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【覚え書】修行 精進 SF とんかつ

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電車のなかで読んでいてたしかにとおもうこと屢々ありましたので、ひとつ覚え書。

何かに向かいあうということには、たしかに修行・精進といった趣が濃厚にあったかと思うのですが、そうした風潮といいますかエートスというのは弱まってきたなあとこのごろ切に感じます。

便利である、わかりやすい、ということは確かに大事なのですがそれがすべてを表象するわけではありません。

とんかつひとつもそうなんです。

とんかつが好きでよく食べ歩きました。

そのなかでここのとんかつはこうだ、あそこはこうだと理解を積み重ねてきたわけですが、手軽なガイドブックを頼りにして、一番旨い奴だけをハナから食べてしまうと、食べてしまう経験自体はいい経験なのですが、それですべてを代弁されているように語られてしまうと「何それ??」って思ってしまう・・・宇治家参去は古いタイプの人間かもしれません。

とんかつとは、とんかつ全体という地平をみわたしたとき、つまり様々なとんかつへの挑戦と応答のなかでこそ出てくるような気がしますし、そのなかで、これがまあ、比較的いいやつかな、というかたちが形成されてるのだろうと思う訳なのですが。。。

いかがでしょうかねえぇ。

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 さて、ではなぜSFというものが、滅びたのでしょうか?
 SFが滅びた最大の原因は映像SFでした。もちろん原因といっても、悪者だという意味ではありません。単に原因だという事実があるだけです。
 映像SFが広がることで、わかりやすいSFが浸透してしまった。それまでSFというのは、ファンの間では「一冊読んでもダメ、百冊読んでもダメ、千冊読んだらSFってなんだかそろそろわかるんじゃないかな」と言われていました。嘘みたいに思われるかもしれませんが、本当に常識だったのです。
 学生時代、私にはある程度「読んでいる」という自負がありました。なので「私はわかってますよ」と先輩に言ったら、言い返されたことがあります。じゃあお前、あれを読んだか? これはどうだ? という風に次々にまだ翻訳されていないSF小説を挙げるのです。「読んでないです」と言うと、「おまえはまだわかってない」。
 それがくやしくて、高校二年か三年ぐらいのときから、辞書を片手にペーパーバックの翻訳を自分で始めた。そんなことをやらなくてはならないくらい、当時のSFというのはハードルが高いものでした。
 もちろん、単に一読者として娯楽の範囲で読むぶんには、誰でも楽しめる作品もあるわけです。そうではなくて、ここで言っているSFというのは、SF界に身を置くということも含めての「SF」です。その世界で「わかっている」と認められるには、特訓めいたものをしなくてはいけない。そんな時代でした。
 ところが『機動戦士ガンダム』や『スター・ウォーズ』でSF界に入ってきた人たちというのは、一瞬で「わかる」のです。少なくとも本人たちは「わかっている」と思えるのです。先輩に「まだまだ」と言われて発奮する、なんていう面倒な手続きはここには必要ありません。
 『スター・ウォーズ』を見て、「惑星タトゥィーンに沈む二重太陽の夕焼け、かっこいい!」と思ったっら、その人にとってはその瞬間にSFがわかったことになるのです。
 実際、その理解でもたしかに正しい面もあります。一瞬でわかるSFもわかるからです。一瞬でつかんだ概念というのは、それまで千冊ぐらい本を読んで「コレだ!」と思ったものとまったく等しい場合もある。
 ただし、そうやって「わかりやすいSF」で入ってきた人は、その後もやっぱり「わかりやすい」ものを求める。「わかりやすいSF」ばかり求められた結果、「わかりにくいSF」が避けられる。
 「アニメ見てるんだから、別に本なんか読まなくてもいいじゃないですか」
 「昔の日本の作品なんか読まなくてもいいじゃないですか。えー、SF好きだからといって小松左京とか読まなくてもいいでしょう」
 という調子になります。必然的にラクチンなものが、どんどん普及していったわけですね。
 つまり、SFファンであるというのは「千冊読まなきゃダメだ」とか「自分で翻訳してでも未訳の本を読め」といったかなり求道的なものだった。何か道を極めて、それで一人前になるためにはものすごく修行しなければいけない、修行とか精進するのが当たり前だった。それが、どんどん楽でわかりやすいものになっていった。
 結果、どんどんSF愛好者の人口は増えていきます。しかし代わりに「SFは素晴らしいけど、常に勉強しないとダメなんだ」という共通文化は失われていく。かつての中学生のファンの「SFの普及のために自分ができることは何だろう?」という悩みは理解されず、受け継ぐものもいなくなりました。

 文化というのは「便利」「快感」だけで、できているわけではありません。
 お正月は初詣に行かないと、なんとなく後ろめたい。
 八月十五日近辺になると「終戦特集」とか「戦争特集」の特番があって、「ああ、もうそういう季節か」と思う。
 袴姿の女の子が街にいれば「卒業式の時期なんだなぁ」と思う。
 年賀状を出すか出さないか、毎年悩む。
 これが現代の日本文化です。つまり文化というのは、あるいは義務感だったり季節感だったり行動様式だったり、そういった「便利」「快感」ではないものの集合体なのです。
 目新しく面白いアニメや映画を求めるファンばかりが増えてしまったSF界は、すでに「SF文化」を喪失してしまった。つまり「SFは死んだ」というわけです。
    --岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』新潮新書、2008年。

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