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「ポーク」が「フォーク」で「あったとする」

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 ある人が痛風に悩まされており、我慢できないほど衰弱した状態になっているとする。ところが全く期待していないときに、もう戻っては来ないだろうと思っていた彼の家出息子がふいに現われ、再会できたとする。その瞬間、もはや痛みは消えている。その次の瞬間、彼の家が火事になったとする。すると、もはや衰弱はなくなっている。彼を救助しようと人が思う頃には、彼は逃げ出してすでに危機を脱しているのである。彼の想像力はすばやく激しくかきたてられ、彼の身体のあちこちの部分に反作用を与え、それによって生じる激変が彼を助けるのである。
 これこそが、想像力の最も驚くべき効果であると思う。想像力はさらに、真理に魅力を与えてくれるのであるが、これについては次の一節で一言述べておきたい。
    --コンディヤック(古茂田宏訳)『人間認識起源論』(上)、岩波文庫、1994年。

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どうも痛風とだましだまし生きてゐる宇治家参去です。
二十年来の付き合いですから、お互いにだましだまし生きておりますので、宇治家参去対痛風以外にも、その成果を利用して、だましだまされ生きるなかで、適度な自分の位置をようやく見定めることができるようになったのか……などと思いつつ、そう思った矢先に足下を掬われ、杖を探し求める賢者の風体?です。

しかし?

いずれにしても不思議なのは、啓蒙思想家と表現され人々……冒頭の引用文のエティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック(Etienne Bonnot de Condillac,1715-1780)もそうですが……というものは、啓蒙「主義」と表現されるイデオロギーとは趣が遙かに異なるようで、その差異に驚いてしまいます。

これは啓蒙思想家と啓蒙主義の関係だけに限定される問題ではなく、あらゆる思潮に見受けられる現象かもしれません。

その当初の叫びが一旦、固定化したスローガンと化してしまったとき、人間の肉声は、人間そのものから乖離し、ひとつのイデオロギーへと転換してしまうというのが、この浮世の実情なのでしょう。

ですから、コンディヤックの議論をひもときますと、そこには無知蒙昧を弾嘩する啓蒙「主義」を唱導する、拡声器を抱えてがなり立てる人物とは似ても似つかない好々爺としてのその人が立ち上がってくるものです。

主義主張を厳しく峻別する、エリート然した人物からは「ある人が痛風に悩まされており、我慢できないほど衰弱した状態になっているとする」というような「なっているとする」ような「想定」などできやしませんから。

人間世界の喜怒哀楽、そして流転にまみれた世界だけでなく、一瞬一瞬に転回する生命そのものの当体を体感しているからこそそうした「……なっているとする」というような「想定」ができるのかもしれません。

たしかに、コンディヤックの「……とする」という想定が重なっていきますと、当初はそうだろうと思っていたものがおおきく覆されてしまうのが人間の実情であり、その実情を踏まえない限り、あらゆる主義主張というものは人間から遠く隔たっていってしまうだけにすぎないのかもしれません。

これが人間生活世界の人間に関する議論の大きな出発点なのでしょうが、ひとは議論に過熱するなかで、その当体を見失ってしまう……というもうひとつのおおきな事実に紛動されているのかもしれません。

……などと、市井の職場の休憩中、書物をひもときつつ、うつらうつらまどんでおりますと、その心地よいひとときをかき消す内線電話が鳴り響く……といういつものパターンです。

「宇治家参去さあ~ん、すんません。じぶん、英語わからないので、対応できませんか~」

「……って、おれの英語もけっこうばやいぞい」

……ってスルーしようと思ったのですが、他に対応できる人物も存在せず・・・

売り場へ戻った次第です。

お客様と向かい合いますと、そのお方も英語が母国語ではない模様で、最初に話を伺ったバイトくんに状況説明を依頼すると、

「フォークがどうの、こうのということなのですが・・・」

……と要領を得ません。

お客様に、再度、ご用件を伺いますと、

「この肉はポークか?」

……とのこでした。

フォークとポークの聞き取り違いのようで・・・。

かなり、訛り?が酷く……たしかに「ポーク」が「フォーク」に聞こえるな!……と思いつつ、今回は、精肉売り場の前で、風体がムスリム風でしたので、「フォーク」から「ポーク」へとうまく連想できたので助かりました。

ただ、しかし、この意味では、啓蒙「主義」は、あらゆる「先入見」からの脱却ないしは滅却を主導してやみませんが、人間生活世界においては、ある程度の「先入見」……この場合は、①精肉売り場のスチュエーション、②ムスリム、③英語が母国語でない、という状況認識によって形づくられる「先入見」……は、まったく無意味ではなく、時のよってはうまく機能してしまう、というのも事実ではあります。

その意味では、哲学的解釈学が「先入見」の脱却・滅却を唱導するどころか、むしろをそれを「踏まえた」上での「対応」を重視する姿勢を披瀝してやみませんが、そこに何か一つのヒントがあるのかも知れません。

……ともあれ、こんな時間ですので、飲んで寝るのが肝要というのが人間生活世界の実情です。

たしかに「ある人が痛風に悩まされており、我慢できないほど衰弱した状態になっていると」として「飲んでいる」ときには痛むことがないのが不思議なもので、むしろ心地よいというのがその実でございますから……。

本日のお相手は、舶来ビールの「Satan Red」(デ・ブロック醸造所・ベルギー)。
アルコール度が8度と高めのビールですが、サラッとしつつも甘味のある味わいで、ゆっくりと楽しめそうです。

悪魔を忌み嫌うのではなく、「飲む干す」勇気が21世紀には求められているのでしょう・・・。

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