「善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する」らしい・・・
だが、究極的な性質の愛は、善きひとびと、つまり卓越性において類似したひとびとのあいだにおける愛である。けだし、かかるひとたちのいずれもひとしく願うところは「善きひとたるかぎりにおける相手かたにとっての善」なのであるが、相手のひとびとは彼ら自身に即しての善きひとびとなのである。しかるに、相手かたにとっての善を相手かたのために願うひとびとこそが、最も充分な意味における親愛なるひとびと(フィロイ)たるのでなくてはならない。まことに、かかるひとびとはお互いに相手かたのひとびととそれ自身のゆえに、そうした関係を保っているのであって、付帯的なものに即して愛しているのではないのである。それゆえ、これら善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する。
--アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学』(下)、岩波文庫、1973年。
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日本語で流通している「愛」よりも広汎な意味をもつ、フィリア(φιλια)としての「愛」……日本語では「友愛」……の概念をちょいと整理しようと思いつつ、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の『ニコマコス倫理学』の愁眉を飾る友愛論を繙いておりますが、この友愛の概念は、密接に「善」と関わる概念です。
それゆえに、永続性が問題となる寸法なのですが、鳩山由紀夫(1947-)さんのおっしゃる「友愛○○」の友愛の議論にまったく「善」の問題を見て取ることができず、どちらかといえば、恣意的な「正義」論が見え隠れするようで、東西において「友愛」理解というものがまったくことなるものなのか……などと頭を悩ます昨今です。
テクネー(技術)としての側面のみが喧伝され、その形而上学なるものが提示されないものであるとすれば、概念そのものを劣化させてしまうのでは……などとフト思うわけですが、議論としてはおそらくアリストテレスに由来するフィリアというよりも、フランス革命における「友愛」(Fraternite)を意識した言葉ということなのでしょうが……。
周知の通り、フランス革命においては、当初「自由」と「平等」が革命のスローガンとなるわけですけども、自由と平等とは本来相反する概念です。そこで最後に付け加えられたのが「友愛」という概念ですが、過度の自由と、強制としての「平等」を調停させる「他者への共感」として「友愛」が登場した経緯があります。
おそらく、自由を強調するアメリカニズムと、平等を強調した共産主義を乗り越える概念として、その言葉を使用されているのでしょうが、根拠と経緯を整理しないまま、戦略的標語として使用されるままであるとすれば、概念と、その概念を生み出した人間たちに対する敬意が喪失されてしまうのでは……とふと思うわけですが、いずれにしても、旗印の戦略論だけでなく、その内実を内実たらしめる思想的格闘というものが欲しいものです。
思想的格闘があればこそ、過度のの自由と平等の強調を回避できる、生きている人間に即した中庸なあり方が可能になるはずだとは思うわけですからひとしおです。
……などと思案しておりますと、そのようなことをくどくどと考えるゆえに「銭にならない学問」などと揶揄されてしまうわけですけども……、
我が家庭におけるフィリアにおける「永続性」を確認するための何かをしませんか……ということで、、自分が財布をだしたわけではありませんが、公私ともにお世話になっている老夫婦さんのお誘いで、「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」へ行ってきた次第です。
ありがとうございましたっ!
さて訪問先は、東京・関東を中心に展開しているステーキ、ハンバーグのファミリーレストランというわけですが、宅の近くに新しい店舗ができましたので、サクッと行ってきた次第です。
単品以外の、ファミレス系のセットメニューを注文すると、サラダバーがついており、ライス(カレーもついてきます)、スープ、そしてサラダ(フルーツ含む)は食べ放題ということで、育ち盛りのお子様がいらっしゃるご家庭にはもってこいのお得なお店です。
細君は何度か利用しているようでしたが、宇治家参去は今回はじめての訪問でしたので、お店の名前を冠した「kenステーキ」(180kg)を頂戴しまいた。
ガーリックソースで味わいたいところですが、翌日が仕事ですので、オニオンソースで頂戴しましたが、価格の割には、焼き具合も申し分なく、味わいがしっかりとしてい、おすすめではないかと思います。
やはりやすいので、肉はそれなりなのですが、サラダ、ライス等食べ放題という意味ではリーズナブルといってよいでしょう。
これですませるとフツーのファミリーになってしまいます?ので、ビールは言うまでもなく注文するわけですが、扱っているのはSAPPOROで、SAPPOROビール応援団としては垂涎な事態です。
久し振りに「大ジョッキ」でやりましたが、改めてみますと、「大ジョッキ」とはかなりサイズが「でかい」ですね。
ライスはほとんどやらずに、やりますので、おつまみメニューで「骨付き粗挽きフランク」を頼みましたが、実にこちらが大正解!
様子がまんま「マンガ肉」!
アニメ『はじめ人間ギャートルズ』なんかにでてきます、骨付き肉……この場合フランク……ですが、ぱりぱりになるまで火の通ったフランクにナイフを入れると、なかはジューシーで、肉汁まですすりたくなるような一品でした。
ビールにはちょうどよい随伴起動歩兵といったところでしょうか。
息子殿は、あまり肉を所望しませんので、お子様ランチでお茶を濁すというところですが、育ち盛りのお子様をかかえるご家庭にはお薦めです。
たしかに、まわりはファミリーばかりだったことは言うまでもありません。
さて、いずれにしましても、フィリアにおける個々の人間における「卓越性」の問題、そして中国古典における「友愛」論も参照したいところですが、時間がないのでまた後日……ということで、失礼。
ただ、いずれにしましても「善きひとびとの愛は、彼らが善きひとであるかぎり永続する」わけですので、思想的格闘だけでなく、実践の問題としてもその両者が相即的関係にあるとき、いちばんうまく有効に機能するのかもしれません。
ただ、人間はいずれにしましても、どちらかに傾きやすいわけではありますが・・・。
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