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備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる

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 定理三六 かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する。
 証明 人間が自分を楽しませたものと同時に見たすべてのものは、彼にとって偶然による喜びの原因となるであろう(この部の定理一五により)。したがって(この部の定理二八により)彼は、これらすべてを、自分を楽しませたものと同時に所有しようと欲するであろう。すなわち彼が最初にそれを楽しんだと同一のすべての事情のもとにそれを所有しようと欲するであろう。Q・E・D・
 系 それでもし、愛する当人は、これらの事情の一つでも欠けていることに気づけば、悲しむであろう。
 証明 なぜなら、何らかの事情が欠けていることに気づく限り、彼はそのものの存在を排除するある物を表象する。ところが彼は、そのものあるいはその事情を(前定理により)愛ゆえに欲しているのであるから、したがって(この部の定理一九により)それが欠けていることを表象する限り、悲しみを感ずるでろう。Q・E・D・
 備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる。
    --スピノザ(畠中尚志訳)『エチカ(倫理学)』(上)、岩波文庫、1975年。

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最近、一日一個、子供のために買わなければならないのものがあります。
「百獣大戦アニマルカイザー」という子供向けのゲーム……内容としては動物たちが荒唐無稽な戦術を駆使して対決するというわかりやすい?、カードを利用したアーケード・ゲーム……に関連した食玩です。

小さな飴だかガムだかといっしょに、登場する動物のフィギュアと、ゲームで使用できるカードがはいっている200円ぐらいのおもちゃがそれなんですが、いうまでもなく同梱されているフィギュアとカードは基本的には同じ動物ということになります。
ただし、箱を開けてみるまで中に何が入っているかという親切心は全くなく、そのギャンブル的要素と同じ奴をひいちまったという怯懦がさらに購買意欲を加速させるというやつですが、今回のシリーズではいまのところ……

「またこれか!」

……という事案はなかったのですが、それとは違う状況が到来した次第です。

先に書いたとおりですが、開けて中身を確認するまでは何が入っているのかわかりませんが、開けて入っているのは動物のフィギュアとその動物のカードです。たとえば、ライオンならライオンのフィギュアとライオンのカードが入っている--というのが、いわば正常な状態なのですが……

……昨日開封した箱からは、フィギュアは「始祖鳥」で、カードは「オオサイチョウ」……ちなみに「オオサイチョウ」とは「大犀鳥」(Buceros bicornis)のことで、ブッポウソウ目サイチョウ科サイチョウ属に分類される鳥のことです……という組み合わせのようでして、誤梱包といいますか……あそらくそのあたりの理由で始祖鳥のフィギュアにオオサイチョウのカードが同梱されたようだと思うのですが……

……しかしながら、その事実に息子殿は当惑したようです。

宇治家参去の感覚からするならば、「普通じゃないから、それ面白い!」ということになるのですが、息子殿はそうではなかったようです。

17世紀オランダの哲学者・スピノザ(Benedictus De Spinoza,1632-1677)が『エチカ』の定理三六で示して見せた通りの状況とでもいえばいいでしょうか。

「かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する」

これまで何度も、ライオンならばライオンのカード、イッカクならイッカクのカードという状態になれておりましたので、「最初にそれを享楽したと同じ事情」では今回はありませんので、傍から見ているとありえないほど「当惑」している様子です。

そしてその「当惑」は、「系」で示されたがごとく「愛する当人は、これらの事情の一つでも欠けていることに気づけば、悲しむであろう」ということになりますので、直面した状況が「辛い」ということで、「なんとかしてくれ」--という始末です。

状況を説明はしたのですが、こうした場合、説明を納得することが不可能です。
解決策としては、販売製造元のお客様相談の窓口に電話をかけて対応を依頼するしかないのですが、このような問題の場合、宇治家参去の場合通常でしたらスルーしてしまいます。

そんなことで相談するのは「大げさ」すぎるし、みっともない--そう育てられてきたものですからいたし方ありません。

ですけど、そのように悩むわけですので、大人向けの提案ですが、

「販売元に電話をかけておねがいするしかないかな--」

--と、解決策のひとつを提示したところ、

「電話をしよう」

--ということになってしまいました。

自宅の住所・電話番号は本人は覚えているので本人がダイヤルしそうになったのですが、6歳の人間にその状況を説明できるわけではありませんので、細君に依頼して1分程度で案件クローズです。

始祖鳥のカードが後日送付されてくる手はずとなりました。
*電話窓口では丁寧に応対してくださいまして、ありがとうございましたっ!

さて、宇治家参去としては、どう考えても、おおげさにしか思えないわけで、そのようなことで申し出として声をあげることは「アリエナイ」と思ってしまうわけですが、ひょとすると、それはいまの自分が大人だからなのかもしれません。

今となってみれば忘れているだけかもしれませんが、子供の頃は、そうした些細な事件で自分も、さんざん騒いで親に電話をかけさせたのかもしれません。

案件がクローズしてから「おおげさに」と思う反面、同時に、「いや待てよ」などとも思った次第です。

多分、スピノザの指摘する「愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕」という状況は子供にも大人にもかかわらず、誰人にも平等にふりかかってくる事案なのでしょうから……。

仕事へ出かけてから、ちょうど息抜きで屋上にあがったとき、富士山が遠望できたのですが、どこから見ても富士山は富士山なのですが、そのアプローチにより対象のとらえ方はちがうのですが、富士山は富士山だよな~と思いつつ、アニマルカイザーの問題も子供のアプローチは子供のそれであり、大人のそれは大人のそれであるのですが、その乖離を乖離のまま放置してしまうと、富士山はひとつであるにもかかわらず、本来の富士山からかけ離れた、そして、本来存在し得ない「子供の富士山」と「大人の富士山」が出てくるのでは……などと感慨に浸った次第です。

乖離をかけ結ぶ何らかの努力が本来必要なのでしょうが、そこを「大人の論理」「子供の論理」という言い方でスルーしているだけなのかも知れません。

さて……
結局の所、子供はそれに対してストレートに表現するのであり、大人はちょっと格好をつけているのでしょう。

とわいえ、昨今の過剰請求型のクレームと日常的に接する機会の多い宇治家参去としては、そうであったとしてもその表現に関しては「大人」(オトナではなくダイジンと読む)の対応のほうがよろしいとは思うですが、その意味では、「オトナ」の「コドモ」化という新しい状況が出来しているのが現代社会の特徴のひとつなのだろうとも自然に思われてくる始末でして……。

どうでもよい思索が枯野をかけめぐるというのはまさにこのことでしょう。

思索のスパイラルに陥る前に、いっぺえ飲んで寝るのが大事です。

できれば、今日、買ってきた「百獣大戦アニマルカイザー」の食玩がきちんとそろった内容物であることを祈るばかりです・・・。

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エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫) Book エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

著者:スピノザ
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