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「この100円の違いって何よ?」

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 資本主義時代は、魔法解きに至る途上の一段階である。今日の経済システムに結びついた思考は、それ自体で完結している自然を、これまでの時代にはありえぬまでに支配することを可能にした。だが決定的なのは、この段階の思考に、自然を収奪する能力があるということではない--人間が自然の収奪者であるというだけならば、自然が自然に対して勝利したということになろう--決定的なのは、この思考が、人間をますます自然的条件から独立させ、そのことによって、理性が干渉する場をつくりだしたことだ。世俗にからみとられた教会、君主制、封建制という生の暴力を清算したここ百五十年のブルジョワ革命については、部分的にはメルヒェン的理性にも由来するこのような思考の合理性に--これだけではないかも知れないが--感謝すべきであろう。これらの神話的束縛を不断に解体することは、理性の喜びである。自然的統一体の瓦解の場でのみ、メルヒェンは実現されるからである。
 だが資本主義的経済システムのラチオは、理性そのものではなく、曇った理性の一つである。一定の地点以降、それは、自分もたずさわっている真理を見捨てる。ラチオは、人間を算入していない。人間に対する配慮によって生産過程が規制されることはなく、人間に基づいて経済的、社会的組織が建設されることもなく、そもそもどこであろうと、人間の根底がシステムの根底であることがない。人間の根底といった。というのも、重要なのは、資本主義的思考は人間を歴史の中で成長し、形成されてきたものとして大切にせよとか、おなじく資本主義的思考は人間の人格を論難してはならぬとか、人間本性の提起する要求を満たすべきだ、とかではないからだ。このような考え方の代弁者は、資本主義に対して、資本主義的合理主義が人間に暴力を加えるといって非難し、資本主義社会よりも、いわゆる人間性をもっと保護する共同体の新たな到来を渇望する。このような退行現象の緩慢な影響についてはさておくとしよう。これは資本主義の欠陥の確信を逸している。資本主義は、合理化しすぎるのではなく、合理化することが少なすぎるのだ。資本主義に支えられた思考は、人間の根底から語りかける理性を目指しての完成に抵抗するのである。
 資本主義的思考の場のメルクマールは、思考の抽象性である。今日、思考の抽象性の優勢によって、全表現を包む一つの精神空間が設定される。抽象的思考様式に向けられる非難とは、それが生の本来的内容を把握することができず、したがって現象の具体的観察に道をゆずるべきであるというものであるが、このような非難は確かに抽象性の限界を指し示してはいるものの、有機体と形態とを究極とみなす神話的な誤れる具体性をよしとしてのことであるとすれば、この非難の提起はあまりにも性急すぎるといえよう。そのような神話的な誤れる具体性へ退行することは、いったん獲得された抽象能力を犠牲にするものであって、抽象性を克服したことにはならない。抽象性は、行き詰まった合理性のあらわれである。意味内容について抽象的一般性の水準で下された規定は--たとえば経済的、社会的、政治的、倫理的分野において--理性に属するものを理性に与えはしない。このような規定によっては経験的知識が考慮されないままになり、無内容な抽象からどのような利用法でもひきだすことができることになる。このような経験的知識を閉ざす抽象の背後にはじめて、その時その時に問題とされる状況の特殊性に対応する個々の理性的認識がある。理性的認識に要請される内容性にもかかわらず、この理性的認識は転義的意味においてのみ具体的である。決して、自然的生にとらわれたさまざまな見解に具体的に表現を与える俗流的な意味で具体的なのではない。したがって、今日の思想の抽象性は両義的である。自然がナイーヴに主張される神話的理論からみれば、たとえば自然科学が行う抽象の手続きは、自然的事物のかがやきをそこなうたぐいの合理性の獲得ということになる。理性のパースペクティフからすれば、同じ抽象の手続きが、自然に制約されていると映る。自然的なるものの勝手気ままな活動の場を与える空虚な形式主義に、この抽象の手続きはとらわれていると映る。現状を支配する抽象性は、脱神話の過程が依然として終わっていないことを示している。理性に心を開くべきか、あるいは理性に対して心を閉じたままやっていくかという問いの前に、現在の思考は立たされている。土台としての経済システムが本質的に変わらない限り、自らが設けた限界を、現在の思考は超えることができない。土台の存続は、思考の存続をともなう。つまり、資本主義的システムの不断の発展は、抽象的思考の成長を条件づける(あるいは誤れる具体性の中で溺れることを思考に強要する)。だが抽象性が強固になればなるほど、人間は理性によって統御さあれぬままに立ち遅れる。中途半端に抽象へカーヴした人間の思考が、真の認識内容の発現に対して抵抗するなら、人間は、ふたたび自然的諸力の暴力の前に屈するであろう。行き詰まった思考は、その暴力を制圧する代わりに、理性の上を上滑りすることによって、暴力の放棄をよびおこす。理性のみが暴力と対決し、暴力を屈服させることができるのに、暗黒の自然がますます脅威の度を強めていきり立ち、理性に由来する人間の到来を妨げるのは、資本主義的経済システムのとどめようもない権力拡大の一つの帰結にすぎない。
    --ジークフリート・クラカウアー(舟戸満之・野村美紀子訳)「大衆の装飾」、『大衆の装飾』法政大学出版局、1996年。

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資本主義とは確かに、世俗のこの上ない魔術と神話の世界であるということであり、その魔術と神話の世界では、すべての対象が<抽象化>されて扱われるという時代なのでしょう。

そして、そのシステムを支えるラチオは「理性そのものではなく、曇った理性の一つ」であるということを念頭に置く必要があるようです。

たしかに、この世界には、「人間の根底がシステムの根底であることがない」のは確かででありますが、しかしながら、「人間の人格を論難してはならぬとか、人間本性の提起する要求を満たすべきだ」と声高に叫ぶのは、別の神話と入れ替えるだけなのかも知れません。

そこから始まるのは、まさにもうひとつの「曇った理性」を根底におくラチオの体系にすぎませんから……。

ただいずれにしても、問題なのは<抽象化>という状況です。。
抽象化は「全表現を包む一つの精神空間」を設定することが可能です。

このことによって世界は飛躍的に拡大することは否定できません。

しかし、その抽象的思考様式に対して、具体的観察を欠如しているからとって非難するのもさきのラチオの入れ替えと同じかも知れません。

……というわけで、久し振りに身動きの取れない状況をとってしまった宇治家参去です。

昨日から、本朝では、ボジョレ・ヌーヴォーが解禁されたわけですけども、「ボジョレ・ヌーヴォー」と一言でいっても一言ではつきません。

最安値は各社で夏目漱石先生1枚を下回る値をつけており、そのうえはそのうえをいくというわけですが、売れごろ商品というやつは、実際には「50円」、「100円」という差異しかありません。

市井の職場でもそのあたりの「お手頃商品」が売り込み最前線といいますか、よく売れる価格帯のアイテムになるわけですが……

「この100円の違いって何よ?」

……って訊かれますと、、、

「専門は神学ですので、ちょいとねえ、判断できません」

……などとのたまうことは不可能ですので、それなりに勉強?して売り場には臨むわけですが、

……実際のところ、

丁寧に説明せざるを得ませんが、実にこれが難事です。

「味わい」の違いに関しては「雑味」程度の反映の違いしか実際にはありません。

そして、常酒としてワイン文化と異なる日本人の味覚であれば、ほとんど違いがありません。

もちろん、価格におけるローとハイには大きな違いがありますが、この程度で差を味わえるのは素人には難事です。

ですけど、販売側には、その違いを説明する、「説明責任」(acountability)がありますので、、、

今日は疲れた一日です。

流通・販売という手法としては、一色たんにしてすませても問題ない=抽象化というわけですが、実際にその面前交渉になると、抽象的還元主義とは異なる技倆が要求されるようでして・・・、またまたなにやら、「人間とは何か」という命題に対する「間口」が大きく開かれたようで御座います。

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