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人間のかたちは美しい

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BEAUTÈ 美しさ
醜さはすべて、失寵、臆病、激高、時期を失した試み、自分自身と矛盾した試みから生まれている。たとえば、殴ろうとしていないまさにその時、殴ることは、筋肉組織を、そしてまた神経組織を壊すことになる。行動が流れるような、反動のないものとなるためには、神経の、さまざまな命令(それはおそらくリズミカルなものである)が一致している必要がある。互いに強め合う必要がある。そのことは、筋肉をおいて、それぞれの部分が全体に及んでいることを意味している。たとえば、斧を振り下ろすためには、まず足に、膝に、腰に力を入れる--一方で、腕の準備をしながら。この準備はまず、神経を探ることであるり、力がリズミカルに堆積する間の調和である。出だしは何の抵抗もない状態で始まる。まるでどんな重みもないかのように--。はたして、人間のかたちが至るところに広がっているこの意志を言い表している限り、人間のかたちは美しい。
    --アラン(神谷幹夫訳)『アラン 定義集』岩波文庫、2003年。

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フランスには丁寧な人間観察とその省察に根ざすモラリストの系譜が滔々と地下水脈のようにながれているわけですが、アラン(Emile Auguste Chartier,1868-1951)もそのひとりに数えてよろしいでしょう。

現代のモンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne,1533-1592)といってもよい、その軽快な筆致と深い人間理解にはいつも驚かされるわけですが、年末に刊行予定の論文の再校に朱を入れたり、添削したレポートを大学へ返却したりと、種々仕事をしておりますと、なかなか、長部の文献をひもとく体力・精神力というものがありません。

ですので……
アランの『定義集』で気になる項目をぱらぱらとひもといていた次第ですが、何度読んでもこれがマア、目から鱗というやつです。

ギリシア・ラテンの伝統を濃厚に受け継ぐ、リズム、ハーモニーを基調とした「美」観になるといってよいでしょうが、そこで提示されるリズムとかハーモニーはアランにおいては何かスタティックな観念ではないようです。

もっと活動的でダイナミックな動きの中に見いだされた動態的な美意識なのですが、そのことに何故かすこぶる納得してしまうというものです。

「行動が流れるような、反動のないものとなるためには、神経の、さまざまな命令(それはおそらくリズミカルなものである)が一致している必要がある」ことは、アランに指摘されるまでもないことで、このことは生活世界のなかでよく実感するところです。

思念と動きが、意識するにせよしないにせよ、絶妙なタイミングでリズムカルで流れるようにうごくとき、その有様は一種の美として現出するのかもしれません。

市井の職場で流暢にレジをうっているときでもそうですし、整然と缶ビールを売り場に展開しているときでもそうですし、また論文を執筆するために、よどみなくキーボードを入力しているときもそうです。

まさに「行動が流れるような、反動のないもの」として現れるとき、それは一種の美なのでしょう。

ですけど……、

「そいつはないゼ、アランの旦那!」

……と、声をかけそうになってしまうのが、その美を表現するためにアランが用いている「たとえ」です。

宇治家参去自身もたいがいの「たとえ」をやってしまいますが……

「たとえば、殴ろうとしていないまさにその時、殴ることは……」

……って、旦那!

ですけど……

「殴ろうとしていないまさにその時」に「殴る」ことは、あまりリズミカルでもハーモニカルでもありませんので、アラン先生の仰るとおりなのですが……、そのへんが、フランスのモラリストの諧謔・ユーモアといったところでしょうか。

ゴシック建築を思わせるドイツの文筆とまったくちがう世界がフランスのウイットというわけですが、「思想にユーモアが随伴する」というのはまさにこのことなのでしょう。

モラリストという表現は、モラル(moral)に由来するわけですが、モラルとはすなわち日本語の道徳です。

道徳と聞くとなにやら、しばりつける掟、ルールとの感が本朝では濃厚ですが、それだけがモラルではないのかもしれません。

フランスの知的・精神的伝統においては、モラルとは他律であるよりも、自律的なものという認識が強く、そこにその主観性(恣意的ではないという意味での)を見出すことが可能なのですが、その意味では、自分自身の問題としてモラルを、余裕をもって受容するならば、そこにユーモアとか諧謔が、その間口をひろげているのだろうと思います。

……ということで?

アランの指摘する通り、「醜さはすべて、失寵、臆病、激高、時期を失した試み、自分自身と矛盾した試みから生まれている」わけですから……

「時期を失した試み」は「美しさ」の対極に位置する「醜さ」になりますので、「時期を失し」ないように心がけなければなりません。

ですので、季節の味覚を彩る、0時解禁と同時に「ボジョレー・ヌヴォー(Beaujolais Nouveau)」で乾杯「しなければなりません」。

フランス・ワイン法に規定されているとおり「それぞれの国の現地時間で11月の第3木曜日」がその解禁日になるのですが、これを呑むといつも思うのが……

「ぼちぼち、大好きな秋が終わるなあ」

……そのことです。

ちなみに、昼と夜の境の秋の光景は何ものにも代え難い絶景です。
地上にいながら、天空とつながるような錯覚を覚えます。

さて……。

ともあれ、安物ですが、フルボトルやっちゃいそうな勢いでやっておりますが、飲めない細君にも何かないとマズイのが「政治」という世界です。

結婚記念日は、所用で何もできなかった……宴は後日予定で決着しておりますが……ので、とりあえず、季節の鉢植え……名前がわかりませんが……をテーブルの上に置いておきます。

……これにより、「時期を失した試み」を避け、「美しさ」を追求するために、解禁日当日深夜にボジョレを鯨飲してしまうわけなのですが、朝起きてから、「酒臭く」ても、「怒られない」はず……なのではないかと思います。

……ということで、リズムとハーモニーの「美しさ」が完成するのではないでしょうか? アラン先生!!

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コメント

久々にこちらにお邪魔します。
時間もいい加減、もうすぐ4時になります...

日本はもう秋が終わりなんですね~
そんな、もの寂しさを感じる夕暮れの写真ですね。
って、見る私が感傷的になっているのかしら?

ところで、駆け引きは別にしても?
結婚記念日にお花をプレゼントとは、
その心遣いが素敵なハズバンドって感じです。

いよいよ、エッジに佇んで静かに熱く決意を
みなぎらせている様子、陰ながら応援しています!

少しは、元気の足しになることを願いつつ...
そのうち、ささやかな体験談を送りますね。

投稿: OZ | 2009年11月20日 (金) 03時00分

OZさんゑ

日本ではいよいよ晩秋です。
ことしは出だしが遅く、暖かい秋が続いたのですが、ここにきてようやく秋らしくなってきた……というか冬の訪れを感じる毎日です。

空が澄んでいてなんともいえませんですよ。

ときどきは遠くに富士が遠望できるというやつです。

で・・・。

やっぱりかたちにはしないとなア~というところで、金額的には安物ですけど、ということで、鉢植えにした次第です。

がけっぷちのような状況ですが、その状況をやや楽しみつつ、秋の風情をたのしみつつ、大輪をさかせていこうと思います。


投稿: 宇治家 参去 | 2009年11月20日 (金) 14時01分

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