「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」ほど恐ろしいものはありません
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人間は「真理」をもとめる、すなわち、自己矛盾せず、欺瞞せず、転変しない世界を、真の世界--苦悩をうけることのない世界を。矛盾、欺瞞、転変が--苦悩の原因であるとは! 人間は、あるべき世界のあることを疑わず、この世界へといたる道を探しもとめたがる。(インド的立場から批判すれば、「自我」ですら、仮象であり、非実在であるとされる。)
ここでは人間はどこから実在性の概念をえてくるのか? --なぜ人間はまさしく苦悩を、転変、欺瞞、矛盾から導きだすのか? なぜむしろ人間の幸福を導きださないのか? ・・・--
移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪。 --恒常なるものをよしとするこの価値評価はどこから由来するのか? 明らかにここでは真理への意志はたんに恒常なるものの世界へと入りたいとの要望にすぎない。
感覚は歎き、理性は誤謬を訂正する。したがって理性こそ恒常なるものへの道であると、人は推論した。最も非感覚的な理念が「真の世界」に最も近接しているにちがいないのである。 --感覚からたいていの不運が由来する、--感覚は、欺瞞者、眩惑者、絶命者である。--
幸福は存在するものにおいてのみ保証されることができる。転変と幸福とはたがいに排斥しあう。したがって最高の願望は存在するものとの一体化をめざしている。これが、最高の幸福への道をあらわす定式である。
要約すれば、あるべき世界は現存しており、私たちがそのうちで生きている世界は誤謬である、 --この私達の世界は現存すべきではなかったということになる。
存在するものによせる信仰は一つの帰結にすぎないことが、立証されている。すなわち、本来の最初の動き primum mobile は、生成するものを信じないこと、生成するものに対する不信、すべての生成の軽視なのである・・・
いかなる種類の人間がそのように反省するのか? 非生産的な、苦悩をうけた種類の人間、生に疲れた種類の人間で和える。私たちが反対の種類の人間を想いうかべてみれば、そうした人間は存在するものを信ずる必要はないにちがいない、それどころか彼は、存在するものを、死んだ、退屈な、どうでもよいものとして軽蔑するにちがいない・・・
あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探し求める。「真理への意志」--創造への意志の無力としての。
--ニーチェ(原祐訳)「権力への意志 下」、『ニーチェ全集』13巻、筑摩書房、1993年。
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ちょいとイレギュラーな授業……短大の「哲学」での講義……を組み立ててしまったのですが、先週、今週と2回ほど、教材から全く離れた授業を組み立ててしまいました。
なにをやったかと申しますと、宇治家参去特有の表現を使うならば……、
「演説」
……という奴です。
宇治家参去の授業を受けたことのある御仁であれば、
「ああ、あの表現か」
……ということになりますが、、、
要は……じぶんらしくないのですが……ちょゐと熱く語ったてしまった次第です。
「語り」が入りますと、やはり、一般教養の科目ですから、辟易としてしまう受講者もいるのではと思い、いつも、「語ってスイマセン」というおまけをつけてしまいますが、おまけのおまけをつけてしまって……
……やっちゃった、、、などと忸怩たる宇治家参去です。
ちょうど、ポストコロニアル批評のスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)の発想を紹介するなかでのひとことになりましたが……そのうちスピヴァクでも論文を1本書きたいところですが……、、、ここだけはどうしても語らずにはおけません。
理念と現実の矛盾感覚の自覚の問題です。
ひとはそのどちらか一方に足をツッコンで、重視して生きていくことのほうが多いのですが、それはむしろ、現実からも、そして理念とか理想といったものからも遠ざかってしまうからです。
理念が先にたつとどうなるのでしょうか・・・。
70年代の学生運動を末路を想起するとその消息が理解できるというものです。
職業革命家たちは、理念や理想に対して俊敏になればなるほど、現実から遠ざかっていったものです。
「人間のための革命」を標榜しながら、同志を抹殺していく……そうした陥穽をそこにみてとることが可能でしょう。
そこには生きた人間も、そして人間のための理念も理想も存在しません。
地に足がついていない……といったところでしょうか。
そしてその対極には何があるのでしょうか。
自称「現実主義者」と評して「おまえ、もうちょっと現実を見ろよ」とうそぶくシニシズムです。
現実にあり方には実が不満タラタラなんですが、諦めてもいる状況です。ですけど、やっぱり、気にはかかるのですが、「シカタガネエ」と嘯き慰めつつ、理想を語る連中に冷や水を浴びせるとでもいえばいいのでしょうか。
ここには地に足が埋まっている……といったところでしょうか。
しかし、現実はその両者は両方の両極端であり、そこには生きている人間は存在しておりません。
どこに生きている人間世界が存在しているのか。
死に向かって生きている人間存在そのものが矛盾の当体であるわけですが、その矛盾を理念とか現実という言葉によってカテゴライズさせずに、その矛盾を矛盾として受け止め……スピヴァクの言葉で言えば、「ダブルバインド」ということですが……黙々と歩む世界にのみ、現実の沃野があるのかもしれません。
熱意のある学生というのは、おおむね、理念に傾きがちで、学生を終えた社会人というものは、おおむね、現実主義を吹聴しがちです。
ですけど、そこには生きた人間世界は存在しません。
どちらも現実を単純化した抽象化された立場に過ぎないからです。
現実と理念という「重荷」である十字架をせおいつつ、開拓すべきなのですが……、、、人間はどこかで、そこから概念的跳躍というウルトラQを選択肢がち……といったところでしょうか。
……その辺を説明……もとい、かたり始めると、とまりません。
これがいわゆる宇治家参去ワールドというやつでしょうか。
語る自分に辟易としながらも、小難しいスピヴァクの議論を展開したわけですが、思った以上に学生さんたちが、目をキラキラと輝かせて聞いてくださったことに感動です。
たしかにニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,,1844-1900)の語る通り、「自己矛盾せず、欺瞞せず、転変しない世界を、真の世界--苦悩をうけることのない世界」があったほうがいいし、そうなってほしいとは素朴ながらに思いも致します。
しかしながら、職業革命家たちが夢想するとおり「あるべき世界は現存しており、私たちがそのうちで生きている世界は誤謬である」と断ずることも不可能です。
そして同時に、シニシズムの現実主義者が「あるべき世界」を変革不可能と断ずることにもう同意できません。
であるならば、どうすればよいのでしょうか。
極端な道を排しながら、もくもくと我が道を歩みしかありません。しかしそれは孤立した我ではなく、全体のなかでの自己、自己としての全体のなかでの歩みでなければならないのでしょう。
関係性がたたれてしまうと、簡単に革命家になったり、自称・現実主義者になったりしてしまうものですから・・・。
真の世界とはどこにあるのでしょうか。
いきている、このぐだぐだの素晴らしき世界にこそあるのでしょう。
だからこそ、「移りゆき、転じゆき、変わりゆくすべてのものに対する軽蔑、憎悪」から卒業したいものです。
そして、「あるべき世界」は「あるべき」批判概念ではなく、「あるべき」ように「創造しようとの意欲」をもって、ダブルバインドを自覚しつつ格闘するしかないのでしょう。
その辺を、柄にもなく語っちまいました・・・。
ですけど、そのへんの自覚、ふんぎり、といった感覚がないと、たやすく人間は人間生活世界に対して「閉ざして」生きてしまい、手段論に籠絡されてしまうというものです。
……ということで???
錦秋のキャンパスで、めずらしい学食メニューをランチで頂戴した次第です。
「カレー、ハッシュドビーフのWプレート」(うろおぼえ)
……という逸品です。
カレーと、ハヤシの、二品をいっぺんに楽しむ?ことができるという便利なアイテムであり、まさに、観念の籠絡を粉砕する一品です。
しかし……
……ながら……、
カレーは、カレー、
ハヤシは、ハヤシ、
、、、で食べた方がグッドだったかもしれません。
その意味では、理念とか概念を超克しようと尽力した宇治家参去自身の脳内理念・概念脱却論もひとつの陥穽に陥っていたのかも知れませんが……
……たぶん、、、そんなことはなかったハズ・・・。
ま、いずれにしましても「 あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探し求める。「真理への意志」--創造への意志の無力としての」呟きなのでしょう。
……ねえ。。。
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ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫) 著者:フリードリッヒ ニーチェ |
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ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) 著者:フリードリッヒ ニーチェ |
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サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー) 著者:G.C. スピヴァク |
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スピヴァクみずからを語る―家・サバルタン・知識人 著者:ガヤトリ スピヴァク |
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