、対話と会話は目的意識に違いがあるにせよ、人間を中心において、ものを考え、言葉を交わすうえでは必要不可欠なのかもしれません。

とわいえ、その後仕事がありましたので、いっぺえやることはできませんでしたが・・・。

http://www.rakeru.co.jp/

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市民の国について (下) (岩波文庫) Book 市民の国について (下) (岩波文庫)

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影さへに今はと菊のうつろふは波のそこにも霜や置くらむ

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同じ御時大井河に行幸侍りける日
    坂上是則

影さへに今はと菊のうつろふは波のそこにも霜や置くらむ
    --「巻第六 冬歌 623」、佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫、1981年。

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祖母が菊を育てていた所為でしょうか。
菊の匂いをかぐと、秋の終わりをしみじみと実感する宇治家参去です。

子供の頃は、この花をそだてて何が楽しいのか……、まったく理解することができませんでしたが、……三つ子の魂百までもということなのでしょうか、30を超えてからドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)がリアルなものとして理解できるようになったように、菊の美しさやそのよさを理解するようになったのかもしれません。

例年よりいちはやく訪れた秋の終わりを実感しますが、古今集で歌われるように、「霜や置くらむ」ほど、その到来は「かそけき」状況ですが、それでも、夜になると10℃を下回る底冷えで、一月前とはうってかわった季節の移り変わりに驚いてしまうものです。

さて、勤務している大学では、毎年「観菊会」でもいえばいいのでしょうか……、正門前で一週間程度ですが菊の展示が行われます。

紅葉と秋の抜けるような青空にぽっかりと浮かぶ真っ白な雲ような菊の彩りと匂いに圧倒されてしまいます。

派手でもない、可憐でもない、しかし何にも代え難い菊の自己主張には、なにか生きる力を教わってしまうというものです。

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大輪です。

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くどくない鮮やかさです。

古今和歌集 (岩波文庫) Book 古今和歌集 (岩波文庫)

著者:佐伯 梅友
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七十一番職人歌合;新撰狂歌集;古今夷曲集 (新 日本古典文学大系) Book 七十一番職人歌合;新撰狂歌集;古今夷曲集 (新 日本古典文学大系)

著者:岩崎 佳枝,高橋 喜一,網野 善彦,塩村 耕
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王朝物語秀歌選〈下〉 (岩波文庫) Book 王朝物語秀歌選〈下〉 (岩波文庫)

著者:樋口 芳麻呂
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【覚え書】鹿島茂「[引用句辞典 不朽版]民主国家の借金」、『毎日新聞』2009年10月28日(水)付。

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例によって考える時間がないのですが、先週、新聞に目を通しているとおもしろい記事に出くわしましたのでちょいと一本紹介しておきます。

アレクシス・ド・トクヴィル(Charles Alexis Henri Clerel de Tocqueville、1805-1859)の民主主義論の古典からの考察というものですが、トクヴィルの民主主義論(『アメリカのデモクラシー(De la démocratie en Amérique)』)は日本ではどちらかといえば、その「功」の側面ばかりクローズアップされてきたフシといいますか、受容史が顕著です。

しかし丁寧に読むとトクヴィルのレポートは、「功」だけでなく、その正反対の側面、いうなれば、ひとつものの裏表である……ここでいう「負」とはアンチとかそうした意味合いの「負」でないことはいうまでもなく、ワンセットになった異なる側面として受容すべき意味合い……の側面も詳細にレポートされております。

くどいようですが、その側面とは、どちらかといえば、「功」とともに「引き受けなければならない」責任といってもよいのでしょうが、そのあたりにあまり焦点があてられてこなったのも事実だよな……ということで、そのあたりを短い文章ですがひとつ踏み込んだ記事がありましたので【覚え書】として残しておきます。

トクヴィルを本朝で初めて紹介したのは福澤諭吉(1835-1901)なのですが、福澤は比較的その両方の側面を注意深く紹介していたのですが、民主主義なるものが「アタリマエ」のものとしてなってしまうと、その注意深く設計?されたシステムの持つ陥穽を見抜けなくなってしまうのかもしれません。

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鹿島茂「[引用句辞典 不朽版]民主国家の借金」、『毎日新聞』2009年10月28日(水)付。

民主国家の借金
誰もが他人事と思い やがて大破局のXデー……

 「次に最後の<財産をほとんど、あるいはまったくもっていない>階級が立法を独占した場合を想定してみよう。この場合、公租は減少するどころか増大する可能性があると私は思う。(中略)
 法律に賛成する者の大部分は課税しうる財産を何一つもたないから、社会のために費消される金銭はすべて彼らにとって損失なしの利益になるように見える。(中略)
 民主政では主権者が貧しいから、その暮らしをよくしてやらねば主権者の好意は決して得られない。金を使わずにこれを行うことはまず不可能である。(中略)
 このため、一般には公租は文明とともに増大するように思われ、税金は知識の普及につれて高くなっている」
 (アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻(下)松本礼二訳 岩波文庫)

 民主党政権下での各省庁の概算要求が出そろい、かつてない九十五兆円の規模に膨らんだ。民主党がマニフェストにうたっていた項目を全部実現しようとすれば、税収(四十兆円を下回る見込み)が突然に増加するわけはないのだから、赤字国債の発行以外に方法はないだろう。
 おそらく、民主党が権力の座にある四年間に赤字国債は増え続けることはあっても、減ることは決してないだろう。なぜなら、赤字国債がいやなら、消費税の値上げをはじめとする増税路線を歩むほかないが、これは、民主党が、少なくとも天下を握っている間はなんとしても回避したい方向性だからである。
 アレクシス・ド・トクヴィルは、その名前からも判断がつくように、貴族出身の十九世紀フランスの歴史家・政治家。マルクス主義全盛期の時代には顧みられることが少なかったが、冷戦構造崩壊後、俄然、評価が高くなり、いまやミシュレをしのぐ最高の歴史家ではないかという声が定着しつつある。『アメリカのデモクラシー』は、そんなトクヴィルが若き日に合衆国を視察してまわった見聞をまとめたものだが、今日、アメリカ型政治形態のはらむ利点と欠点、とりわけアメリカ型デモクラシーの陥りやすい陥穽を恐るべき慧眼で見抜いたアメリカ論として、必読の文献となっている。
 げんに、民主主義が進捗し、民衆が立法者として権力の座に上ると、有権者の要望に答えようとして国家財政の規模が膨らむから、公租は膨大になるというパラドックスをトクヴィルはもうこの時点で指摘している。
 ところで、これを日本のけーすに引き付けて考える場合、問題はいつ赤字国債発行をやめて増税路線に転じるかということになるが、私は、個人的体験からして、いったん身についてしまった借金(国債)依存体質というものはそう簡単には抜けないと思う。
 理由その一。借金がほとんどないか、貯金が少しある人間はドケチになるが、借金がたくさんある人間は、自分に対しても他人に対しても鷹揚になる。借金というものは、ある限度を超えると、まるで他人事のように思えて、想像力が働かなくなるのである。個人でさえこうなのだから、他人の金を預かっている政治家や役人においておやである。当分のあいだは単年度五十兆円の赤字国債といっても、だれも真剣味をもってこれに対峙するという姿勢は持てないにちがいない。
 理由その二。借金生活の破綻はある日突然やってくるが、それを予感することは困難である。かなりの借金を抱えていても、返してまた借りるというヤリクリを続けているうちは、危機はほとんど感知できない。このままなんとかやっていけるのではという錯覚さえ生まれる。ところが、ある時、借金はいきなりキバをむく。複利法のせいである。
 年利二十%で十万円を借りた場合、一年なら十二万円だが、五年だと二十四万八千八百三十二円。十年では、なんと、六十一万九千百七十四円。ある時点からグンと勾配をきつくして、放物線を描いて跳ね上がっていくのだ。
 しかし、たとえ日本が取るべき道は赤字国債をやめるしかないことが分かっていても、大増税を打ち出したら、政権が取れないことは歴然としているから、どの政党もこれをマニフェストにうたわうわけがない。かくて国家的破産のXデーは二〇一四~二〇一五には確実に到来することになるのである。
(かしま・しげる=仏文学者)
    --鹿島茂「[引用句辞典 不朽版]民主国家の借金」、『毎日新聞』2009年10月28日(水)付。

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アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫) Book アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

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魂のためによいこと

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 毎日、自己のきらいなことを二つずつ行うのは魂のためによいことだ。
    --サマセット・モーム(行方昭夫訳)『月と六ペンス』岩波文庫、2005年。

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このところ、何時に寝ようが、朝起きるようにしておりますので、結構きついのですが、やはり朝起きてしまうと、一日が比較的有意義に仕えることができるのはありがたいものです。

気晴らしに、読み手を読ませてくれるウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham,1874-1965)の散文をぱらぱらとめくっておりますが、まさに「自己のきらいなことを二つづつ行うのは魂のためによい」ことかもしれません。

「自己のきらいなこと」のひとつは「早起き」ですが、もうひとつは……苦手といったほうがよいかもしれませんが……「父親稼業」です。

前者はつまるところ自己自身の問題ですから、自己に対する責任として還元してしまっても問題はないのですが、後者の問題は、自己に対する責任だけでなく、共同体に対する責任でもありますので、丁寧にやっていくべきなのですが、無意識でそれに向かいあうと結構手抜きをしてしまうところが自分自身にはありますので、どうやら、ときおりは「意識的」にやったほうがよいのかもしれません。

……などと観照しております、ぼちぼちの仕事の時間です。

ゆっくり考察することがなかなかできないある日の宇治家参去でした。

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月と六ペンス (岩波文庫) Book 月と六ペンス (岩波文庫)

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