« 「ア・ヴォトル・サンテ!!」 | トップページ | おまえら本読めよ! »

時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである

01_img_1654
-----

 私は現在私が何を考え、何を思うのか知るのみならず、昨日何を考え、何を思うたかをも直ぐに想起することができる。昨日の我と今日の我とは直接に結合すると考えられるのである。これに反し、私は他人が何を考え、何を思うかを知ることはできない。他人と私とは言語とか文字とかいうごときいわゆる表現を通じて相理解するのである。私と汝とは直に直結することはできない、唯外界を通じて相結合すると考えられるのである。我々は身体によって物の世界に属し、音とか形とかいう物体現象を手段として相理解すると考えられるのである。しかし物体界とは如何なるものであるか。物体界というものも、我々の経験的内容と考えるものを時間、空間、因果の如き形式によって統一したものと考えることができる。内界と外界というものが本来相対立したものではなく、一つ世界の両面という如きものに過ぎない。両界は同じ材料から構成せられているのである。すべて実在的なるものは時に於てあると考えられ、時は実在の根本的形式と考えられる。内界と考えられるものも、外界と考えられるものも、それが実在的と考えられるかぎり、時の形式に当嵌ったものと考えられねばならぬ。然るに、時は現在が存在自身を限定するということから考えられるのである。而して現在が現在自身を限定するということを意味していなければならない。時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである。時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生まれるといってよい。非連続の連続として時というものが考えられるのである。時というものが斯くして考えられるとするならば、時は斯くの瞬間においても二つの意味において永遠の今に接すると考える事ができる。永遠の今と考えられるものは、一面においては絶対に時を否定する死の面と考えられるとともに、一面においては絶対に時を肯定する生の面と考えられねばならない。時の限定の背後に永遠の死の面というものを置いて考える時、永遠なる物体の世界というものが考えられ、その背後に永遠の生の面というものを置いて考える時、永遠なる精神の世界というものが考えられるのである。内界と外界とは時の弁証法的限定の両方向に考えられる、永遠の今の両面に過ぎない。すべて具体的に有るものは弁証法的に自己自身を限定する、即ち時間的に自己自身を限定するのである。時に内外の別があるのではなく、時は固一つでなければならぬ。真の時は歴史時というべきものであり、具体的なる実在界は歴史的と考えることもできるであろう。
    --西田幾多郎「私と汝」、上田閑照編『西田幾多郎哲学論集I 場所・私と汝 他六篇』岩波文庫、1987年。

-----



西田幾多郎(1870-1945)研究がなかなかすすまないのですが、進めざるをえませんので、後期の論文集と格闘しております。

基本的にはカント(Immanuel Kant,1724-1804))の『純粋理性批判』で展開された「時間、空間、因果の如き形式によって統一」されているうえのでの知覚・認識の原理から叙述がスタートするのですが、一頁もすぎると、矛盾的自己同一を説く西田独自の哲学論へと転回されているようです。

好き嫌いの問題はありますが、哲学者としては、やはり日本では稀有な存在なのだと思わざるをえません。

「時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである。時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生まれるといってよい。非連続の連続として時というものが考えられるのである」。

連続と非連続、限定と非限定なるものの接点を模索する西田の哲学は極めて難解ですが、読み応えもあり、秋の読書を堪能している宇治家参去です。

・・・って思っておりますと、世の中は、三連休のようでした。

しらずに土日は仕事をしており、勤労感謝の日の本日は、大学での講義ということで、ふつうのひとびととの意識の連続というよりも、時に対する感覚としては、その非連続を感じざるを得ません。

が・・・、
本日のキャンパスは快晴で、休みの所為でしょうか、、、散策される来客者もそれなりに多く、なんとなくにぎやかです。

その意味では、人間はほかの人間と「連続」しているよりも、「非連続」の「連続」ぐらいがちょうどいいのかもしれません。

一定の枠組みによって連続しているよりも、ゆるやかにつながるぐらいのほうが、いいとでもいえばいいのでしょうか。

そのあたりを思念しつつ、、「時」だけにかぎらず、どちらかに一方に重心をおくのではなく、「肯定」と「否定」の弁証法的関係のただなかで、やっていくほうがよいのかもしれません。

・・・ということで、早めに学食にてランチをいただきましたが、本日は照り焼丼セット。

きつねうどんに小さな照り焼丼をつけたセットメニューです。

天気があまりにもいいので、テラスで頂戴しましたが、晴れているとはいえぼちぼち寒い時期ですので、これぐらいのホットメニューでちょうどいいという感じです。

ただ・・・

失敗したな!というのは、隣の美術館が通常ですと月曜休館日なのですが、今週は祝日とのバッティングで月曜開館・火曜休館でした。

もうすこし早めに出勤して美術館へいくべきでした。

がっくし!!

02_img_1656_2

03_img_1646

|

« 「ア・ヴォトル・サンテ!!」 | トップページ | おまえら本読めよ! »

哲学・倫理学(日本)」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生まれるのである、故に時は各の瞬間において永遠の今に接するのである:

« 「ア・ヴォトル・サンテ!!」 | トップページ | おまえら本読めよ! »