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おまえら本読めよ!

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 現代の知性人とは如何なるものであるかという問いに対して、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」というベルグソンの言葉をもって答えることができる(第九回国際哲学会議におけるデカルト記念の会議に寄せた書簡)。ところで思索人の如く行動し、行動人の如く思索するということは構想力の媒介によって可能である。我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来るであろう。「そこへ哲学が突然やって来て、万人に彼らの全運動の全意識を与え、また分析を容易ならしめる綜合を暗示するとき、新しい時代が人類の歴史に新たに開かれ得るであろう。」知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験に綜合しつつしかも経験的現実を超えて新しい哲学を作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている。すでに個人から民族へ移るにも、民族から人類へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性である。
    --三木清「新しき知性」、『哲学ノート』新潮文庫、昭和三十二年。

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古典名著とよばれる人類の知的遺産は読まないよりは読んだ方がよいのはいうまでもありませんが、誰に言われなくても挑戦するひとというのはいつの時代にも存在します。

しかしそれと同時に、……世俗の言葉を使うならば……ハッパをかけなければ向き合うことのできないひとというのも存在しますし、どちらかといえば、その割合のほうがおそらく高いでしょう。

ですので……

短大の哲学の授業では、一回は、「古典名著と呼ばれる人類の知的遺産への挑戦」を促すようにしております。

本来であれば、もっと早い段階で、挑戦すべきなのしょうが、遅くても挑戦しないよりは挑戦したことに越したことはありません。ですから、なるべく挑戦しようと声をかけるようにはしているのですが、それでも、物理的な拘束時間の自由度を勘案するならば、義務教育とは異なる、大学時代にこそ、その挑戦がスパークする時間は他においてないのかもしれません。

哲学者・三木清(1897-1945)が指摘するとおり、骨董棚で黴くさく陳列された知性ではなく、現代の新鮮な知性人というのは「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」知性なのでしょう。

しかしその構想力をよりよく発揮するためには、このいきている現代世界のただなかで、古典名著との対話を独り継続していくことは必要不可欠なのだろうと思います。

何かを考える、為すにはコンテンツが必要です。人間は神ではありませんので、無から創造することは不可能です。

古典名著との対話、生きている社会との対話(格闘)、そしてその両者の弁証法的関係のなかからこそ、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」ことの媒介となる「構想力」がよりよき発揮するのだろうと思います。

ですから、毎度毎度口が酸っぱくなるまで「おまえら、本読めよ」とやくざモードで語ってしまいますが、どうしても語らざるを得ません。

三木清は、ロゴスとパトス、また存在の合理性と非合理性という相反するカテゴリーのただ中にたち続けるなかで、晩年『構想力の論理』(未完)を模索します。

ロゴスによる把握は対象をロゴスとして確定するわけですので、必然的に、常にロゴスから漏れ出ていてこれに逆らい続けるもの、非ロゴスなるものが不可避的に現出してしまいます。その問題を、三木の同時代の他の論者たちは、どちらかといえば一元的価値観への収斂というかたちで筋道をつけたわけですが、三木清は、価値序列の優先順位的価値観による綜合をさけながら、第三の選択を提示しようと心がけたように思われます。存在そのものをできあがったひな形とか鋳型に精製していくのではなく、相反する存在を存在そのものとして捉え、そこから構築していくとでも言えばいいのでしょうか……。

三木の論理ではありませんが、日々、古典名著と向かいあっておりますと、そこからなにか豊かなものを学ぶということばかりではありません。

どちらかといえば、違和感を覚えたり、賛同できなかったり、頭にきたりする経験も否定できません。

しかし、そうした違和感、否定の感情と向かいあいながら、自分自身と全く異なる発想、人柄、存在と向かいあうことにより、ひとはこれまでになかったなにがしかを構想できるのかもしれません。

若い人にはそうした暇を無駄だとは思って欲しくない……そう思われて他なりません。

……ということで

「おまえら、本読めよ」

若い知性が青葉のごとくその新緑をのばしていくためには、必要不可欠な難事です。ですが難事であるがゆえに挑戦してほしいものです。

「我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来る」のでしょう。たしかに実験ですから、そこには模範解答もハウトゥー的方法論もないのですが、ひとびとの足跡を古典名著から尋ねながら、たえず現在の生きている自分自身の問題として考察する。そして批判的にたがやしていくなかで、やがて考えても見なかったような時代がおそらく到来するのだろうと思います。

……ということで、ちょいと飲みにいきっています!

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