「人間の心に付きまとって離れぬ傲慢と不遜とを抑えて隠すように」してくれるところ
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会話(conversation)〔とは、互いに自己の見解を表明し合うことによって成り立つ言論本位もしくは談論本位の人間交際の仕方ですが、この会話〕にかんするさまざまの技術〔ないし作法〕のうち、相互に相手を立てて敬意を示し合う態度ほど、あるいは、相互に相手に対し礼儀を尽くそうと努め合う態度ほど、ひとびとが好ましく思う態度はありません。そのような態度はわれわれを導いて自分自身のしたいこと、言いたいことを相手のそれに合わせるようにさせ、人間の心に付きまとって離れぬ傲慢と不遜とを抑えて隠すようにさせます。育ちもよければ受けた教育もよく、しかも、気立てもよいひとは、前もって意図するとか利害を打算するとかではなしに、あらゆるひとびとに対し、そのような礼儀正しい態度を、いわば第二の天性として、とることができます。
--ヒューム(小松茂夫訳)『市民の国について』(下)、岩波文庫、1982年。
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市民社会の成立期に、その社会の理想的なあり方を現実の政治生活・公共空間との対話のなかで論じたのがヒューム(David Hume,1711-1776)の『市民の国について』というエッセイ集なのですが、歴史の教訓から政体論を論じ、現状との往復関係のなかでその適応可能性を模索したその筆致は鮮やかで、読み直すたびにふむふむと頷いてしまう宇治家参去です。
話題もポリティカルなものだけでなく、商業(商売)の話、貿易(外交)の話、ひとりの市民としてのあり方として論じられるラグジュアリーの問題に幅広く及んでおります。
結局の所、政治を論ずるにせよ、経済を論ずるにせよ、そしてその対極にあるとされる人間の私的生活空間における話題にせよ、その中心に何が存在するのか……その論点が欠如した議論がその両極端の話題の中では多いのですが、ヒュームの議論には、かならず、その中心に存在するはずの「人間」に焦点が当てられており、そこから大きな話題〔物語〕も、小さな話題〔物語〕もきちんと論じられており、議論の見本というものを見せてくれるような気がします。
めまぐるしく転変するように演出された社会情勢のなかで、ともすれば、政治を論ずるにせよ、そして私的趣味を論ずるにせよ、何か議論が先鋭化し、その当事者の問題が看過される風潮が顕著なわけですが、結局の所どのような問題にせよ、それを自分自身の「人間」としての「問題」として議論の原点をきちんと把握しておかなければ、議論そのものが単なる「議論」に堕してしまうのかもしれません。
さて……
人間が他の人間と向かいあう際の言葉のやり取りに関しては、おおむねつぎのふたつの流儀があるかと思われます。すなわち対話(dialogue)と会話(conversation)ということです。
前者が問題に対する目的意識を自覚的に持ち合わせた言葉のやり取りであるすれば、後者は問題に対する目的意識を持ち合わせてはいないものの、そうした対話の場を育成するための基礎的環境形成の出発点ともいうべき雰囲気醸成へむけた言葉のやり取りかもしれません。
※ただ日本の場合、対話文化というものがほとんどないという問題が濃厚に存在するために、議論がまともに成立しないという問題を内包していること、そして後者に関しても、「井戸端会議」という言葉に象徴されるように、単なる言葉のやり取りで終わってしまうという問題がありますが、ここではひとまず置きます。
問題に関してまともに真面目に議論しようとすれば対話の場が必要となってきます。しかし対話のテーブルにはいきなり臨席できないのも事実です。その意味では対話のテーブルに着座するための、仕込の作業……しかもそれは無意識的・生き方〔art of lifeとしての礼儀〕なものであればあるほどよいのでしょうが……というのが「会話」なのかもしれません。
では、この「会話」においては何が肝要になるのでしょうか。
ヒュームによると、どうやら「相互に相手を立てて敬意を示し合う態度」と「相互に相手に対し礼儀を尽くそうと努め合う態度」が大切なようであります。
このことにより「人間の心に付きまとって離れぬ傲慢と不遜」とが抑制され、相互尊重の空間が成立するのかも知れません。
しかし、これは先験的には獲得できる人間「性」でないのも事実のようであり、品性として助長していく取り組みも必要なようであります。ですからヒュームは「“第二”の天性」と表現しているのでしょう。
宇治家参去の場合、その恰好の練習空間というのが、マア、食事や酒を前に、言葉を交わすという例の空間になるわけです。
先日は久し振りに、家族で、イギリス湖水地方風の洋食屋「RAKERU」へ立ち寄りましたが、テーブルで交わされたのは、とりとめもない言葉でありますが、自室とか自宅のプライベート・スフィアでもありませんので、やはり公共の中での私人としての言葉になりますので、言葉を意識的に使うようになりますので、おなじ「とりとめもない」話題であったとしても、ひとつ工夫が必要で、少したのしませて頂いた次第です。
この意識的工夫により、人間は言語の沃野を開拓し、拡大していくいのかもしれません。
……ということで?
ちょうど、「北海道マスカルポーネ&ブラウンソースフェア」というのをやっておりましたので、「KUKUビーフブラウンオムレツ」をセレクトし、味わってきた次第です。
キャベツのオムレツにデミグラスソースとトマトソースで煮込んだブラウンソースをかけものへ北海道産マスカルポーネチーズ添えたメインディッシュと、RAKERUパンに、ジャガバターのプレートです。
家人は、「オムライス」系をよく頼むのですが、宇治家参去の場合、「オムライス」ではなく「オムレツ」を所望してしまいます。
単なる卵料理といえば卵料理なのですが、何度も足を運ぶうちに痛感するのが、家庭料理もそうなのですが、単なる卵料理だからこそ、一番難しいのではないだろうか……、というところです。
玉子焼きにせよ、目玉焼きにせよ、卵を焼くだけの潔いシンプルメニューです。オムレツにしても同様ですが、シンプルすぎるからこそ一番難しく、しかし逆に言えば、だからこそ、うまくできればできるほど、複雑で高級な料理よりも、味わいがひとしおというのかもしれません。
ですから、「オムライス」よりも「オムレツ」を頼むわけですが、卵そのものの味わいが素材によってひきたてられ、生でもカリカリでもない、その絶妙なバランスに悶絶するという始末です。
……ということで?
やはり、対話と会話は目的意識に違いがあるにせよ、人間を中心において、ものを考え、言葉を交わすうえでは必要不可欠なのかもしれません。
とわいえ、その後仕事がありましたので、いっぺえやることはできませんでしたが・・・。
市民の国について (下) (岩波文庫) 著者:ヒューム |
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