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2009年12月

生きていれば、よいこともある

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 正月に、政権が交代した。長い間筆頭家老をつとめた内藤佐治右衛門が、病弱を理由に勤めを退き、内藤派の重職が何人か閑職に移った。かわって横山甚六郎が家老にのぼり、横山派と言われた何人かの重臣が、藩の要職を占めることになったのである。
 そしてまだ寒い二月に、もとの中老鳥飼郡兵衛の収賄にかかわる疑獄が摘発され、鳥飼と、内藤派の大目付、町奉行などがそれぞれ咎めを受けて失脚した。中でも鳥飼の家は閉門五十日のあと、家禄を五分の一に減らされて普請組に役替えとなったが、疑獄のつねとして収賄側で大きな利益をうけたはずの内藤家老は無傷だった。疑獄の摘発が行われたのは、もとの町奉行尾形弥太夫が、和泉屋の一件書類が紛失したという山岸のひそかな報告を不審として、その解明を横山中老に直訴したのが発端である。孫左衛門も寺井権吉もかかわりがない。
 かかわりがないどころか、新任の横山派の司直が鳥飼の収賄事件に手をつけたとわかったとき、孫左衛門も寺井も再度の処罰を覚悟して家の者に因果をふくめたほどだった。だが事件の処理が終わったあとで、思いがけなく減らされた家禄がもどってきたのである。
 孫左衛門は十石、寺井権吉は五石。双手を挙げて喜ぶというほどではなくとも、この家計がくるしいときに禄が返ってきたのは大きい、と孫左衛門と寺井は言い合った。二人は場末の小さな飲み屋でつつましく祝杯を挙げ、横山家老は世の道理を見る目があると、新しい執政をたたえた。
 さくらのつぼみがふくらみはじめたころ、間瀬家には初孫が生まれた。これがじつにかわいらしい女児で、散歩の途中、孫左衛門は足がとかく間瀬家の方に向きがちになるのを押さえるのに苦労する。
 --生きていれば、よいこともある。
 孫左衛門はごく平凡なことを思った。軽い風が吹き通り、青葉の欅はわずかに梢をゆすった。孫左衛門の事件の前とはうってかわった感想を笑ったようでもある。
    --藤沢周平「静かな木」、『静かな木』新潮文庫、平成十二年。

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東京は穏やかな暖かい一日で、夕暮れどきからも冷え込むことなく、その陽気にまどろむ?……ことのできない宇治家参去です。

年内は本日の勤務をもってして元旦がお休みで、2日からまたまた怒濤の連勤なのですが、市井の職場で本日もガッツリとレジを打ちながら、年末だからなのでしょうか……、お客様のすさまじい「買いっぷり」に驚くと同時に、三が日ぐらいは外出をせず、ゆっくりと家族と楽しみたい……万券に秘められたそうした実感をくみ取りつつ、マア、笑顔での接客はできたのではないかと思います。

また、締め切りは年があけてからなのですが、①返却期限のあるレポートの添削、②冬休み後の最終講義の準備、③提出期限のある原稿、のすべてはなんとか年内にすますことができたのは、我ながら拍手してやりたいところです。。

さて……。
30日の朝に、いち早く帰省した息子殿のあとを追うように細君も帰省しましたので、5日まで一人暮らしの身と相なりました。

息子殿と一緒に正月を迎えたのは一度きり。細君と一緒に正月を迎えたのは息子殿が今世にお生まれ遊ばされてから二度きり。

そんな話を前夜しておりますと、

「とっとと常勤きめたら、そんなぼやきはおこらない筈」などと苦言を呈されてしまう始末ですが、ひとりでいるというのも、マアそれはそれで「気楽」なものでして、現状は打開したいことは否定しませんけども、これから数日、ちょいと「気楽」に過ごしていこうと思います。

とわいえ、

「気楽に過ごしてもらっても結構ですが、ピーコとピーチャンの世話を頼んだわ」

……とのおキツイ言葉もいっしょに頂戴した次第です。

宅ではジュウシマツの方々に住まわって頂いておりますが、金魚や熱帯魚のような鷹揚な世話では不十分で、毎日世話をする必要があります。

ピーコとピーチャンへ、

ご迷惑を……、たぶん・・・、お掛けするかと思いますがよろしくおねがいします。

……ということで、振り返りますと、、、

詳細はひとまず措きますが、2009年は、自分自身を通して、人間という生き物の闇の部分、生きているということ自体の負荷をまざまざと見せて頂いた一年ではないかと思います。

ただ、しかし、それだけがすべてでもないということを鈍重ながらも感じさせていただくことができたと思います。

池波正太郎先生(1923-1990)曰く

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 人間という生きものは、苦悩・悲嘆・絶望の最中(さなか)にあっても、そこへ、熱い味噌汁が出て来て一口すすりこみ、
 (あ、うまい)
 と、感じるとき、われ知らず微笑が浮かび、生き甲斐をおぼえるようにできている。
 大事なのは、人間の躰にそなわった、その感覚を存続させて行くことだと私は思う。
    --池波正太郎「私の正月」、『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和59年。

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このあたりが実感でしょうか。

正直なところこの一年は、総てがとまではいいませんが、前進はできなかったことは否定できません。

しかし、苦悩・悲嘆・絶望の最中で人間という生き物の感覚だけは学ぶことはできたのではないだろうかと思います。

藤沢周平(1927-1997)の流れるような文章でいえば、引用文中の末尾「生きていれば、よいこともある」ということでもあるかと思います。

そうした感覚・体感・想念といったものを学問へ還元……還元主義というわけではなく、往還関係のなかでのいわば対話--していく、そして家族へ還元していく、……このあたりが薄朧気ながら新年のテーマではないかと思います。

さて、本年は皆様に大変お世話になりました。
ナイーブな独白はまだまだ続き、この人間生活世界をひっかきまわしつづけ、ひとりバックドロップすることは必死ですが、今後ともどうぞよろしくおねがいします。

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求めない一日;「すべて、問うということは、求めることである」

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 すべて、問うということは、求めることである。そしてすべて、求めるということは、求められているものの側からあらかじめうけとった志向性をそなえている。問うということは、存在するものを、それが現にあるという事実とそれがしかじかにあるという状態について認識しようと求めることである。認識的に求めることは、問いがむかっているところのものを開発的に規定する作業という意味での「考究」となることがある。要するに、問うということは「……へむけられた問い」でるから、それによって問われているれているもの(Gefragtes)がそれにぞくしている。--すべて「……へむかって問う」ことは、なんらかの形で、「……に問いかける」ことである。したがって、問うということには、問われているもののほかに、問いかけられているもの(Befragtes)がぞくしている。--考究的な、すなわち特に理論的な問いにおいては、問われているものが規定されて概念として表明されなくてはならない。この場合には、問われているもののなかに、根本において指向されたものとして、問いただされている事柄(Erfragtes)がひそんでいるわけであって、問いはそこにいたって目標に達するのである。--問うことは、ある存在者、すなわち問う人間のはたらきであるから、それ自身、固有の存在性格を帯びている。問うことは、「ただ何気なくきく」という形でおこなわれることもあれば、また明確な問題設定としておこなわれることもある。後者の特色は、問うことがここで述べた問いそのものの構成的諸性格のすべてにわたって、あらかじめ透明な見通しを得ているという点にある。
    --マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』ちくま学芸文庫、1994年。

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29日は年末最後!の休みでしたが……、

結局、何も仕事……ここでいう「仕事」は本業としての学問の仕事……をせず、のんべんだらりんと過ごしてしまった宇治家参去です。

たまには……何もしない日があってもよいはずなのですが、なんとなく、何もしないことに居心地の悪さを感じつつも、その悋癖に反吐をはきつつ、……とりあえず、のんべんだらりんと過ごす心地よさに酔いしれた一日です。

するべきことは山のように積み重ねられてい、あっぷあっぷすることのほうがおおいのですが、それでもなお、人間といういきものには、たまには、「のんべんだらりん」と過ごすことも必要だろうと思われて他ならない事実を実感するばかりです。

ということで、人間は「なぜのんべんだらりん」とすることを欲するのでしょうか。
あたらしい探究=問いが生み出されたようです。

新しい探究?にそなえ本日はこのままま「のんべんだらりん」としましょう。

昨夜は市井の職場でバベルの塔を造りましたが、結局は人間の世界は仮諦の世界であるとすれば、仮諦の現象にたゆみなく挑戦するだけでなく、仮諦の仮諦である点をきちんと把握してふりまわされないようにしないと、バベルの塔に翻弄されてしまうのかもしれませんね。

などと感慨にひたる深夜です。

ただ、すべては「すべて、問うということは、求めることである」であるとすれば、本日は問いを発しなかった点では忸怩たる一日ですが、その材料がそろった意味ではよいとしましょうか。。。

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なぜかチンタオ

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なぜか上海 井上陽水

作詩・作曲 井上陽水

星が見事な夜です
風はどこへも行きます
はじけた様な気分で
ゆれていればそこが上海

そのままもそ もそ も もそっとおいで
はしからはしのたもと お嬢さん達
友達さそ さそ さ さそっておいで
すずしい顔のおにいさん達

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに

流れないのが海なら
それを消すのが波です
こわれた様な空から
こぼれ落ちたところが上海

いいからまそ まそ ま まそっとおいで
ころがる程に丸いお月さん見に
ギターをホロ ホロ ホ ホロッとひいて
そしらぬ顔の船乗りさん

海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海
長い汽笛がとぎれないうちに
海を越えたら上海
君の明日が終わらないうちに
    --井上陽水「なぜか上海」、1979年。

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仕事へ行きますと、月初に受診した健康診断の診断結果が到着しておりました。
市井の仕事が夜間業務従事者になりますので、法令で半年にいっぺん受診義務があるところを、スルーしようとしてしまい、かえって、面倒な結末を迎えた?ことは以前にお書きしたとおりですが、その結果をみて驚くことがひとつ。

肝機能が改善しておりやした。

ここ数年、γ‐GTP、GOT、GPTの3項目のすべてがだいたい80-90を悪化傾向で推移していたのですが、すべて40半ばの数位に回復しておりました。

なんでぢゃほい?

数値に大きく影響を与えるアルコール摂取量は昨年とほぼ同じ量ですので、何故なのでしょうか。もちろん受診条件の問題……食後何時間後?的なやつ……もあるわけですが、いずれにしましても、大きく影響を与えるような条件与件はなく、……驚く次第です。

ひとつ指摘するとすれば、昨年よりも摂取量は多いか横ばいなのですが、毎日やらなくなったのが日本酒です。

日本酒がよくない!ということで、なるべく、ワイン、ウィスキー等々でごまかしていたのが功を奏したのでしょうか???

ということで、なぜだか井上陽水(1948-)の「なぜか上海」を口ずさみたくなってしまった宇治家参去でしたっ!

「なぜか」理由はわかりませんが、ひとつよかった年末でしたっ!!

http://www.youtube.com/watch?v=t8ODnFlB82A

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○○だから、やるのではなく、「書くというわたしの自由意志」が根柢に

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 なによりもまずわたしは、書くというわたしの自由意志によって作家となる。けれども、作家であることでただちに、わたしは、他人が作家とみなすような人間になる。作家たる者は、ある種の要求にこたえねばならず、また、これまでずっとある種の社会機能を担ってきた。作家がおこなおうとするゲームがどのようなものであれ、作家は他人が自分についていだく表象にもとづいて、ゲームをおこなわなければならない。ときには彼は、社会のなかで文人[すなわち知識人]に押しつけられるキャラクターを身におびねばならない。かくして、ここで公的なものが介入してくる。つまり、慣習と世界観が、また社会観と文学観が問題となる。公的なものは作家を囲繞している。公的なものが作家を閉じこめる。公的なものからの威圧的な、あるいは狡猾な要求。それをどのように拒絶し、そこからどのようにして逃れるか。こうしたことすべてが作品を構成するうえで基盤となる所与の事実となる。
    --サルトル(加藤周一・白井健三郎訳)「文学とは何か」、『シュチュアシオンII サルトル全集 第9巻』人文書院、1964年。

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実存主義の哲学者・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)は、「作家」という表現をもちいておりますが、ひろく捉えるならば「知識」を向かいあうひとびとの矜持について、上の通りに語っております。

知識と向かいあうことには、必然的に「公的なものが介入」してきます。

通俗的にいえば「~だから(=存在認識として)、○○する」という心根といってもよいかもしれませんが、それに従うことによって、ひとは課題を消化し、マア、業績を積み重ねていきます。

「要求にこたえねばらな」ないことはわかっておりますし、「他人が自分についていだく表象にもとづいて、ゲームをおこなわなければならない」ことも承知です。

しかし、知識と向かいあうということは、それだけではありません。

まさに、「それをどのように拒絶し、そこからどのようにして逃れるか。こうしたことすべてが作品を構成するうえで基盤となる所与の事実」となるわけですから。

「仕事」を理由にして、業績を残すことは、否定できませんが、それだけではつまらなくはありませんか。

自分でやるときめる、書くと決める、探究するときめて、やるからこそ、カント(Immanuel Kant,1724-1804)のいう他律ではなく自律が発生するはずです。
※いうまでもありませんが、カントの「自律」の概念は、日本語でよく流通しているような「自立」ではなく、自分で自分に命令を貸し、それを恬淡と守り抜くことによって、「真の自由」を獲得するという意味になります。

率爾ながら弊職も、「読んで」「書く」ことが商売のひとつになります。
毎年、論文の一本二本は、書かなければならないわけですが、なかなかうまくいかず、それでもなお、「年に一本以上」というのをここ数年こころがけております。

水準は自分で言うのもナニですが高くはないのですが、秋口になんとか一本しあげたわけですが、ようやく製本され、届けられました。

拙論「吉野作造(前期)のナショナリズム--日露戦争から第一次世界大戦までの対応」、『東洋哲学研究所紀要』(第25号、東洋哲学研究所、2009年)です。

ナショナル・アイデンティティに関する形而上学的考察を簡易にしたところに悔いが残るのですが、自分で決めて挑戦し、活字となるのは、うれしいものです。

たしかに「仕事」として「取りかかる」ことは否定できません。
しかし、知識と向かいあうなかで、「仕事」を逸脱する、サルトルのいうところの「公的なものが作家を閉じこめる。公的なものからの威圧的な、あるいは狡猾な要求」に誠実にしたがうなかで、それでもなお生産的な、自律的な営みができたのでは……などと思うところです。

学生だから、確かに、勉強して、学ばなければなりません。
教師だから、確かに、研究して、業績をださなければなりません。

しかし、それだけではありません。

そのようにカテゴライズされる強制力から逸脱しながら、自分で挑戦していく。

つまり、「それをどのように拒絶し、そこからどのようにして逃れるか。こうしたことすべてが作品を構成するうえで基盤となる所与の事実」を確認していく作業ほど、楽しいものはありませんから。

ともあれ、自分で決めて挑戦している「仕事」がひとつのかたちになったのは、うれしいものでございます。

……ということで、今日は、「一の蔵」でもいっぺえやりながら、労をねぎらおうと思います。

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「つまらん、おまえのはなしはつまらん!」……って言われないように

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 しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである。単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない。この知識が教科課程や試験規定によって実用的に最も重要なものだけに絞られたところで、それは決して知ではない。必要欠くべからざるものだけに引き絞られたこの知識は「生活に近親」ではあろうが、しかしそれを持つことは決して知ることではない。こんな知識を持ち運び、さらには若干の実用的な小細工をおぼえ知っているような人は、しかもなお真の現実に直面すると真の現実はいつも俗物が生活や現実に近親であるという後で理解しているものとは違うものだから、途方に暮れて、きっと不器用者になることであろう。なぜだろうか? 彼は知を持っていないからである。というのは、知るとは習うことができるというということだからである。
 習うことができるということは、問うことができるということを前提している。問うとは、まえに説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことができることへの決-意である。われわれがいま問題にしているのは、等級から言って第一の問いを問うことなのだから、志すと言い知ると言っても、それはともに明らかに根源的に独特な種類のものである。したがって、この疑問文は、たとえそれが真に問いつつ言われ、ともに問いつつ開かれるとしも、やはりこの問いを余すところなく伝えはしないであろう。この問いはこの疑問文の中に聴き取れはするけれど、いわばまだそこに閉じこめられ、からみこんでいるので、まずこれをほぐし出さねばならない。そのさい、問いの態度が明らかにされ、確かにされ、訓練によって固定されねばならない。
 われわれのさしあたっての課題は、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」という問いを展開することである。
    --M.ハイデッガー(川原栄峰訳)『形而上学入門』(平凡社、1994年)。

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市井の職場……学問一本で食べていくことができないのがチト情けないわけですが……はGMSになりますので、マア、総合スーパーということですが、衣料品から家庭雑貨・電気機器、食品まで扱いますので、その問い合わせが多岐におよび、かなり頭を悩ませます。

部門の所属は店長直轄のナイトmgrになりますので、実は専門性が全くありません。
家庭用品-電化製品とか、衣料品-子供衣料、とか、食品-生鮮-畜産、というわけでないので、まったく「専門性」がありません。

基本的には売り上げ構成比の関係から、食品をメインとして担当しますが、担当する時間帯での統括になりますので、「専門性」を確立する必要がないといえば、ないのですが、「専門性」が強く要求されることが多くしばしば頭を悩ませます。

なにしろ……、単なる「素人」にすぎませんから。

ですけど……、
専門家?が終業したあとの時間帯を担当していることになるわけですが、にもかからわず、それでも専門的な問い合わせ、質問、というものはあるわけです。
簡単に対応できる事案がほとんどですが、それでもなお、ときおり、かなり細かい「専門知」が必要とされる事案に遭遇してしまうわけなのですが、分かる人間はいない…… ⇒ そうすると、事案を受けた人間は・・・

「とりあえず、宇治家参去さんにまわそう、応対をかわってもらおう!」

・・・となってしまい、

こちらの瞳を眼差し、問いを発する人間の無限大の倫理的拘束@レヴィナスに絡め取られてしまう……という寸法です。

短絡的な「連携」といえば「連携」なのですが、応対する人間としては「たまったものではない」という事案が多く、頭を悩ますことがよくあります。

おまけに年末で、いつもよりも来店者もおおくなりますし、時節的なネタもおおくなり、さらに頭を悩ませてしまうという状況です。

「快気祝に花束をつくりたいのですが、入れるとマズイ花ってありますかね?」
「この~カシミヤ○○%と、100%って、着た感じはやっぱ違うの?」
「フルHDとHDTVって何が違うの? 宅はこういう環境だけど、使えるの?」
「青森産と、岩手産って味の違いがあるのかねぇ? ついでに調理方法は? どうやって食べるのが一番おいしいのかねぇぇ???」

……って、そそくさに質問されても、こちらも即答できないわけですし、待たせるとぶち切れられるのが常道ですので、汗をかきつつ、しらべつつ、丁寧に対応する毎日です。

まさにハイデガー大先生(Martin Heidegger,1889-1976)の言うとおり、「知るとは真理の中に立ちうるということ」なのでしょう。

知るとは単に、ものごとの名称を「知る」以上の沃野を秘めた「問い」なんです。

そのことは、ハイデガー大先生に諭していただく前から存知のことなのですが、、、上のような自分自身にとって機知ではない=門外漢の問いに直面すると、あたふたする始末です

もちろん、完全に応答しようのない「問い」に関しては後日折り返し対応にてスルーしますが、問いを発する存在者は、やはり「即答」を求めるのが「筋」という奴ですから……、最大限に対応するわけでして……けっこう疲れ果ててしまうという寸法です。

しかしながら、問う人が「問う」ということは「知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことができることへの決-意である」であるわけですから、その決意には真摯に対応せざるを得ません。

ですから、これから数日、「突拍子もない問い」と格闘しなければならないわけですが、それでもその応対のなかで、自分自身の知の枠組みが強制的なわけですけれども「拡大」されていく……という意味では良い機会……と捉えた方がベストかもしれません。

さて……
今回の最大の、時節的質問が数時間前に到来しましたが……

「正月飾りの飾り方」

をいをい!!!

地域差もありますし、おまつりしている神仏の問題あるんですワ……これ。
種々調べて応対し、今回はことなきを得ました!
※「つまらん、おまえのはなしはつまらん!」、って大滝秀治(1925-)的にスルーしたいのが本音ですけど。

ともかく……

「よっしゃ! 明日も来いや! 万全だぜ!」

……ぐらい、学習しました。

しかし、そこに奢っては、ハイデガー大先生に叱られるというやつでしょう。

なぜなら「単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない」わけですから……。

http://www.youtube.com/watch?v=9wsHgR8zXIU

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これが智慧不足というやつでしょうか

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 真理の探究における最大の障害はけっして単なる知識の欠除にあると考えてはならないという見解は、啓蒙主義哲学のなかでさまざまな形をとり、種々の言廻しによってくりかえし表現された普遍的公理に他ならなかった。われわれの知識がこの種の欠陥をもっていることは疑いのないことであり、事実われわれは認識過程の一歩一歩ごとにその不確実さと不安定さを痛感するわけであるが、われわれがこの限界をひとたび意識するようになりさえすれば、それは格別の危険を意味することはない。認識が犯す誤りは認識それ自身の内在的進展の過程のなかでおのずから正されるし、われわれの認識の錯誤もまたわれわれが認識を自由な展開に委ねさえすれば自然に除去される性質のものである。むしろいっそう重大な結果を惹起するものは、実は単なる認識の不十分さに起因するのでなく認識方向の転倒に由来する誤謬である。われわれが最も恐れるのは単なる否定ではなくして倒錯である。認識の真の尺度のこのような転倒もしくは変造は、われわれが到達しようとする目標をあらかじめ先取しそれを各種の究明に先んじて固定しようとするや否やただちに発生する。懐疑ではなくて独断こそ認識の最も危険な敵に他ならない。つまり無知一般でなく、自らを真理とふれこみ自らを真理として押し通そうとする無知こそ、認識に対し最も致命的な害を与えるものなのである。なぜならば、ここでは誤謬ではなくて欺瞞が、つまりたまたま発生したという錯誤ではなくて、精神が自らの咎によって迷妄に落ちこみいよいよ果しなくそれに巻きこまれてゆくという事態が問題だからである。そしてこのことは認識についてにとどまらず、信仰についてもそのまま妥当する。信仰に対する真に根本的な対極は不信ではなくて迷信である。なぜならばそれは信仰の根を掘り崩し、真の宗教心が湧き出る源泉を涸らしてしまうからである。それゆえここに認識と信仰は共同の敵に対することとなり、迷信に対するこの両者の闘争はこの時代が解決すべき最初のしかも緊急な課題なのである。この際にのぞんで両者は連合せねばならないし、また連合することができるのである。そしてこの連合の基礎のうえに立って、はじめてこの両者相互の協定と、たがいの領域の決定とが遂行されるであろう。
    --エルンスト・カッシーラー(中野好之訳)『啓蒙主義の哲学』紀伊國屋書店、1997年。

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俗流啓蒙主義は、知識を蓄積し積み重ねることによって人間は無限に進歩できると吹聴したわけですが、本来的な啓蒙主義は、知識の積み重ねにまったく主眼をおいておりません。

知識が力となるし、武器にもなります。
ですから、啓蒙主義のあと(ポスト)にでてきた思想潮流は、その暴力性を批判したわけで、その批判も否定できません。

しかし人間には知識を貯えていくことは、生活世界においては必要不可欠の学習であり、通俗的な言い方ですから、それをどのように展開=認識していくのか、ということのほうが問題なのでしょう。

人間の知を軽んじ、一種の科学とかし、イデオロギーが擬似信仰として猛威を揮ったファシズム全盛期を生き抜き、「知」の橋頭堡を守り抜いた哲学者カッシーラー(Ernst Cassirer,1874-1945)の次の言葉は含蓄深いものがあります。

「むしろいっそう重大な結果を惹起するものは、実は単なる認識の不十分さに起因するのでなく認識方向の転倒に由来する誤謬である。われわれが最も恐れるのは単なる否定ではなくして倒錯である。認識の真の尺度のこのような転倒もしくは変造は、われわれが到達しようとする目標をあらかじめ先取しそれを各種の究明に先んじて固定しようとするや否やただちに発生する。懐疑ではなくて独断こそ認識の最も危険な敵に他ならない。つまり無知一般でなく、自らを真理とふれこみ自らを真理として押し通そうとする無知こそ、認識に対し最も致命的な害を与えるものなのである。なぜならば、ここでは誤謬ではなくて欺瞞が、つまりたまたま発生したという錯誤ではなくて、精神が自らの咎によって迷妄に落ちこみいよいよ果しなくそれに巻きこまれてゆくという事態が問題だからである」

知識のもつ負性を自覚しつつも、人間は知識によってしか、人間として存在することができないのかもしれません。

端においやればおいやるほど、まともとに向かい会わなくなればなるほど、人間は人間から遠ざかり、転倒と独断、億見と誤謬が時代と状況、そして生きているひとびとを席巻していくのかもしれません。

さて、来年度の課題をひとつ。
知識に関しては……職業上ですのでアレですが……ある程度の蓄積と応用は効く?ハズなのですが、うまく機能しておりません。

いうなれば、「認識が犯す誤りは認識それ自身の内在的進展の過程のなかでおのずから正され」なければいけないわけですがそうならず、「われわれの認識の錯誤もまたわれわれが認識を自由な展開に委ねさえすれば自然に除去される性質のものである」のですが、そうなりません。

ひらたい俗の言葉になりますが、来年度は、知識を智慧に転換しゆく学びの一日一日でありたいと希う宇治家参去です。

しかし、知識を智慧に転換するにはどのようにすればよいのでしょうか?

読者諸兄の訓戒を頂戴したいと思いつつ、昨夜は、安物ですがスパークリングワインを1本頂戴しました。

「また、かよっ!」

……ってツッこまれそうですが、一昨日、また風邪を引いたようです。
今回は、熱風邪ではないのですけど、鼻と喉が機能不全に陥っておりましたので、薬を飲んでから、軽くアルコール消毒をしたわけですが……。

あまり効果がなかったようで。。。

これが智慧不足というやつでしょうか。

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「一番、身近な隣人の『ために』何かをしろや」

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 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、<語られたこと>としての意味の次元にとどまることになりましょう。しかし私たちとしては、<語ること>としての意味がなにを表しうるのか、この点を探らなければなりません。
 「ために」〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です。それは近さの関係であり、そこで働くのは、ある者の他の者に対する責任です。このような関係のうちには主題化不能な知解可能性があります。それは、主題や主題化の効果によってではなく自分自身によって意味を得るような関係なのです。つまり、少なくともここでは、知解可能性と合理性は根源的な仕方で存在に属するものではないのです。ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「<語ること>としての意味」、『神・死・時間』法政大学出版局、1994年。

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24日は珍しく市井の仕事が休みでしたが、息子殿も帰省しており、細君と二人だったので、日中は仕事に専念し、年明け早々に返却しなければならないレポートに朱をいれているといい時間で……、そのままレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の著作をひもときつつ、原稿の構想を練りながら、うとうとしていたのですが、細君が、、、

「今晩はどうしようか」

と聞いてきますので、クリスマスの由来を講釈しつつ、「隣人とは何か」を生きているこの生活世界で徹底的に考察する必要性がこの現代にはあると謂ったところ・・・

「一番、身近な隣人の『ために』何かをしろや」

……ということになり、ふたりして、軽くディナー?に行ってきました。
※ちなみに一番、身近な隣人という意味では、自己と対話する自分自身もそうなのだとは思うのですが、それ以上ツッコむと面倒なのでスルーしましたが、、、。

結局行き着く先は、宇治家一家御用達の「旬菜ダイニング ささ花」ということになるのですが、当初は別の安いところでお茶を濁してやろうと思っていたのですが、自転車でいける範囲などとのたまうものですから、覚悟を決めて行ってきた次第です。

降誕節のなか日の平日になりますので、めちゃめちゃ混雑しているわけではありませんが、それなりの賑わいをもつ店内へ誘われ、まずはエビスの生で乾杯です。お通しには「鰤の煮こごり」が出てきましたが、「煮こごり」を頂くのもひさしぶりですが、この適度に醒めたゼラチンが何とも言えず、エビスをもう一杯所望する次第です。

さて……。

お造り(鮪・ハマチ・帆立)とサラダを頼んで始めましたが、お作りはどれも口のなかでとろけるというやつでニンマリとするわけですが、サラダがどうも……自分にはいけません。メニューの「かにフォルニアサラダ」というわけですので、小生かにがNGということで、かにをよけつつ、アボガドを探しながら食べるという始末で・・・。

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さて悩みながらメニューを見ておりますと、やはり降誕節ということで、その手の限定メニューがありましたので、和牛のローストビーフを注文です。

つくりおきのきくアイテムですので、すぐに登場されましたが、ローストビーフをやるのもひさしぶりですが、その味付けに驚きました。

和風ソースでサッパリしあげているのがよいのでしょうか。牛の味わいがかえってひきたち、ぜんぜん諄くなく、、、

「おかわり!」

……などと洩れそうになる逸品でした。スーパーなどのパック商品ですと、どうしても肉の臭さが先に立つわけですが、そうした不安材料全くなしの真剣勝負に頭を垂れる次第です。

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魚は最初にやっていたので、「自家製ベーコンの炙り焼き」を頼みましたが、こちらも度肝を抜くというやつです。
ベーコンとはそういうものだろう……とスーパーなんかで見て認識している「根拠の合理性」を破壊するとはこのことです。

厚さ1センチ弱のもんほののベーコンです。
丁寧に塩漬けされたお肉に、チップがよいのでしょうか……、ほどよい香りがたまらなく、粗挽き胡椒のみで頂戴しましたが、まったく噛むことがなく、口蓋で溶け始めるものですから、笑みがこぼれてしまうというやつです。

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ちょいちょいお番菜をはさみつつ、やはりこの季節は鍋でしょう……。
ということで、「特選和牛の黒モツ鍋」をエントリーです。
もともとは福岡県の郷土料理になるわけですが、こちらも素材がよろしすぎる状態ですのでしょうか。上質の脂がたっぷりと含まれた和牛のモツと、黒ゴマをふんだんに使用した出汁のおかげで、食べる度に、濃厚な旨みと甘みが口いっぱいにひろがるという奴です。
今回は肉中心で攻めましたので、さすがに、これに麺とか米を入れて仕上げようという気力がおきず、最後はさっぱりした深大寺蕎麦でしめた次第です。

細君は降誕節限定のイチゴケーキで締めていたようです。
本人曰く「別腹」だそうですが……。

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いつも外で仲間と飲むと宇治家参去の場合、食べずにひたすら「飲む」という流れで、失敗することが多いのですが、今日はしっぽりと食べることを堪能させて頂きました。

しかし、飲む戦いをわすれたわけではありません。

前回「メニューにない、地酒はありませんか」と尋ねたところ、「メニューにないメニュー」が出てきた事件がありましたので、今回は、滑舌よく尋ねたところ、幻の銘酒と対面し、勝負してきました。

まず、間違いのない地酒といえば、福井県の「黒龍」になります。
本醸造でも、下手な地酒のワンランクうえをいく上質の、まあ「間違いのない」日本酒ですが、今回はその限定の限定のトップクラスとご対面というやつです。

「黒龍 大吟醸 しずく」

「しずく」なんです。

酒袋より自然に滴り落ちる一滴=「しずく」をあつめた逸品です。
大寒造りの大吟醸酒で、フルーティーな香りが楽しさを倍増させてくれるにもかかわらず、透き通るような綺麗な味わいに、酒豪を自他共に任ずる宇治家参去でしたが、もはや完敗という始末です。

水晶やゆったりと漆黒に流れる地下水を思わせる純度の高い綺麗な味わい。
きんきんにひやした冷やでなく、ちょいと冷やの状態ですが、そのお陰で、そうした綺麗な味わいが楽しむと共に、、じわじわと外気に触れて温度が上がり始めますわけですから、しばらくまつと、こんどはやんわりとした優しい旨みが顔をのぞかせるという始末で・・・。

一升びんの写真を取り忘れたのが痛恨の痛みです。

ま、いずれにしましても「ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれている」のが、普段とるにたらないと考えている日常生活なわけですが、そんなことはありません。そのへんをちょいと丁寧に探究していきますと、すこし彩り鮮やかになるわけですし、無限の倫理的罪責を自覚できるはず……などと思案しつつ、楽しんだひとときでございました。
帰りにはちょいとお土産をいただきましたが、こうした配慮がうれしいものです。

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Nativitas Domini

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しかし、わが名を畏れ敬うあなたちには
義の太陽が昇る。
その翼にはいやす力がある。
あなたたちは牛舎の子牛のように
躍り出て跳び回る。
    --「マラキ書」(3:20)、共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳』日本聖書協会,1987年。

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世の中は、クリスマス一色です。
ファミリーでお祝いされた方々では、24、25日よりも、23日の祝日にパーティーをされた方の方が多いのではないでしょうか。
昨日は市井の職場でがっつりと息つく暇もなく、仕事をしておりましたが、クリスマス需要の商材が飛ぶように売れ、なかなか休憩に入ることもできなかった一日ですので、ふとそう思った次第です。

チキンはいうまでもなく、パーティー用の盛り合わせ、刺身、寿司……。ツリーを買い求められる方も多く、玩具売り場はパンク状態という始末です。

軽薄な日本の知的伝統・精神文化のなかで、出来事に対してどこまで理解してなにをやっているのかこちらは把握することはできませんが……マア、そんなもん、理解なんて必要ないんだよね、結局商業主義に踊らされているから踊っているだけ、とか、イベントだから楽しめばいいんでねえの?、とかってツッコミはご容赦を……、それでも、ひとつその由来だけ紹介しておきましょう。

※ちなみに、いろいろな経緯はあったとしても、その日を楽しく過ごすということは大切です!

英語のクリスマス(Christmas)とは、まんまですが、「Christ(キリスト)のMass(ミサ)」のことで、救い主イエス・キリストの降誕を祝う=重要な典礼としての正餐式を行う祝日のことで、ラテン語では「主の降誕」を意味する Nativitas Domini で表現されます。

聖書にはイエス・キリストの生誕月日は明確には記されておらず、精確な降誕日は不明なのですが、古代教会では、だいたい4世紀頃から、降誕を祝う祭日が発生したようです。
当時はローマ帝国の時代ですが、帝都ローマでは、当時興隆をきわめたミトラス教(太陽神崇拝、Cultum Mithrae)がユリウス歴で冬至とされた12月25日を、その太陽神の誕生日として祝っていたようです。

ただキリスト教会では、ミトラス教で主神とするミスラ(ミスラ(Miθra)ではなく、キリストこそ真の正義の神であるとの立場から、この日を主の降誕の日として祝うようになったようです。

真の正義の神と太陽との象徴関係は、どこにあるのでしょうか。
冒頭に引用した『旧約聖書』の「マラキ書」(Prophetia Malachiae)から、太陽に象徴される「義の神」との経緯があるようです。

ただ、エジプトをはじめとする東方教会は当初1月6日の公現の日を降誕を祝う日として受容していたようですが、それでも4世紀の末子路には、ほぼ全教会で、12月25日を降誕祭として祝うようになったようです。

ローマにおいては、当初12月25日の日中にミサを行っていましたが、5世紀になると、前日の24日の夜に祝うミサが登場し、くだって6世紀になると、25日の早朝のミサが加わったようです。

ちなみに樅の木のツリーが飾られるようになるとは17世紀からの伝統で、ツリーや、リース、柊の葉っぱで装飾するというのは、キリスト教化される以前のヨーロッパの冬至祭での伝統に由来するようです。

以上が簡単な経緯というわけですが、さてその降誕の日ですが、聖書には次の記述があります。

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イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。
    --『マタイによる福音書』2:1-2、前掲書。

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イエスがご降誕されたおり、その誕生の徴を占星術によって予め知っていたのが「東方の三博士」(Sancti Magi)たちなのですが、誕生時に東方より生まれたばかりのイエスのもとを訪問し、彼らはマリアとイエスを見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたと、聖書に記されています。

……ということで、24日の本日。
何故だか市井の職場がお休みです。
今日はなにで祝いましょうかねぇ?

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「そのまま、仰向けに若草の中へうち倒れ」たい

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 翌日……。
 山頂より五十余丁の山道を下り、清滝川をわたって試坂をこえると、そこが愛宕社・一ノ鳥居である。
 この鳥居ぎわに、わら屋根の、いかにも風雅な掛け茶屋があって、名を〔平野や〕という。
 平野やは、享保のころからある古い茶屋だそうな。愛宕詣での人びとが、ここへ来て一休みし、、いよいよ山道をのぼろうというわけで、平蔵も往きには足をやすめている。
 夏になると、保津川や清滝川でとれる鮎をこの平野やまではこび、荷の中の鮎へ水をかえてやり、一息入れてから京へはこぶのだ。
 平蔵と忠吾が、ここまで下って来たときは、まだ昼前であったけれども、
 「腹をこしらえてゆこうか」
 ずいと入るや、
 「おつかれさんでござります」
 赤前かけの女たちが、すぐさま、谷川へ面した腰かけへ案内してくれた。
 すうっと汗がひくほど、山肌の若葉にうもれつくしたかのような茶屋なのである。
 盃をもつ手のゆびまでがみどりに染まってしまいそうであった。
 こころゆくまで嵐気にひたりつつ、おもうさま酒をのみ、鯉を食べ、さらにとうふの田楽、鮎の飴だきとつづく。
 木村忠吾ならずとも、まさに極楽の気分。食事をすませ、平野やを出て、参道を化野へ向かううちにも、
 「めずらしく酔うた……」
 長谷川平蔵の足どりがゆらゆらとゆれはじめた。気もちがよかったので、二人がのんだ酒は相当の量であり、平蔵がこれなのだから、忠吾のほうはたまったものではない。
 「ああ、たまりませぬ。ああ、もう……ご、極楽でございます……こ、こうなるともう、やはり、女より酒でございますな、長官……」
 ふらふらと山間をぬけ、嵯峨野の西端へ出たところで、
 「う、ひゃあ……」
 またも忠吾が大仰な嘆声を発した。
 あたり、いちめんの菜の花であった。
 嵯峨野は春たけなわの午後の陽ざしにぬれ、高らかに雲雀が鳴きわたってゆく。
 春の木々、春の草のにおいの中を泳ぐようにして歩むうち、よろりと、長谷川平蔵が腰を落として、
 「忠吾(うさぎ)、昼寝だ」
 そのまま、仰向けに若草の中へうち倒れた。
    --池波正太郎「兇剣」、『鬼平犯科帳 二』文春文庫、2000年。

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ひさしぶりに「やればできる子」を自覚した宇治家参去です。

先週末のスクーリング試験の答案を採点し、出張旅費関係の書類……これが面倒なんです、領収書と照らし合わせながら書類を作成するという面倒な作業!……を作成して返却し、おまけに、来月の大阪スクーリングの出張計画書までも提出するという荒技をなんとかこなしました。

本来的には学問の仕事で食べていけることができれば、それも本業の一環として処理できるわけですが、いかんせん、それができないので市井の職場もやっておりますので、その合間合間、出勤前・出勤後の時間を利用して、強速的速度にて対応した次第です。

なにゆえなら、出張前に自宅へおくられてきた、

①「未」添削のレポートの山がある
②締め切りの原稿がふたつ残っている
③新しい資料の確認と、論文への落とし込み作業がある

……というのが「未」着手なわけですのし、年内の休みは二日しかない……ということで、まぶたをこすりながら、できるところはなんとか終わらせた次第です。

ひとつのやまを終わらせたわけですが、課題も山積です。
ですけど、ひとつのやまを終わらせたわけですので、起きるとまた仕事なのですが、「おもうさま、酒をのみ、気楽にまどろみたい」わけなのですが、それもなかなかうまくできません。

数時間後に、息子殿が、冬休みということで細君の実家へ戻りますので……細君の御母堂が迎えに来てくださり実家へとサルベージしてくださる訳ですが……そのお見送り?という難事がひかえており、すぐさま起こされそうな気配です。

……ですけど、「気楽にまどろみたい」ほどにはある程度「おもうさま、酒を飲んで」いるというわけですので、生きていること自体=生命に内在する幸福に感謝しなければならないのでしょう。

ですけど「おもうさま、酒を飲んで」いるということは、起床時がきつそうです。

それにそなえて、昼は蕎麦をやりましたが……「富士そば」という「駅そば」=駅側ですが……、なんだか蕎麦をやりますと、東京へ戻ってきたなと思い、しゃんとするのがふしぎなものです。

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「幸福を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだ」

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 この時期のいろいろな経験は、私の考え方や性格に、二つのいちじるしい影響をもたらした。第一にそれは、私に新しい人生理論を採用させるに至った。それはそれまでの私の行動のもとになっていた理論とは非常にちがって、当時はまだ一度も聞いたこともなかったのだが、カーライルの反自我意識説と大いに共通性のある考え方であった。私の、幸福があらゆる行動律の基本原理であり人生の目的であるという信念は微動もしなかったけれども、幸福を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだと、今や私は考えるようになった。自分自身の幸福ではない何かほかの目的に精神を集中する者のみが幸福なのだ、と私は考えた。たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。このように何か他のものを目標としているうちに、副産物的に幸福が得られるのだ。人生のいろいろな楽しみは、それを主要な目的とするのではなく通りすがりにそれを味わうときにはじめて、人生を楽しいものにしてくれる、というのが私の新しい理論だった。一旦それを人生の目的としてしまえば、とたんにそれだけでは物足らない気がしてくる。楽しみなどというものは細かく吟味すれば必ず何かボロが出てくるものだ。自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう。幸福になる唯一の道は、幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。自意識も細かな穿鑿心も自己究明も、すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸福な環境を与えられてさえいるならば、幸福などということをクヨクヨ考えなくとも、想像の中で幸福の先物買いをしたりむやみに問いつめて幸福をとり逃したりせずに、空気を吸いこむごとくいとも自然に幸福を満喫することになるのである。こういう考え方がこのころから私の人生哲学の基礎となった。そして現在でもなお私はこの理論を、感受性も楽しみを享受する能力も普通の程度しか持たないすべての人たち、言いかえれば人類の大多数の人にとっての、最上の理論として堅持しているのである。
 この時期に私の考え方が受けたもう一つの重要な変化は、私がはじめて個人々々の内的教養というものを、人間の幸福にとって第一義的に必要なさまざまなのことがらに加えて正当に重視するようになったことである。外的な状況をととのえるとか、人間を思索とか行動とかのために訓練するとかいうことだけを重要視していたのが、ここでおしまいになったのである。
    --ミル(朱牟田夏雄訳)『ミル自伝』岩波文庫、1960年。

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功利主義の思想家として名高いジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,1806-1873)は、自伝の中で幸福の本質をめぐる議論をしておりますが、そのなかで、「幸福を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだ」と興味深い幸福論を提示しております。

「幸福になりたい」とあがけばあがくほど、実は幸福から遠ざかるのがその実なのかもしれません。

ひとは何かに真剣に取り組み、格闘するなかで、幸福が「おつり」のように付いてくる……これが実体なのでしょう。

宇治家参去は無類の酒好きです。

しかし、「酒を呑みたい」と願えば願うほど、「幸福」から遠ざかってしまうというものです。そしてその逆に、莫逆の友と語りながら、「酒」自体を目的とせず、飲めば飲むほど、「幸福」が近づいている……これが人生の実相かもしれません。

……ということで、先週の土曜日、名古屋出張のおり、忘年会に参加してきました。

名古屋で忘年会?というわけですが、忘年会です。

中部・関西・東海の莫逆の友たちと楽しいひとときを過ごすことができ、ありがとうございましたっ!

最初に訪問したのは、

「菓酒房 じらふ」。
愛知県名古屋市中区丸の内1-14-31 名エンビル1F

名古屋市中区の丸の内にある逸店です。

多国籍創作料理が中心ですが、若者向けにちょいと洒落た感じなのですが、料理を丁寧につくっている……そのあたりを唸らされた最高のステージで、乾杯させて頂きました。

初日の授業が済んでから、一旦ホテルへ戻り、汗を流してから、歩いて向かいましたが、外気の肌寒い名古屋の夜でした。

ですけど……、

ちょいと集合時間に遅れて会場へ到着しますと、莫逆の友たちの熱気と覇気に圧倒されて、冷え切った躰と心が温まるものですから不思議なものです。

先に言及したとおり、肉と魚、そして野菜を丁寧に調理した季節の料理に舌鼓をうちつつ、黄金の思い出を刻ませて頂きました。

参加された皆様ありがとうございましたっ!

その日は別に「幸福になろう」「酒を楽しもう」と思って参加したわけではございません。

しかし、結果として見てみれば「幸福」を体感し、「酒」を味わうことができたわけですので……、ミルの謂っていることは正しいのかも知れません。

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「ひるまずに、あらゆる勇気を ふるい起こす」

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 「恐れるな」
 「安心するがよい。
 私たちは だいぶ先まできたのだ、
 ひるまずに、
 あらゆる勇気を ふるい起こすのだ」
    --ダンテ(野上素一訳)『神曲物語』社会思想社、2000年。

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週末の名古屋出張から日曜に帰京しましたが、やはり東京にもどると東京駅構内の「うず潮」へ吸い寄せられてしまい、軽く2-3皿ほどお寿司を頂戴し、生ビールと冷酒(浦霞・本醸造)で、江戸前に味わいに無事東京に戻ったことを実感する宇治家参去です。

とりあえず、洗濯ものだけ分別し、事務的な作業だけちょいとやりましたが、思った以上に疲れたようで--よる年並みにはかなわないのか、それとも、単純な体力不足なのか判然とはしませんが--、メールの処理だけすると、座ったまま寝ていたようで、それから改めて布団へ潜り込んだ次第です。

ぐっすりと眠ったはずなのですが、それでもなんとなく体が重いとでもいえばいいのでしょうか。鉛を体中に巻きつけたような倦怠感はとれず、昔ならこんなことはなかったのに思うわけですが、それでも木曜までは休みがありませんので、ちょいと調整しながら、がんばっていこうかと思います。

ダンテ(Dante Alighieri,1265-1321)のおっしゃるとおり、体は重くても「ひるまずに、あらゆる勇気を ふるい起こす」ことができれば、乗り越えていけそうです。

さて、東京は本日快晴。
快晴ということで、結構肌寒い一日です。ですが、滞在した名古屋よりは若干暖かいぐらいでしょうか。

目を覚ます鮮烈な冬の空気がかえってここちよいぐらいです。

これから年内最後の授業です。

「ちょいと」と言わず、「がっつり」頑張ってきますかね!
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Book 神曲物語 (教養ワイドコレクション (022))

著者:ダンテ,野上 素一
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さらば名古屋

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周知のように、アリストテレスは、善の問題に関してソクラテスやプラトンの<主知主義>を制限することによって、形而上学から独立した倫理学の創始者となった。アリストテレスはプラトンの善の理念を空虚な一般論であると批判することによって、人間の善、人間の行為にとっての善の問題をこれに対置した。この批判を押し進めることによって、ソクラテスおよびプラトンの徳論の根底をなす、徳と知の等置、<アレテー>と<ロゴス>の等置は行き過ぎであることが照明される。アリストテレスはこの行き過ぎを適度なものに戻すために、オレクシス(orexis)、すなわち<欲求>を、それから、それが永続的な態度(hexis)へと形を与えられたものを、人間の道徳知の基盤として示した。倫理学<Ethik>の概念には、すでにその名称において、アリストテレスが徳(Arete)の基礎を訓練と<習慣Ethos>においたことが反映されている。
 倫理的行為は単に人間にそなわっている能力や力の現れではなく、人間は、なにをどう行為するかによってはじめて、そのように成ったものとして、すなわち、そのように存在しつつ一定の仕方で振る舞う人間となる。この点で、人間の倫理的行為は本質的に自然と異なっている。この意味では、アリストテレスは<エートス>を<ピュシス>に対置した。エートスの領域には無規則が支配しているわけではないが、自然がもつ法則性ではなく、人間の取り決めや行動様式の可変性と限界的な規則性がある。
 いまや問われるべきは、人間の倫理的なあり方についての理論的知識がどのようにして可能か、また、知(すなわち<ロゴス>)は人間の倫理的なあり方にとってどのような役割を果たすのか、である。人間にとっての善はいつでも、そのひとがいる具体的な実践的状況で生じるからには、道徳知がなすべきは、まさに、具体的な状況から、いあば、なにが求められているかを見てとることである。別の言い方をすれば、行為者は、具体的な状況を、一般に自分が求められているこちに照らして見なければならないのである。しかし、このことは、裏返して言えば、具体的状況に適用できない知は愛して無意味なままであり、それどころか、状況から生じる具体的な要求を見えにくくするおそれがある、ということでえある。倫理的思慮の本質を言い表しているこうした事態は、哲学的倫理学を方法的な困難な問題にしているばかりか、同時に、方法の問題に道徳的な重要性を与えている。プラトンのイデア論に枠づけられた善論に対抗して、アリストテレスが強調したのは、倫理的な問題においては数学者が達成するような高度の厳密性は問えないということであった。そのような厳密性の要求は、むしろ場違いであろう。まずもって重要なのは、事柄の輪郭を明瞭にして、ついで、そのように輪郭を描くことで、倫理的意識〔行為者〕になんらかの手助けをすることである。しかし、どのようにすればそのような手助けができるのかは、すでに道徳の問題である。というのは、明らかに、倫理現象の本質特徴のなかには、行為者自身が知り決断しなければならず、この義務を他のなにものによっても肩代わりさせることができない、ということが含まれているからである。したがって、哲学的倫理学に正しく着手するために決定的なことは、この学問は倫理的意識にとって代わることがないばかりか、純粋に理論的で<歴史的な>知識を求めることではなく、現象の輪郭を明瞭にすることによって、倫理的意志が自分自身を明確に捉える手助けをするものだ、ということである。このことは、手助けを受け取ることになるひと、つまりアリストテレスの講義の聴講者に、すでにかなりの前提を求めていることになる。受講者は、与えられた教示から、それが教えることができ、また教えることが許される以上のことを望まない程度に、人生に成熟していなければならない。これを積極的に言うと、自らすでに訓練と教育によって、ひとつの態度をそなえもっており、生活のさまざまな具体的な状況においてその態度を堅持し、また正しい振る舞いを通じてその態度の真価を照明することにたえず関心を寄せていなければならない、ということになる。
    --ハンス=ゲオルグ・ガダマー(轡田收・巻田悦郎訳)『真理と方法 II』法政大学出版局、2008年。

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無事に名古屋での仕事……大学通信教育部の地方スクーリング(対面授業)が終了です。
19時発ののぞみで東京に向かっております。

受講者のみなさま、シャイでナイーヴなチキンボーイの授業を熱心に聞いてくださりありがとうございました。

自分で言うのもナニですが、本年愁眉を飾る大成功の2日間だったかと思います。
これもひとえに学生のみなさまのおかげかと存じます。

授業が終了してから、新幹線まで1時間ほど時間がありましたので、名古屋駅にて、いっぺえやってきた次第です。

基本的に味が濃ゆい……というのが印象です。

名古屋おでんには驚きました!

しかし、濃ゆいのは、味だけでなく、すべてが濃ゆいということでしょうか。

自分の中にもひとつの黄金の歴史が刻まれたようです。

さらば、名古屋!

また訪問したい地域が増えた宇治家参去です。

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そこは〔雪国〕であった

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 「それは……
 文筆家・嶋村が、再び〔湯沢温泉〕を訪れるための汽車の旅であったが、〔国境〕の長いトンネルを抜けると、
 (あっという間に……)
 そこは〔雪国〕であった。」
 と……
 いうわけだ。(つい、やってしまった)
 池波さんの文章は、どこで、たまたま、どんな切れはしを目にしてもそれとわかる。著者名が欠け落ちていたところで、まるで、〔池波正太郎〕という大きなハンコが、ひとつひとつの文章にべタリとおしてあるように、一目瞭然である。
    --中島梓「解説」、池波正太郎『鬼平犯科帳 (七) 』文春文庫、2000年。

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7時過ぎに起きて、ホテルの10Fの窓から外を見やると……
そこは〔雪国〕でした。

東京より位置的には南に位置するハズの愛知県・名古屋市ですが、どうやら雪模様。
本冬の初雪でしょうか。

ちょいと寒いし、傘もありませんが、本日より二日間授業です。

ちょいとがんばってきます。
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「『すべての人』が真に『すべての人』ではないこと」を実感しつつ……名古屋到着!

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今日の特徴は、凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところにあるのである。つまり北米合衆国でいわれているように、他人と違うということ即ふしだらなことであるという風潮である。大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされているのである。ところが、この「すべての人」が真に「すべての人」ではないことは明らかである。かつてや「すべての人」といった場合、大衆とその大衆から分離した少数者からなる複合的統一体を指すのが普通であった。しかし今日では、すべての人とは、ただ大衆を意味するにすぎないのである。
 以上が、現代の恐るべき事実であり、そのいつわりない残酷な実相なのである。
    --オルテガ・イ・ガゼット(神吉敬三訳)『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、1995年。

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17時前の新幹線にて出発し、無事に名古屋に到着です。

新幹線にのるとどうも、居酒屋新幹線と化してしまうといいますか、ビールを飲んでしまうのが不思議なところです。

節約!節約!ということで、キヨスクでビールは買わずに、事前に準備して置いたヱビスをゆっくりとやりつつ、名古屋へ向かったわけですが、N700系の新幹線は全席禁煙です。ですから喫煙ルームの車輌を予約したわけですが、同じ車輌に「や」のつく自由業の方とご同道しましたので、ちょいとひやりとしつつ……お恥ずかしい話ですが、小金持ちのように見える所為でしょうか、よく絡まれるんです……、喫煙ルームで同席したりと、した次第です。

ただ、驚いたのは、携帯電話での通話をするときは、「や」のつく自由業の方も、きちんとデッキで通話されてい、人間とは対象化された立場がすべてを物語っているわけではない……という点を再確認すると同時に、サラリーマンのお兄ちゃんは座席で平気で携帯電話でのお話をされている……という情況でして……ちょゐとなんだかなと思いつつ、ホセ・オルテガ・イ・ガセト(José Ortega y Gasset,1883-1955)の文明批評をひもときつつ、名古屋に到着した次第です。

東京-新大阪間で利用するのは京都ぐらいでしたが、やっぱり名古屋は近いですね。

……というわけで、これからちょいと正座してから、美食巡りへと旅立ってきます。
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大衆の反逆 (ちくま学芸文庫) Book 大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

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「配慮の欠如的様態として、用具的存在者の『もはやただ存在するだけ』という客体性を発見」するために……

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……さて、配慮的交渉は、そのつどすでに手もとに存在しているものの範囲内で使用不可能なものに出会うだけではなく、不在のもの--ただ「手ごろでない」だけでなく、そもそも「手もとにない」もの--に気がつくこともある。そしてこのような不在の発見も、やはり、用に具わっていないものに気づくことであるから、用具的存在者をある意味でたんなる客体的存在において発見することになる。手もとにないものに気がつくと、手もとにあるものの方は、催促がましさの様相を帯びてくる。手もとにないものが緊急に必要になり、それが本当にその不在性において現れてくればくるほど、手もとにあるものの方はそれだけ催促がましくなり、そのためについに用具性という性格を失いそうになる。すなわち、それは不在の道具がなくてはどうにもならないもの、もはやただ客体的にしか存在しなくなったもの、という姿で現れてくる。途方に暮れてその前に立ちつくすことは、配慮の欠如的様態として、用具的存在者の「もはやただ存在するだけ」という客体性を発見するのである。
    --マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』ちくま学芸文庫、1994年。

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金曜の夕方には東京を出発して名古屋へ向かわなければならないにもかかわらず、まったく準備のできていない宇治家参去です。

だいたい用意すべきものは、着替えと道具だけなのですが……、

どのスーツで、どのネクタイでいくのか、マア、ひとつ迷うわけですし、手元に出張用ノートPCが都合2台あるのですが、きちんとしたVistaのサブノートPCでいくのか、それとも、ある程度機能を殺ぎ落とした軽快なXPのミニノートでいくのか、迷ってしまいます。

衣類の方は、コーディネイトがなんとなくおわりましたので、スーツケースにいれるだけですが、PCがなかなか決まりません。

前者でいけば、たいていのことはできるといいますか、済ませることが可能かつ、バッテリーのもちがよいが利点ですが、Vistaですので、立ち上がりに時間がかかり、ややもっさり感が弱点です。後者でいけば、xpの軽快さを利用して、さくさくと作業ができますが、PCに負荷のかかるような重い作業を平行してできることはできないのと意外にバッテリーの持ちが悪いというのが難点です。

さあ、どうしましょう……という状況です。
ただいずれにしましても、これを準備しないことには、睡眠体制に入れませんので、どこかで踏ん切りをつけるほかあるまい、という心境です。

いずれにしましても、最低限の荷物+何かが起こったとき?のフォロー体制でいきたいのですが、一番問題なのが書物です。

教材はもちろん持参しますが、関連文献をどこまで持参するのかが最大の難点です。

いちおう、関連しそうなところはコピーをとってあるので、それだけを持参するというのが一番軽くて済む……書物の最大の問題は結構かさばる点と意外なほど重量をもってしまうことでしょう……わけですが、なにやら不安をやはり感じてしまいます。

そこが宇治家参去の貧乏性といえば貧乏性になるのですが、「すべて頭の中に入っているゼ、書物を持参するまでもない」と言い切れない点がやはり、知性二流のなせるわざですので、ちょいと持っていかざるを得ないかなア~と悩むわけですが、ここは新しい試みとして、今回はコピーだけで済ませてしまうか!とも思います。

何ゆえなら、仕事で必要な書物以外に、当然、新幹線などの車中で読む本というのも別に持参するわけですので、これが荷物を最大化させてしまう要因なので、ちょいと書物のスリム化という新しい試みで?名古屋へ上陸と洒落込もうかと思います。

ただ、いずれにしましても、おそらく、無ければないで「『手もとにない』もの--に気がつくこと」で当惑することは必須でしょうし、PCの問題も「手もとにないものに気がつくと、手もとにあるものの方は、催促がましさの様相を帯びてくる」などと悩むことでしょう。

しかしながら、そのことにより、すなわち「途方に暮れてその前に立ちつくすこと」ことを体験するわけですから、「配慮の欠如的様態として、用具的存在者の「もはやただ存在するだけ」という客体性」を発見することができるのかもしれません。

ということで、軽快でないほうのPCで、資料は教材以外はコピーのみにて挑戦です。

ただ、家人は、ぎりぎりまで準備が完了しない宇治家参去を揶揄して「もたもたまん」とか「ぎりぎりまん」とか「ぐずぐずまん」と読んでくださりますが、それは正鵠を得ていないことは間違いないと思います。

なぜ、「もたもた」「ぎりぎり」まで「ぐずぐず」するのか。

それは、思慮深いからそうなるわけなのです。

……というわけで、いっぺえ、やってから沈没いたします。

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存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) Book 存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

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存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫) Book 存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)

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ハイデガー入門 (ちくま新書) Book ハイデガー入門 (ちくま新書)

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【ご案内】12/19-20:地方スクーリング,L3期中部(名古屋) 『倫理学』

01_img_0267 【ご案内】12/19-20:地方スクーリング,L3期中部(名古屋) 『倫理学』

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 しかし、学問はイメージとはちがいます。「倫理学」は「倫理とはなにか」を根本的に問い直す学問です。おそらく本書を読み進まれるうちに、既成のイメージとは違ったなにかを発見されるのではないでしょうか。倫理という言葉は、もともと「人間のありかた」という意味の言葉です。つまり、この世界のすべての事象を、人間のありかたとしてとらえてみようという観点に立ちます。私たちにもっとも身近な学問としての人間が、それが倫理学だということができます。
 そして大切なことは、この身近なものごとのうちに価値を見いだし、さらに価値を創造していくということです。それは同時に、私たちの生や生活を充実させていくということにほかなりません。本書の副題が「価値創造の人間学」となっているのは、そうした理由からです。
    --石神豊『倫理学 価値創造の人間学』創価大学通信教育部、平成15年。

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賞罰告知といいますか、定型文といいますか、毎度同じ呼びかけで恐縮ですが、例の如く、アカデミズム底辺の荒涼たる裾野をさまよう宇治家参去で御座います。

表題のとおり、今週末より、名古屋で開催される大学・通信教育部の地方スクーリングにて「倫理学」を講じてきます。

受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

できれば……序論だけでも結構です。必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

是非、宜しくどうぞお願いします。

本年……年度ではなく……最後のスクーリングです。
当方もチト力をいれて参りますので、是非よろしくおねがいします。

今回は予定者19名と聞いております。
宇治家ゼミといってもよいちょうどよい、人数だと思います。少なくもなく、多すぎもせず、顔と顔を会わせつつ、真面目に議論できそうな人数だと思います。

ですので、お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースです。

こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

授業中には寝ることもできない……わけですよ、はい。
眠ることもできないほど最高のフルコースを提供しますので。
このフルコースは、銀座のマキシムでも味わうことのできない、絶品料理?であることは間違いなず……ハズ。

で……。

ここからが重要(?)

今回の逗留は名古屋です。

実は、お恥ずかしながら、名古屋で宿泊するといいますか、探訪するのは初めてです。学生時代に名古屋大学に要があって、2時間ほど滞在したことがあるのみです。

近くて?遠い?名古屋への初上陸となります。

何を食べて帰ればよろしいのでしょうか……?

是非、ご教授いただければと思います。
※念のために宿泊先の250m圏内で、「十四代」と「醸し人九平次」を出すことのできるお店は発見しましたが……。

しかし、なぜそのようなことを聞くのでしょうか。

「この身近なものごとのうちに価値を見いだし、さらに価値を創造していくということです。それは同時に、私たちの生や生活を充実させていくということ」にほかならない学問こそ倫理学だからです。

ちなみに……
身近なものに注目すると面白いものでございます。
サントリーの「天然水」。
東京では、「南アルプスの」天然水
熊本では、天然水「阿蘇」
そして四国では、天然水「奥大山」
沖縄では、「阿蘇」だろうな~と思っていると、そうした通念は破壊されてしまいました。東京と同じく「南アルプスの」天然水でございます。
も、ひとつおまけをいれるなら、札幌も「南アルプスの」天然水でございます。

さて……

名古屋の「サントリーの天然水」はどこの「天然水」でしょうかねぇぇ。

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【覚え書】「社説:小沢幹事長発言と政治家の宗教感覚」、『中外日報』2009年12月3日(金)付。

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専門紙・業界紙のたぐいを購読するほど裕福ではありませんので、、だいたい図書館でまとめて半月か1ヶ月分ぐらいをまとめて読むようにしております。

英語とフランス語の程度が落ちないように、New York TimesとLe monde のウィークリー・レビューは辛うじて定期購読しておりますが、これも辞めろと細君がウルサイのですが、今その攻防戦の最中という訳です。

で……。

話がずれ込みました……。

一応、専門の学問が宗教、就中、キリスト教を対象とする学問ですので、各国の高級紙以外にも、その手の専門紙をまとめて読んでおります。そのことで、その最新の動向を掴むわけですが、はばひろく宗教に関する専門紙といえば、本朝ではやはり『中外日報』でしょう。

おそくなりましたが、大事な記事を昨日読んだ次第で、正鵠を得ているだろう……とのことので、ひとつ覚え書として残しておきます。

ポストモダンの知的状況においては、客観性……ないしは公共性……を追求しようとしている“まともなひと”は誰か?と誰何した場合、そのひとつに、宗教者を数えることができる訳ですが……もちろんそれは歴史的反省を含めですけど……、その歩みを逆行させるとでもいえばいいでしょうか……。

本来、公共性とか客観性とか、より精確にいえば、知的誠実さがだれよりも求められるべきひとが、それを抛擲してしまうという浅はかさに、、、、涙がちょちょぎれる次第です。

「おばか」であることを自称する必要はないのですが、……たぶん、「根本的な宗教哲学と人生観」などどこにもないのでしょうが……ねぇぇぇ。

ただこのことは御仁ひとりに還元されて然るべき問題ではなく、本朝を多う宗教性に対する感覚の問題でもあるわけですので……、軽薄さと誠実さの欠如を嗤うだけではスマされないところに大きな問題もあるわけですが……ねぇぇぇ。

……ということで、日本酒を控えるために、本日はケンタッキー・バーボン・ウィスキーで締めようかと思いますが、あいにくウィスキーグラスが見あたらず……。

適当な大きさの有田焼の器でお茶を濁します。

ん~~、この「お茶を濁す」というエートスが実は本朝の抱える大問題かもしれません。

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民主党の小沢一郎幹事長が十一月十日、高野山金剛峯寺で松長有慶座主と会談した後、自らの宗教観を述べたが、これが報道されると、いささかの反響を呼んだ。キリスト教を批判するような見解が含まれていたからである。
すなわち、キリスト教は「排他的で独善的な宗教」であると表現し、さらにこうしたキリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっているという趣旨のものであった。イスラム教についても、キリスト教よりはましだが、やはり排他的と述べたとされる。
その一方で仏教に対しては、「人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と肯定的な見方を示したという。一種のリップサービスとして受け止められる面もあるが、どうもそれだけでもなさそうである。
日本キリスト教連合会は、この発言に対し、早速翌十一日付で抗議文を送って、発言を撤回するように求めた。しかし、小沢氏は、根本的な宗教哲学と人生観が違うということを述べたのであるとして、撤回に応じなかったとされている。
個人的にどのような価値観を持とうと、それは自由である。だが、政権与党の幹事長としての発言となると、予想外の波紋を生むことがあり得る。発言内容が現在のようなグローバル化した社会の中で、適切な宗教観であったかどうかということも疑問だが、何よりも、それが日本の代表的な政治家の言葉として、世界に発信されてしまう影響を考えねばならない。
少しでも現実の宗教の姿について理解しようと努めるなら、キリスト教とか仏教とか、ひとくくりにして宗教を見てゆく態度そのものが、非常に問題が多いと言わざるを得ない。キリスト教は原理主義的傾向が強いものから、非常に緩やかな信仰形態まで、実にさまざまである。仏教も宗派意識がかなり強い宗門もあれば、非常に弱い宗派もある。
一つの宗教を自分の宗教とすることをもって排他的と考えているのだとすると、「日本の常識は世界の非常識」と冗談交じりに言われるような類のことに近くなる。そのことと、人間としての生きざまや心の持ちようを教えてくれることとは別次元の話である。
小沢氏の例に限らず、政治家の宗教観には、時々、首をかしげるようなものがある。個人的な価値観が偏っているという以前に、知識不足が目立つように見えるケースが少なくない。例えば、カトリックとプロテスタントとの区別がなされていなかったりする。イスラム教と聞くとテロしか連想できない、というようなことでは困るのである。
学生などであれば、まだ笑って済ませられることかもしれないが、政治家が乏しい知識のまま発言することは、場合によっては国際問題にまで発展しかねない。
今回のような場合は、仏教関係者は褒められて喜ぶというような筋合いのことでもない。また、抗議する側のキリスト教関係者、あるいはもし不快に思うイスラム教の関係者がいたとすれば、こうした宗教観の浅薄さを指摘し、改善の方法を考えるべきであろう。これからの政治家には、もっと深いレベルの宗教理解が必要とされるのである。
宗教批判も充分調べ、根拠をもってなされるものなら、むしろ歓迎すべきである。しかし、一般的にいえば、選挙の際の集票も意識している恐れがある宗教観の提示などに対しては、宗教関係者は客観的なまなざしを忘れるべきでない。このような発言に便乗したような論が交わされないことが、まずは求められる。
    --「社説:小沢幹事長発言と政治家の宗教感覚」、『中外日報』2009年12月3日(金)付。

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「飾り」が「戦う」ことを邪魔するはずなのですが……。

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 権力者というものは、おのれの暴力行為をつねになにか宗教上の理想、世界観上の理想で飾りたてようとするものである。
    --ツヴァイク(高杉一郎訳)「権力とたたかう良心」、『ツヴァイク全集 第一七巻』みすず書房、1973年。

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ちょうど月曜日に授業で、テロの問題に関して議論することが少々あり、そのことを思い出してオーストリアの作家・評論家・ツヴァイク(Stefan Zweig,1881-1942)を繙く宇治家参去です。

1936年に出版された『権力とたたかう良心』からの一節ですが、作中で描かれるのは宗教改革者として名高い・ジャン・カルヴァン(Jean Calvin,1509-1564)です。ちょうどジュネーヴで神権政治を敷いていたころのカルヴァンの、異端に対する迫害をテーマにした作品ですが、改めて読み直すと非常に示唆に富んだ一冊です。

カルヴィニズムには一種の峻厳な厳格さがつきまといますが、その筋道がちょいとずれはじめると、偏狭さと過激さに陥るのが道理なのですが、ツヴァイクの筆致はその様子を浮かび上がらせるのに鮮やかです。

歴史を振り返ると、宗教が世俗を支配したのがヨーロッパの歴史であり、その逆転が近代へと至る営みです。ヨーロッパに限らず、宗教による世俗の全支配という状況はたいていろくなモノではありません。しかしその全否定がもたらすものもろくなモノでもありません。政治・イデオロギーが「宗教」にとってかわり、「全支配」を目論む構造がその代換物として機能しているだけですから。

精神性を標榜しつつその内実を失った構造への批判が改革だったのですが、世俗化の進展によって、その代換物として出てきたのは、精神性を欠いた怪物によるトータル・コントロールという状況でしょう。しかもそれがなかなか認知できにくい構造として機能しているところが、ポストモダンという雰囲気です。

本来的には、「支配」するという図式ではなく、両者が相互批判を通じながら、第三の道を提示すべきだとは思うのですが、このあたりが人間世界ではなかなか難しいのかもしれません。

さて……。
世紀末から顕著な問題となっている、テロリズムは殆どが宗教に起因するとの触れ込みが多いのですが、これもその内実をとうならば、その消息は触れ込みほど精確なものでもないようです。

何かに名を借りて戦うことほど、ろくなことはありません。
そしてその過程が先鋭化すればするほど、これまたろくなことはありません。

本来、「戦う」のであれば、「飾りたてよう」として「戦う」と、その「飾りたてよう」とする「飾り」が「戦う」ことを邪魔するはずなのですが……。

メディアもネタになるから報道によって「飾りたてよう」とする始末で、ひとびとが真実からどんどん、どんどん遠ざかっているような危惧をどうしても抱く宇治家参去でした。

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 各人の生命を神聖なるものと承認することは凡ゆる道徳の最初の、そして唯一の基礎である。
    --トルストイ(除村吉太郎訳)「神の王国は汝等のうちの在り」、『トルストイ全集 第一七巻』岩波書店、一九三一年。

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トルストイ(Lev Nikorajevich Tolstoj,1828-1910)は、生命を凡ゆる道徳の最初の、そして唯一の基礎におくべきだと主張しましたが、宗教せによ、政治にせよ、生命そのものに視座を本来はおくべきなのでしょうが、生命の当体が「見えない」がゆえに、「見えない」こととしてスルーしてしまうというのが今の状況かも……知れません。

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その後の人生で、彼はひどくいぶかしい思いで、このときのことを思いかえした

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 その後の人生で、彼はひどくいぶかしい思いで、このときのことを思いかえした。イワンと別れたあと、どうして自分は兄のドミートリーのことをまるきり忘れ去っていたのだろうか。その日の朝、わずか数時間前、たとえその日のうちに修道院に戻れなくても、ぜひとも兄のドミートリーを探しだし、それを果たさずには帰るまいと心に決めていたではないか。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年。

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あとになって気が付いてあわてることがよくあります。
とくに予定の組み方を間違えて、「いいですよ」などと軽く受けてしまって首が回らなくなってしまうことがよくあります。

師走も押し迫るところ、あと半月ですが、今週末に名古屋へ出張しますので、市井の職場を3日ほど休むように設定しております。そのため、その前後で出勤を振り替えているのですが、出張前という意味では、本来は火曜日が休みとなっています。

出張後は、大晦日までに2日だけ休むことができるようになっています。

で……。

昨夜、帰宅すると、上司から電話があって、今週の月曜と火曜をチェンジできませんか、との相談にて、別に、火曜休もうが、月曜休もうが、大丈夫だろう。むしろ、月曜は日中、大学で講義をしているので、授業が済んでからそのまま仕事に行かなくて済むぐらいだから、その方が楽かも??

……などと短期的判断を下し、「いいですよ」って二つ返事をしたのですが・・・

失敗でした。

名古屋へは通信教育部のスクーリング講義でいくわけですが、

①そのパワーポイントの最終調整がまだということ。
②スクーリングが済んでその翌日が短大の授業があるのですが、その準備がまだ……といいますか本日の授業を受けて、ペーパーを作り、配布物を用意し、パワーポイントに手をいれるので……という状況。
③今週締め切りの原稿を休みの火曜日にゆっくり考えながら組み立てていこうと想定していたこと。
④そもそも出張の準備がまったくできていないということ。
⑤その他かききれないほど諸々。

要するに、出張の3日間(金曜~日曜)は、市井の職場が休みといえば休みですが、こちらはそのうらで本業があるので、前後の3日間に研究などをぶちこまなければいけないわけなのですが、、、

その前半戦の休みをチェンジしてしまったため、

……いま、悲鳴を上げながらPCと向かっているという状況です。

ただしかし……

ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)にいわせるなら「その後の人生で、彼はひどくいぶかしい思いで、このときのことを思いかえした」ということになるのでしょう。

……ということで、まずは②が終わりそうなので、もうひとつだけやっつけて、寝ることにします。実は昨夜ほとんど寝ておりませんので・・・。

……とわいえ??

1月に『カラマーゾフ研究会?』が立ち上がるので、このところ、電車の中だけと決めて新訳で再読しておりますが、本日、楽しみにしていた「プロとコントラ」篇の「大審問官」をねちねちと読んでおりましたが、圧巻でしたっ!

子供の頃は、大審問官に敵意すら覚えたものですが、このところ……今日は2回ほど繰り返して読んだのですが……、敵意よりもその「思慮」する「態度」に一種憧憬を抱いてしまうほどで・・・。

これも成長しているということでしょうかねえ。

ただ、日程の設定に関してだけいうならば、成長の気配がみえず、がっくし……というところです。

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自己に反しては、生きることそのものとしての生に刻印されている

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 自己に反しては、生きることそのものとしての生に刻印されている。忍耐するがゆえに、老いるがゆえに、生は、生に反した生なのだ。
 反して(malgré)は、意向(gré)、意志、本性、主体のうちで存続するものと対立しているのではない。意向や意志は、外的な力によって阻止されるものだからだ。「他者のために」〔他者の代わりに〕の受動性は、この「他者のために」〔他者の代わりに〕のうちで、ある意味を表出するのだが、この意味のうちには、肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、意味に先立つような意志とのいかなる関わりも介入することがない。以上のことは、苦痛の可能性たる生ける人間の身体性によって生じる。苦痛の可能性とは感受性であり、感受性の本義は痛みを覚えうるという感応性である。覆いを剥がれて露出し、自己を供与し、みずからの皮膚のうちで苦しむ自己、みずからの皮膚さえ自己の所有物として有することなく、みずからの皮膚のうちに痛みを抱えること、--可傷性なのだ。苦痛は、意志が阻止されたことを示す何らかの徴候であるだけではないし、苦痛の意味も付随的なものではない。苦痛の悲痛さ、病い、痛みの毒性、純粋状態においては忍耐そのものであるような身体性、労働と老いの悲哀--これらは逆行性そのものであり、自己の内なる「自己に抗して」である。意志が進んで何かを意欲するにせよ嫌々ながら何かを意欲するにせよ、意志は忍耐を、逆行性を、根源的なものたる無力な倦怠(lassitude)をすでに前提としている。苦しみにおける「自己に反して」を、それに先行する意志に還元してはならない。そうではなく、苦しみの逆行性という用語で、意志を語らなければならない。このように、忍耐固有の受動性--意志的行為と相関的ないかなる受動性よりも受動的な受動性--は、その時間性の「受動的」統合をとおして意味するのだ。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。
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土曜日は息子殿が楽しみにしていた幼稚園の学芸会……正式名称は「たのしいこどもかい」ですが……があり、午前中はその鑑賞で登園しましたが、ビデオカメラの多いことにびつくりです。

細君もご多分に漏れず、ビデオカメラを回しておりましたがその所為か、スティル・ピクチャーの撮影ができませんので、宇治家参去の役割として、カメラ撮影の大任を仰せつけられた次第でしたが・・・。

とりあえず、先週新しく購入したCanonのPowershot S90に大活躍して頂いた次第です。
※なにしろ、コンパクトデジカメなのですが、解放値がf2.0と明るく、絞り優先・シャッタースピード優先、マニュアルにも対応できるので、暗いところで大活躍!!

さて……
状況としては、息子殿の発表を直に鑑賞するというよりも、ほとんどファインダー越しという有様です。

なんといえばいいのでしょうか生存における違和感とでもいえばいいのでしょうか、何らかの言葉になりにくい齟齬、いささかの本末転倒を感じつつ……撮影は無事完了という次第です。

息子殿も、「パパが見に来てくださる!」

というのを楽しみにしておりましたので、シャッターを切りながら、ちょいと手を振ると喜んでくれたのがアリガタイものです。

ただ……その違和感・齟齬・生存の不可解さを、やはりここは哲学者としては、そのもやもやをひとつの言葉へと高め、想念を哲学的思弁によって表現しなければなりません。

ですから、細君に、、、

「写真として“記録”に残すことの歴史的価値を否定するわけではありませんが、リアルタイムで、生の“目”で精神に記録することも大切なのではないでしょうか……ねぇ」

と、ぼやいたところ……

「“生”だろうが、“写真”だろうが、空間を共有している時点で、その記録を絵によって確認したり、動画によって追体験したりする人間よりはアドヴァンテージがあるだろう!」

……と、切り替えされる始末でして・・・

「いや、その、アドヴァンテージの競争が議論の眼目にはあるわけではないのですが……」

「なら、だまって任務遂行しなさい」

……とのことでした。

いろいろな屁理屈をつけて任務を拒否するディスクールをこしらえ、抵抗していく戦略はリスクが高いということは承知でしたが、例の如くでした。

ただ、言語によってどこまでも徹底的に追及していく姿勢は大切なのだろう、そしてそれが言語を媒介しながら、相互理解を深めていく人間世界においては必要不可欠だろう、と自覚する次第ですから、「負ける戦」であっても挑戦を辞めない宇治家参去でした。

なにしろ人間という生き物は「自己に反しては、生きることそのものとしての生に刻印されている」わけですから・・・。

否、むしろ「苦しみの逆行性という用語で、意志を語らなければならない」のでしょうから。

ということで、挑戦を辞めない訳なのですが、生きている現実生活世界に対する違和感だけでなく、別の違和感もあり・・・

起きてから顔にも違和感があり、奇妙な頭痛と微熱に悩まされていたところ……、、、

帰宅してから病院へ行ってみると、

「流行性耳下腺炎」……いわゆる、おたふく風邪になっていたようでした。

潜伏期間3-4週間!

11月中盤に感染した息子殿からのプレゼントのようでした。

顔がバナナマンのようになってしまいました。
※これは息子殿からの揶揄の表現ですが、宇治家参去自身は当の「バナナマン」を知りません。

大人になってなるわけがない……とタカをくくったのがしくじりの元のようです。

子供時代にはかかっていないわけですが……。

週末の名古屋出張までには、治しますワ。

とりあえず、病原菌を、すうぱあどらいにて消毒中です。

死ぬほどの病魔との闘争は経験がほとんどありませんが、いわゆる日常的な病魔?との闘争は日常茶飯事です。

ただしかし、そのことにより感覚が鋭敏になるという意味では、天から不思議なプレゼントなのかもしれません。

なにしろ、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が説くとおり「苦痛の可能性とは感受性であり、感受性の本義は痛みを覚えうるという感応性である」からです。

ということで、おやすみなさい。

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存在の彼方へ (講談社学術文庫) Book 存在の彼方へ (講談社学術文庫)

著者:E. レヴィナス
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better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied

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満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。
    --J・S・ミル(関義彦訳)「功利主義論」、『世界の名著 49 ベンサム、J.S.ミル』中央公論社、1979年。

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夕方から息子殿とふたりっきりという時間を過ごさせて頂き、全くもってして仕事の捗らない宇治家参去です。

午前中に来週返却締め切りのレポートをなんとか済ませると、宅急便が到着。
再来週締め切りのレポートが到着という次第で……、かんたんに仕分けてから、3通ほど添削で休止!
新しいの全てに手を入れてしまうと、pentiumII程度の処理能力しかありませんので、それ以上やってしまうと、添削の水準が下がってしまいますので、休止した次第ですが、それから来週の授業用のパワーポイントに手を入れていると夕刻……という悲しい休日です。

ほげぇぇ……ってしておりますと、幼稚園から帰宅してから英語教室に行って来た息子殿が帰宅ということで・・・、そのまま夕食なのですが、サアこれから、本業の研究に手をいれるゾ!と意気込むと、今度は細君が所用で外出のため、息子殿遊んでいなさいというご命令にて……。

これって結構体力を使うのです。

ただ、そこで気が付いた点がひとつ。

子供は、すぐに満足してしまう……そういう億見がありますが、そうではないということです。たしかに、ひとつの遊び・対象に対してはすぐに満足してしまう・飽きてしまうという側面はあるのですが、大人のように、すべてに対して満足してしまう・飽きてしまう……ということはないようで、今取り組んでいる遊び・課題・対象に満足してしまう・飽きてしまうと、そこから創意工夫し、新しい対象をすぐに発見し、そこにチャレンジしていくという姿です。

おそらくうちの息子殿に限られた事象ではないのかもしれません。

もちろん、一慨にはいえませんけども、短期的な観点からすれば、子供は確かに「満足した豚」になってしまいます。しかし「満足した豚」になると同時にすぐに「不満足な人間」にいち早くチェンジすることが、どうやら可能なようです。

大人はそれに対すると、「満足した豚」になった時点で、眠りに入ります。そして「不満足な人間」として創意工夫することがなかなか難しい……。
※もちろん、言うまでもありませんが、ここでいう子供/大人というのは、生理的な成長経過による区分ではありません。

そんなことを汗をかきつつ感得した次第です。

そうした意味合いで、自分自身も「満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテス」でありたい……ということで、ひさしぶりに功利主義を代表する哲学者・ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill,1806-1873)の著作を、最後の力を絞って?繙いた次第ですが、読み直すと発見が多いことにびっくりです。

「最大多数の最大幸福」のモットーとする功利主義と聞けば、なにやら、条件の整備とか、物量の多寡に論点が傾きがちがですが、まったくそうではないということです。

条件の整備、物量の多寡ももちろん、人間が幸福に暮らしていくためには必要不可欠であるという点は論を待ちませんが、それだけが人間生活世界を左右するものではないという、ミルの信念に啓発された次第です。

なにによっていきていくのか。

ミルの言葉を耳にしますと、条件とかそうしたハードパワーを形而上からささえる人間力の整備を切に訴えているように思えて他なりません。

……ということで、いつもなら、酒(日本酒)をしたたかに飲むと「満足した豚」になってしまう宇治家参去ですが、このところ控えております。

その代わりにウィスキー、ワインあたりでお茶を濁しておりますが、それでも「満足した豚」になる一歩手前の分量で抑えることをこのところの矜持としております。

酒とは不思議なもので「満足」するまで飲んでしまうと「満足」した「以上」の「豚」に誘ってくれるシロモノです。

しかし、満足する「手前」でちょいと辛抱すると、結構素敵な起因としてそれが機能し、一種の心地よさまで提示するアリサマで、この2-3日、素敵な攻防戦を展開しております。

……ということで、今日は品種としては好きな部類にカテゴライズされる「シャルドネ」でいっぺえやっております。あまり高いモノではありませんが、適量をやりますと、なんだか、躰にとってプラスのように機能しているところが不思議です。

……というところ、おわらせるとナニですから、上に引用したミルの原文が手元にありましたので、最後にひとつ紹介しておきましょう。

いやはや、しかしながら、幼稚園児との格闘戦はつかれるったらありゃしません。

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It better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.
    --John Stusrt.Mill,Essays on ethics, religion and society,(Collected works John Stuart Mill,v.10),Univ. of Toronto Press,1969.

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【覚え書】「正しく考へ、善意を持つのみで足りるのだ」、ポウプ(上田勤訳)『人間論』

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 (二) 自然の道に従つて妄想を去るがよい。
 幸福に達し幸福を考へるのに、地位や頭脳を必要としない。
 その恵みは明白で、極端なところにはない。
 正しく考へ、善意を持つのみで足りるのだ。
 天与の多寡を嘆くのは勝手だが、
 尋常の判断力と生活は何人にも平等に享けてゐる。
 思ひだすがよい、「宇宙の原理の働きは、
 部分的な法則によらず、一般的な法則による」ことを。
 我らが正しく幸福と呼ぶものは、
 一人の利益ではなく、全体の利益の中にあるのだ。
 個人の見いだす幸福で、多かれ少なかれ、
 人類全体の方向を持たないものはない。
 凶悪な盗賊、驕慢に狂ふ暴君、
 洞窟にかくれる隠者で、自得の者はいないのだ。
 人間を避け、人間を憎むと称する者も、
 弟子を求め、友を定めようとするではないか。
 他人が感じ、考へるものをとり去るならば、
 快楽はすべて色あせ、名誉の光も消えるであらう。
 人には分がある。分を越えて望む者は、
 快楽が苦痛の半ばも償いはないのを悟るであらう。
 秩序は神の第一法則だ。それを明らかに悟るならば、
 人間に大小、貧富、賢愚のあるのは当然である。
 この事実を捉へて人間の禍福を論ずるならば、
 健全な常識が泣くであらう。
 一切のものがその幸福に於て平等ならば、
 天は人類に公平だと言はなければならない。
 相互の欠乏は、却ってこの幸福を増大し、
 自然の相違は、自然の平和の幸福なのだ。
 身分、境遇は言ふに足りず、
 家来も王も、護衛する者もされる者も、
 友たる者も、友を得て喜ぶ者も、
 幸福はすべてに亘つて同一なのだ。
 天は全体の各個に亘つて
 共通に一つの魂を与へ一つの幸福を贈る。
 運命の恵みを各人が一様に受け、
 各人がすべて平等ならば、争ひは慎むべきではないか。
 幸福がすべての人間に意図されたものならば、
 神が外物に満足を置いたとは考へられない。
 運命の恵みは多様で、
 ある者は幸福と呼ばれ、ある者は不幸と言ふ。
 然し前者が不安の中に、後者が希望の中にあるならば、
 天の正しき秤は均衡を得ていると言はなければならない。
 現在の幸・不幸が喜びであり、呪ひであるのではない、
 将来よくなり、悪くなる、その見透しが重大なのだ。
 あゝ、地上の子らよ、汝らは依然として、
 山の上に山を積み重ねて、空に昇らうとするのか。
 天は常に哄笑して、そのむなしい努力をみ、
 狂人をその積み重ねた山の下に葬り去るのだ。
    --ポウプ(上田勤訳)「書簡四」、『人間論』岩波文庫、1950年。

   Take Nature's path, and mad opinions leave;
All states can reach it, and all heads conceive;
Obvious her goods, in no extreme they dwell;
There needs but thinking right, and meaning well;
And mourn our various portions as we please,
Equal is common sense, and common ease.
   Remember, man, "the Universal Cause
Acts not by partial, but by general laws;"
And makes what happiness we justly call
Subsist not in the good of one, but all.
There's not a blessing individuals find,
But some way leans and hearkens to the kind:
No bandit fierce, no tyrant mad with pride,
No caverned hermit, rests self-satisfied:
Who most to shun or hate mankind pretend,
Seek an admirer, or would fix a friend:
Abstract what others feel, what others think,
All pleasures sicken, and all glories sink:
Each has his share; and who would more obtain,
Shall find, the pleasure pays not half the pain.
   Order is Heaven's first law; and this confest,
Some are, and must be, greater than the rest,
More rich, more wise; but who infers from hence
That such are happier, shocks all common sense.
Heaven to mankind impartial we confess,
If all are equal in their happiness:
But mutual wants this happiness increase;
All Nature's difference keeps all Nature's peace.
Condition, circumstance is not the thing;
Bliss is the same in subject or in king,
In who obtain defence, or who defend,
In him who is, or him who finds a friend:
Heaven breathes through every member of the whole
One common blessing, as one common soul.
But fortune's gifts if each alike possessed,
And each were equal, must not all contest?
If then to all men happiness was meant,
God in externals could not place content.
   Fortune her gifts may variously dispose,
And these be happy called, unhappy those;
But Heaven's just balance equal will appear,
While those are placed in hope, and these in fear:
Nor present good or ill, the joy or curse,
But future views of better or of worse,
   Oh, sons of earth! attempt ye still to rise,
By mountains piled on mountains, to the skies,
Heaven still with laughter the vain toil surveys,
And buries madmen in the heaps they raise.
    --Alexander Pope(Henry Morley,ed.),Essay on Man Moral Essays and Satires,CASSELL & COMPANY,LIMITED:LONDON,1891.

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年末になってくると、人格三流・知性二流の宇治家参去ですら、忙しくなってくるというものですが、ちょいとしみる一節を紹介しておきます。

18世紀イギリスを代表する詩人・アレキサンダー・ポープ(Alexander Pope,1688-1744)の『人間論』(An essay on man)からの一節です。

混沌とした世の中だからこそ、大地に足をしっかりとおろし、風に左右されない賢明な生活者の知恵ほど正しいものはないのかもしれません。

「正しく考へ、善意を持つのみで足りるのだ。」

他者への還元・同化することを一切拒み続ける一個の存在の幸福と、全人類の幸福の一致。これは分断されたものでも、どちらかが優先されるべきものでもないのかもしれません。
その獲得を目指す漸進的なとりくみのなかに、恩寵としてでてくるものなのかもしれません。

なにか大切なものをポープに少しだけ教えてもらったような気がします。
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智に働けば角が立つ、情に棹させば流される

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 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
    --夏目漱石『草枕』岩波文庫、1990年。

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細君に怒られてしまいました。

もうすぐクリスマスですので、息子殿へのプレゼントをネットオークションのウオッチリストに入れておくから、入札しておいてくれとの要件があったのですが、いくつかいれており、どれが該当するものか指示出しがありませんでしたので、

そのまま放置しておいたのですが、あっさりとほかの人が落札してしまい、、、

激怒っているようです。

それなら自分で入札しろや!

……本人自体、そうした操作はできますので、自分でやっておいてよ!とは思うのが「道理」なのですが、漱石・夏目金之助(1867-1916)のいうとおり「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」わけですので、理論的格闘をする気にもならず、経緯を説明するのもよして、「忘れていた、ご免」と謝り、また同じような商品を探しているところです。

ときどき、こうしたところにイラッってくることが多いのが人間世界の実情です。

が、その世界を離れて「越す国はあるまい」し、イラッちさせてくれるのもただの人ですし、イラッちなってしまうのもただの人ですから、自分自身もただの人であることを忘れずに、うまく世を渡っていくしかありません。

なにしろ、じぶんも、うえのような消息でイラッってさせたときは、相手の過失に対して文章化してつきつけることがあるのですが、それもそうとうイラッとさせてしまうのだろうとちょいと反省しつつ……。

どれを入札したらいいのか指示をだしていないにもかかわらず、噛み付いてくることにも納得はいかないのですが……、それならそれで、最初に要件をいわれたときに確認しておけば、こうした思索の展開にはならなかったのだろうということだけは否定できず・・・。

とりあえず、昨日(12/9)は漱石の命日です。
懇ろに供養申し上げた次第です。

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「ばかなことを言ってしまいました、でも……」

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 「だいじょうぶ。ぼくも苦しみたいんです」アリョーシャはそうつぶやいた。
 「じゃあ、もうひとつ、最後にもうひとつだけネタを紹介してやろう。たんに好奇心でしゃべるだけだが、これがじつにうってつけのネタなのさ。『古文書』だったか、いや、『古代史』かな、そこんところは調べなくちゃならないし、どこで読んだかも忘れてしまったが、要するに古い文書をあつめた本でつい最近読んだんだよ。まだ今世紀初めの、陰惨きわまる農奴制時代の話だ。こうなるともう、農奴を解放したアレクサンドル二世、バンザーイだな!
 で、当時、つまり今世紀のはじめ、一人の将軍がいた。いくつも有力な縁故をもち、たいそう金持ちの地主だったが、職をしりぞき引退生活に入っても、それまでの功績から領民たちの生死の権利はすべて自分があずかったと信じこんでしまう地主の一人(たしかに、すでに当時は非常に少なかったようだがね)だった。そういう地主がその当時もいるにはいたんだ。
 ところでその将軍というのが、領地に二千人の農奴をかかえて暮らし、近隣の地主どもを居候かお抱えの道化ぐらいに見くだし、いばりくさっていた。犬舎には数百匹の犬がいて、百人近い犬番がついているんだが、連中はみな、軍服姿で馬にまたがっているのさ。ところがそこの下男の息子で、まだ八歳にしかならない幼い男の子が、あるとき石投げの遊びをしているときに、将軍お気に入りの猟犬の足にケガをさせてしまった。『どうしてわしの愛犬が足をひきずっている?』じつは、ここにいるこの子が犬に石をなげ、足にケガを負わせたとのことですという報告がなされる。『ほほう、きみがやったのか』将軍は子どもをじろりとにらみ、『こいつをひっ捕らえろ!』と命じる。
 こうして男の子は捕らえられた。母親の手から奪われて、ひと晩じゅう仕置き部屋に押し込められた。まだ夜が明けそめる前から、将軍は狩猟用の晴れやかな衣装をまとっておでましになり、馬にまたがった。そのまわりには、居候や、犬や、犬番や、勢子が勢ぞろいし、やはり馬に乗って待機している。その周囲には、召使いどもが見せしめのためにあつめられ、彼らのいちばん前に罪をおかした少年の母親がいる。
 仕置き小屋から子どもが連れ出されてくる。陰鬱で、寒い霧がかかった秋の一日で、狩猟にはもってこいだ。で、将軍は子どもの服をぬがせるように命じる。子どもは服を脱がされ、すっぱだかになる。子どもは震え、恐ろしさのせいで正気を失い、うんともすんとも言えないありさまだ……『追え!』将軍が命令する。『走れ、走れ!』犬番が叫び、子どもは走りだす……『かかれっ!』将軍が絶叫し、ボルゾイ犬の群を、子どもにむかって残らず解き放った。母親の見ている前で子どもをけしかけ、犬どもは、子どもをずたずたに食いちぎってしまう!……で、この将軍、その後はどうやら禁治産者扱いになったとはいうんだが、さあどうだ……こいつをどうすればいい? 銃殺にすべきか? 道義心を満足させるために銃殺にすべきか? 言ってみろ、アリョーシャ!」
 「銃殺にすべきです!」青白い、ゆがんだ笑みを浮かべて、兄を見上げながら、アリョーシャが低い声でつぶやいた。
 「やったぜ!」イワンは有頂天になって叫んだ。「おまえがそう言ったってことは、つまり……やれやれ、たいした苦行僧だよ! ってことは、おまえの心のなかにも悪魔のヒヨコがひそんでいるってわけだ、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」
 「ばかなことを言ってしまいました、でも……」
 「それそれ、その、でも、が問題なんだ」とイワンが叫んだ。「いいか、見習い僧、この世には、そのばかなことがあまりに必要なのさ。世界はこのばかなことのうえに立っているし、もしもこのばかなことがなかったら、世界にはきっと何も起こらないかもしれないんだ。おれたちが知っていることなんて、たかが知れているんだよ!」
 「じゃ、何を知っているんです!」
 「おれは何も知らない」イワンは、まるで熱に浮かされたように、話し続けた。
 「おれはいま、何もわかりたくないんだ。おれはただ事実ってものに寄り添っていたいんだ。だいぶまえに、おれは、理解しないって決めたんだよ。もしなにかを理解しようと思ったら、とたんに事実を裏切ることになるからな、事実に寄り添っていることに決めたのさ……」
 「兄さんはどうしてぼくを試したりするんです?」アリョーシャは興奮した面持ちで悲しげに叫んだ。「ちゃんと答えてくれますよね?」
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年。

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月曜に短大で授業を終えましたが、半期15回の講座のうち、とうとう12回目まで終了してしまいました。のこるところあと3回。果たして、何を講義することができるのか、いつも悩むところです。

フレームとしての内容はできあがっておりますし、シラバス通り進行しますので、問題がないといえば、ないのですが、1回1回の授業を終えるたびに、「果たして自分は何を知っているのか」そして「果たして自分は何を話すことができたのか」と酷い頭痛に悩まされます。

手応えなんかもしっかりあるんです。

悪い授業はやっていないということ。

しかしながら、それと同時に「おれは何も知らない」ということも否定しがたく、その相剋に引き裂かれそうになってしまうのが実情です。

哲学、倫理学になりますから、イワンがアリョーシャにそうしたように、思考実験として試すこともしばしばです。

しかし、ほんとうに試されているのは、自分自身なのかもしれません。

往路・復路の電車のなかで『カラマーゾフの兄弟』を再読していたのが悪かったかもしれません。

なにやら、そのような焦燥と自己嫌悪のスパイラルに陥ってしまう……今日このごろです。

考えないで仕事としてやっていくことはもちろん可能ですし、そういう人の方が多いでしょう。しかし、それがなかなかできません。だからこそ、家業という意味での仕事して成立していないのかもしれません。

……などとぼんやりと考えていても始まりませんので、ちょいとたまったレポート添削をこれから少し挑戦してみようかと思います。

しかし……十二月になりますと、やはり激しく寒さが増してくるものですが、日中は比較的陽光のおかげでまだまだ過ごしやすいものです。

出講時、昼食に冬季限定メニューの「けんちんうどん」を頂戴しましたが、底冷えのする澄み切ったテラスでこいつを頂くと、躰の真のそこから暖まるという具合です。

この暖まる実感と同時に怯懦の念も出てくるのが人間なのですが、マア、実に摩訶不思議な存在であることだけはどうも否定することができません。

摩訶不思議なるものを摩訶不思議なるものとして受け入れることができるようになりたいものです。

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カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫) Book カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

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恥の上塗りでは済まないはずなのですが……

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国会:小沢氏、キリスト教発言の申し入れに説明
 キリスト教を「排他的」などと批評した民主党の小沢一郎幹事長の発言を巡り、教会などでつくる「キリスト教協議会」(輿石勇議長)の飯島信総幹事が7日、党本部を訪ね、小沢氏の真意を問う申し入れ書を手渡した。

 申し入れ後、小沢氏は記者会見で「キリスト教は唯一の神で、一神教。仏教はいっぱい神様があり、各自の家に仏様があるという違いがある」などと説明した。

毎日新聞 2009年12月8日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091208ddm005010159000c.html

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恥の上塗りとでも言えばいいのでしょうか……。
無知の涙とでも言えばいいのでしょうか…… 。

「キリスト教は唯一の神で、一神教。仏教はいっぱい神様があり、各自の家に仏様があるという違いがある」

確かに分かりやすい説明なのですが、決して正しい説明なわけでもなく……。

現代神学および宗教学の世界では、キリスト教の神を「一神教」とカテゴライズするにはもはや抵抗がある状況なのですが、そのへんの細かいところはスルーするとして、つぎのくだりでしょうか……。

「仏教はいっぱい神様があり、各自の家に仏様があるという違いがある」

……というくだりは、さすがに絶句する宇治家参去です。

これはどの仏教を指して表現しているのかまずもって理解できないのですが、はばひろく小沢大先生お住まいたる日本という国土世間の公認教として限定するならば日本仏教という名の中国経由の大乗仏教ということになるのでしょう。

で、、、その仏教においてはたしかに「いっぱい」「神様」が登場します。
しかしその「神様」と「響き」をなす対象は、日本的精神風土における「神様」なる言葉が象徴する対象とは、完全にかさならないのも事実ですから、ここでは、どちらかといえば、「仏教ではいっぱい仏があり」と表現した方が精確なのでは……と思いつつ、、、ついでに言えば、仏教における神の扱いは、人間と同じ「有情」という存在のバリエーションのひとつという位置付けにすぎず、厳密には神々は帰依の対象とはなりませんですから、なんだかナと唸ってしまった次第です。

一応、近代国家成立以後、進捗した神仏分離という文化事情を消息するならば、もっとそのへんの言葉は正確に使うべきなのでしょうが……。

ついでに後半部部ですが、つまり、「各自の家に仏様がある」。
「各自の家に仏様がある」というのはたしかにそうなのですけども、この語感はどちらかといえば、先祖崇拝の位牌文化としての「ホトケ」のことを物語っているのでしょう。死者を「カミ」として遠ざけ、対象化する文化との融合の過程で死者を「ホトケ」と称するわけですが、その事情を察するならばカタカナで使うべきでしょう・・・と思いつつ、このへんは記者の文責なのでしょうが……。

ともあれ、問題山積の・・・知的レベルを疑いたくなるような発言が続きますので、

恥の上塗りとでも言えばいいのでしょうか……。
無知の涙とでも言えばいいのでしょうか…… 。

これが、無知をもって任ずることのできる匿名ピープルであれば問題はないのでしょうが、大任をもった公人の発言であるゆえに、なおさら、涙すら出てこない、溜息しか出てこない、底の低さをみてしまい茫然自失する宇治家参去です。

ついでにもうひとつ。

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「ローマ法王の言う通り」プロテスタント団体の抗議に小沢氏
2009.12.7 19:56
 プロテスタント系団体の日本キリスト教協議会(輿石勇議長)は7日、民主党本部に小沢一郎幹事長を訪ね、小沢氏が11月にキリスト教を「排他的で独善的な宗教だ」と述べたことに対し「発言は見過ごせない。キリスト教は愛の宗教だと知ってほしい」とする申し入れ書を提出した。

 小沢氏はその後の記者会見で、自身の発言に関連し「(カトリックの)ローマ法王は『本来のキリスト教の教えを正確に理解せずに単純な合理主義と機械文明、物質文明に走ったところに西洋文明の行き詰まりがある』と言っているそうだ。私もその通りだと思う」と述べた。

産経新聞 2009年12月7日
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091207/stt0912071956004-n1.htm

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「(カトリックの)ローマ法王は『本来のキリスト教の教えを正確に理解せずに単純な合理主義と機械文明、物質文明に走ったところに西洋文明の行き詰まりがある』と言っているそうだ。私もその通りだと思う」

……とのことだそうですが、宗教性に深い根を持たない機械文明への指摘はローマ法王にだけ専売されるものではありませんが、その指摘自体は正鵠を得ていることには口蓋を満にして頷く次第です。

しかしながら、宗教を票田としか見ない、ないしは、国家が管理・利用すべきと発想する大先生の口からでた発言であることを勘案するならば、アレレとも思うところです。

宗教を即して理解するのではなく、利用する・管理するという大先生がいうわけですから、その提示する文化文明観そのものにも「行き詰まりがある」という陥穽があるはずなのですが……。

本朝の不幸な出来事が、不幸な未来をデザインするとすれば、なおおそろしい事態ではないだろうか……そのようにふつふつと思われて、もやもやする宇治家参去でした。

恥の上塗りとでも言えばいいのでしょうか……。
無知の涙とでも言えばいいのでしょうか…… 。

頭を抱える次第です。

どこにも所属しない日本教であると公言するのであればスルーする次第ですが、自称プロ仏教とアンチ・キリスト教を標榜する御仁の発言ですから、できるだけ精確を期してもらいたいところです。

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日本の近代文学史上に現れてては消えてゆく数えきれないドストエフスキイ教の狂信者たち

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 おもうに、ひとりのひとが、その一生でドストエフスキイの文学と邂逅するかどうかは、まったくの偶然に属する。にもかかわらず、そのひとがドストエフスキイの文学から、ベルジャーエフのいう「火の洗礼」をうけるかどうかは偶然に属する事象ではなく、そのひとの内部にそれを邂逅と受けとる土壌が存在しているかどうかという、いわば必然に属する事象なのである。ドストエフスキイの文学のなかで重要な役割を占めている偶然の出来事というものも、やはりこの意味において理解されるべきである。
 ラスコーリニコフがマルメラードフやスヴィドリガイロフに出遇うのは、まさに偶然であるが、出遇った相手のなかにマルメラードフやスヴィドリガイロフという精神体を見出すのは、ラスコーリニコフがその深層心理のうちにこういう精神体を潜ませていたからにほかならない。マルメラードフやスメルジャコフはラスコーリニコフの分身にすぎない、という表現さえあるいは可能である。
 さて、日本の近代文学史上に現れてては消えてゆく数えきれないドストエフスキイ教の狂信者たち--それはまさに憑かれた人びとと呼ぶにふさわしい--を。わたしたちは知っている。かれらはドストエフスキイの顔に、その文学に、その文学の背負いびとであるラスコーリニコフの顔に、文学に、その文学の背負いびとであるラスコーリニコフに、イワンに、スタヴローギンに魅せられている。かれらは各々の資質と歴史と社会的立場とに応じて、それらの登場人物に共振し涙し憤怒し惑溺するが、それはすべての内部に渦巻く欲望や憧憬や不安や恐怖などの観念を、ドストエフスキイが登場人物によく形象化しているからである。ドストエフスキイの文学に邂逅するとは、いわばこの自己の内心に対面することであり、それはひとにとって必然の出遇い意外の何物でもないだろう。
 ドストエフスキイの文学とは、ひとことでいえば、かれそのひとの脳髄深く荒れ狂う詩想の表現である。それゆえにここには、文学以前の、あるいは文学胚胎の息吹がある。
    --松本健一『ドストエフスキイと日本人(上) 二葉亭四迷から芥川龍之介まで』第三文明社レグルス文庫、2008年。

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竹内好(1910-1977)、橋川文三(1922-1983)の流れを組む、文芸評論家・思想史家の松本健一氏(1946-)のドストエフスキー論が増補再刊されていたので……といっても昨年ですが……ようやく読み始めたところです。

もともとは朝日選書で刊行された一冊ですが、なかなか入手しがたく、、、十五年以上も昔、古本屋でようやくめっけたことによろこんだことを昨日のように覚えております。

現在、ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)に関しては新訳の刊行により、にわかにブームの様相を呈しておりますが、現在の状況がひとつのブームであったとしても、伝統的に、日本人はトルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828-1910)よりも、ドストエフスキーを好んで受容してきた経緯があり、その消息をつまびらかにした一冊ですから、わくわくしながら再読している宇治家参去です。

さて、読み始めると、頗る「確かに!」というのが多々ありますが、判ったことのひとつは間違いもなく宇治家参去自身が、「ドストエフスキイ教の狂信者」であり、まさに「憑かれた人びと」のひとりである、ということでした。

「すべての内部に渦巻く欲望や憧憬や不安や恐怖などの観念を、ドストエフスキイが登場人物によく形象化しているから」こそ、その繊細な筆致の描く状況にのみこまれてしまうというやつです。

光明から対象を見出すよりも、暗闇からおぼろげに輪郭を示し出す対象へアプローチするところがたまらない次第でして、、、。

たしかに、「ドストエフスキイの文学に邂逅するとは、いわばこの自己の内心に対面することであり、それはひとにとって必然の出遇い意外の何物でもない」のでしょう。

偶然なのですが、読み始めると必然になるのがドストエフスキーの醍醐味でしょう。
ただ、それはさんざん飲んで最後に重く締めた飲んだ後のラーメンが翌朝の胃に響くよりも、脳内に深い共鳴を残していきますので、ある意味では火傷必死ですが、その火傷がマア心地よいというところです。

さて・・・
昨日のアレでげふげふしながら仕事をして、帰宅すると、

「湯豆腐」がセットされておりました。

ありがたし、細君。

それでは、「湯豆腐」に応えなければなりません。

……ということで、とっておきの限定エビスで一杯やってから沈没しようかと思います。

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Book ドストエフスキイと日本人〈上〉二葉亭四迷から芥川龍之介まで (レグルス文庫)

著者:松本 健一
販売元:第三文明社
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曖昧模糊とした不安と戦う忘年会

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 あの言葉はむろん、昨日イワンの口から思わず飛び出したものだが、「思わず」飛び出したからこそかえって重大なのだ。もしもそうだとしたら、どんな和解の道がありえるというのか? 和解どころか、カラマーゾフ一家に新しい憎しみと敵意の種がまかれるだけではないか? しかし肝心なのは、彼すなわちアリョーシャが果たしてどちらを憐れむべきかということだ。そして、彼らひとりひとりに何を望むべきか、ということだ。
 彼は兄をともに愛しているが、こうした恐ろしい矛盾のなかで彼らひとりひとりに何を望めばよいのか? これほどの混乱のなかで、それこそ自分をすっかり見失いかねなかったが、アリョーシャの心はやはり曖昧模糊とした不安に耐えられなかった。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年。

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昨日は忘年会でした。
参加された皆様お疲れ様でした。

決して泥のようにはならぬ・・・と固く決意して参加し、固く決意して飲んでいたのですが・・・。

ともあれ楽しい宴となったようで何よりです。
ひごろ気にするともしないとも、たまった固まりのようなものは落ちたり、新しい発見があったりしたのではないかと思います。そこから、さあ、もういっぺんやるか!と人間は奮闘できるものでしょうからね。

ですので、大人たちの忘年会というのは大切かもしれません。

とりあえず、翌日は授業がなくて幸いでした。

また、皆様よろしくおねがいします。

会場を後にし電車にのり、最寄り駅におりて・・・

そこまではよかったのですが、、、

何を考えたのか・・・

お好み焼やに入って、モチチーズ明太とビールを注文してごきゅごきゅ。

それから遅くまでやっている中華やにはいって、餃子定食をごきゅごきゅ。

帰宅すると、えらい時間になっておりました。

「はあぁぁぁ~」

「こうした恐ろしい矛盾のなかで彼らひとりひとりに何を望めばよいのか? これほどの混乱のなかで、それこそ自分をすっかり見失いかねなかったが、宇治家参去の心はやはり曖昧模糊とした不安に耐えられなかった」。

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「学問を軽視する国家はその国民を軽視する」のかもしれません

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    哲学・思想系諸学会による行政刷新会議への意見表明

                                                         平成21年12月1日

   税収の大幅な減少が見込まれ、国家予算の適正な構成が望まれる中、行政刷新会議の「事業仕分け」が、予算編成のプロセスの透明化と実効性のある資源配分を目指し、多くの成果をあげていることに敬意を表します。しかしながら、大学での研究・教育に関する予算に関しては必ずしも的を射た論議が行われないままに、見直しや予算の縮減という決定がなされたと考えます。
   私ども哲学・思想系の諸学問領域の諸学会は、大学をはじめとする高等教育や研究機関の基盤的経費と競争的研究資金、及び次世代育成支援の経費が縮減されることなく、むしろ拡充されるよう、政府に強く要請します。
   哲学・思想系の学問・教育は、人類が蓄積した叡知を現代社会に生かし、さらに次世代以降の人々に継承していく責務を負うものであり、国民社会の基礎を形作る営みの欠くべからざる一翼を担っています。その存在意義は日本文化の底力の育成に関わり、表面には現れにくい地道な研究・教育活動の積み重ねによってこそ実現されていくものです。とりわけ、それがどのような効果をあげているかについては、長い時間的経過を視野に入れて、多元的な評価尺度を用いて見積もられねばなりません。
   わが国が成し遂げた未曾有の発展は、基盤的な研究・教育への長期的な投資の成果に他ならず、現時点でこの投資を軽視することは、次世代の人材確保と将来の社会の発展に大きな損失をもたらしかねません。
   以上のことを念頭に置きますとき、この度の「事業仕分け」において、若手研究者育成資金や研究推進のための競争的資金の大幅な縮減が求められましたことは深く憂慮される事柄です。
大学や研究機関における研究・教育活動はこれらの資金によって支えられてきました。
特に、わが国の学術振興関係予算はこれまで理工系のビッグサイエンスを中心に措置されてきたため、人文・社会科学系の財政事情は現在でもすでに危機的状態にあり、その上これらの資金が大幅に縮減されるとすれば、日本の哲学・思想系の研究・教育に甚大な打撃が加えられることになりかねません。
   哲学・思想系の諸学問領域においては研究者の人材育成に長い時間を要します。大学院における研鑚が決定的に重要であることは言うまでもありませんが、大学院博士課程修了後もさらに広く深く力を養っていく必要があります。このことは世界的にも認識が深まっており、各国で博士課程修了後の研究者育成プログラムが充実されてきておりますが、日本の場合、その体制はようやく整い始めてきている段階です。
   競争的研究資金につきましても若手をも含めた共同研究はこの間に次第に増加してきてようやく効果を上げ始めてきたところであり、それなくしては今後の質の高い研究・教育の継続は著しく困難となりましょう。近隣諸国と比べても、近い将来における哲学・思想系の諸学問領域における国際競争力の大幅な低下が懸念されます。
   政府、国会議員、及び政策立案・予算案作成に関わる方々におかれましては、国民社会において哲学的・思想的な構想力がもつ意義を適切にご理解いただき、日本ならではの国際社会に対する学術的貢献がなされますよう、中・長期的視野に立って高等教育・学術研究推進のために財政的な支援を強化されるよう強く要望いたします。

日本哲学系諸学会連合代表  竹内整一                             
日本宗教研究諸学会連合代表 星野英紀
藝術学関連諸学会連合  西村清和

加盟諸学会

  日本哲学系諸学会連合:
    日本印度学仏教学会、日本宗教学会、日本中国学会、日本哲学会、美学会、日本倫理学会

  日本宗教研究諸学会連合:
    印度学宗教学会、京都宗教哲学会、キリスト教史学会、「宗教と社会」学会、宗教倫理学会、神道史学会、
    神道宗教学会、宗教哲学会、宗教法学会、筑波大学哲学・思想学会、日本印度学仏教学会、
    日本オリエント学会、日本旧約学会、日本基督教学会、日本近代仏教史研究会、日本山岳修験学会、
    日本宗教学会、日本新約学会、日本道教学会、日本仏教綜合研究学会、パーリ学仏教文化学会、
    佛教思想学会、佛教文化学会、豊山教学振興会 
      
  藝術学関連諸学会連合:
    意匠学会、国際浮世絵学会、東北藝術文化学会、東洋音楽学会、日本映像学会、日本演劇学会、
    日本音楽学会、日本デザイン学会、日本民俗音楽学会、比較舞踊学会、美学会、美術科教育学会、
    美術史学会、舞踊学会、広島芸術学会、服飾美学会

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仕分け人だが、何だか知りませんが、本当に学問の基礎体力を阻害するようなことばかりをやっていくと、日本という枠組み……ここでいう「日本」とは民族国家としての「日本」というよりも作られた形式としての法治国家・制度としてのステートですが……自体が尻すぼみになってしまうことがわからないのでしょうかねえ。

先史をひもとくまでもなく、先の大戦では、ドイツは日本の10倍の資金を学問に投資し、そのドイツの百倍以上を投資していたのがアメリカですが・・・。

所詮、「次の選挙」までしか計算できない国会議員には、百年の計というものは見えないということでしょうか。

まあ、いずれにしましても、「本を焼く国家はその国民をも焼く」と詩人ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine,1797-1856)は喝破しましたが、「学問を軽視する国家はその国民を軽視する」のかもしれません。

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「あなたの力で子どもの命を守ることができます。ぜひ、ご一読ください。」

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この憲章の当事国政府は、その国民に代わって次のとおり宣言する。
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。政府の政治的及び経済的取極のみに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する。
    --日本ユネスコ国内委員会(国際連合編)「UNESCO憲章」(国際連合教育科学文化機関憲章)、『国際連合憲章』日本ユネスコ国内委員会事務局、1952年。

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午前中、風邪のため、げふげふいいながら、布団に入っていたのですが、

「ユネスコから手紙が来ている!」

……宇治家参去宛に郵便物がNewYorkから来ている!と細君が騒ぐものですから、

ダルイと思いつつ、起きてみると、まさにそのようでして、

「開けていい?」
※我が家では基本的に私信の開封は本人になります

……と訊くので、開けてみさせたところ・・・・

「寄付の依頼」

……だったようで、細君はガックシしておりました。

おそらく、秋口にユニセフに何かの資料を依頼して送付してもらっていたので、来たのでしょう。

なかをよく読んでから・・・

「寄付しようか?」

……と細君に誰何したところ、

「寄付してもらいたいのは、我が家です」

……大学の同級生のほぼ半分の年収ですから、まあ、彼女のいうことはわからなくなく、

「確かに・・・寄付してもらいたいのは我が家だよな」

……などと思ったわけですが、具体的な寄付の内容を読んでいると、やはり、しておいた方が良いのでは・・・?

……などと思うことしばしばです。

最低額は3000円からです。

この3000円で何ができるのでしょうか。
パンフレットによれば、「子どもたちの免疫力を高め、感染症にかかりにくくするビタミンA(1年間分)を1500人の子供に投与できます」そうです。

自分が3000円をフイにもっておりますと、何に使うのでしょうか。
真面目なところで書籍の購入でしょうか、3000円では専門書を買うことすらもできません。おそらく、ディスカウントのリカーショップで、純米酒1合買うか、軽く飲みにいくぐらいが現実的でしょうか。

その意味では、ポスト・コロニアル批評のスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)にいわせるなら、勝ち組・負け組といっても、先進国の状況はすべて後進国の「犠牲」のうえに成り立っている……と言われてしまいそうですが・・・。

ちょいと貯金して、応援しようかと思います。

その意味では無目的に自分が使うよりも、有効な価値的な使い方を見せて頂いたような気がします。

たった3000円ですが、決意して貯金しないと、用意できないダサイ宇治家参去でした。

とわいえ、

「あなたの力で子どもの命を守ることができます。ぜひ、ご一読ください。」などと書かれているものですから、そりゃぁぁ、力を出さないとマズイわな、と思うのも事実です。

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こいつ、おれを知っているな。だが、おれはこの男を知らぬ

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 その日。長谷川平蔵が〔さなだや〕に寄ったとき、先客がひとりいた。
 店の片隅で、窓から見える大川の川面を凝と見入りながら酒を飲んでいたその客には別だん気にもとめず、平蔵は、はこばれてきた酒をのみはじめたのであるが……。
 ふと、気づくと、その客が亭主に勘定をして「おつりはいりませんよ」といい、土間へ下り立つところであった。
 平蔵は、その客と亭主が土間にならんで立ったのを見やって微笑をうかべた。
 なるほど、のちにきいた蚤の夫婦そのままに、大女の女房にくらべて亭主の庄兵衛は五尺に足らぬ小男なのだが、その客も同様に小男で年齢は四十がらみ。実直そうな風体の、どこかの大店の番頭でもあろうか……とにかく、小さな躰を寄せ合うようにして立った二人に、平蔵はなんとなく微笑をさそわれただけのことである。
 と……。
 その客も平蔵の視線を感じたらしい。
 ちらと、横眼に平蔵を見やった。
 その、自分を見た瞬間の相手の顔の色が、平蔵には気に入らなかった。
 (こいつ、おれを知っているな。だが、おれはこの男を知らぬ)
 であった。
    --池波正太郎「蛇の眼」、『鬼平犯科帳 二』文春文庫、2000年。

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細君が朝から美術館へいくということで、息子殿を幼稚園に送りとどけたあと、そのまま出かけてしまい、独り我が家に取り残された宇治家参去です。

取り残されたとはいえ、そこには重大な任務が随伴するというわけで、細君が息子殿を迎えにいくことができないので、その任務を仰せつけられたわけですが、自宅を出発するのがヒトサン・サンマル(13:30)出発なのですが、

げふげふで起きたところ、手にしていたスピマスのプロフェッショナル(手巻)に目をやったわけですが、なんと!

「15:25」

を示しているではありませんか!

「まぢっスか!」

絶対に、息子殿は泣いているだろうなア~、仕事にも遅れるなア~と思って、取り急ぎ顔をあらい、出かける準備を整えると、居間の電子時計は「10:10」を差している……という状況です。

ひょとして、もう一度、腕時計に目をやると、

「15:25」で止まった状況でしたっ!

要するに、手巻きのゼンマイのエナジーが息途絶えた状況のようでして・・・

汗を拭った宇治家参去です。

さて……

定時に迎えに行くと、息子殿がご学友と遊んでおりましたが、なかなかこのお迎えタイムにいつも違和感を感じてしまう宇治家参去です。

幼稚園独自のお母様文化とでもいえばいいのでしょうか・・・、その勢いに圧倒される始末で、いつもばつの悪さを感じてしまいます。

なんといえばいいのでしょうか、その場所に存在することの違和感とでもいえばいいのでしょうか。

また行けば・・・

「秀くんのお父さん!」

とか

「こんにちわ」

とか、

「いつも奥様にはお世話になっております」

……などと、知らない?ヒトからも声をかけられますので、私淑する長谷川平蔵ではありませんが、「(こいつ、おれを知っているな。だが、おれはこのひとを知らぬ)」というわけで、そこはかとない違和感が加速されるというものです。

マア、ただそうした新鮮な経験を積み重ねることにより、宇治家参去自身の人間観の間口も広げられるというものですから、慣れないものですけれども、アリガタイ経験としておくべきでしょう。

さて、帰宅すると、悪寒が・・・。

やっちゃいました!

幼稚園でまた風邪をうつされた様にて……。

先週と同じパターンの気配ですので、これからチト軽く「アルコール消毒」をしてから、補給用の水分を枕元に置いて寝るしか在りません。

にごり酒にて風邪退治です!

しかしながら・・・

はあ、躰弱すぎ!!

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やがて遠い回想の対象と化し、歴史となった・・・?

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 調布の日活撮影所は、ほぼなかばを売却して現在は八千坪ほどの規模となったが、貸スタジオとして盛況である。テレビ映画やCFの撮影のみならず、旧日活の録音技術を信頼する陳凱歌など中国人監督たちが仕上げを行ったりもしている。
 第一ステージから第四ステージ、それからかつて「東京という幻想」の発信源となった銀座のオープンセットがあった場所には、巨大なマンションが建っている。しかし第五から第十三までのステージ、赤城圭一郎がゴーカートで衝突したその扉、スターたちが食事をし、石原裕次郎が撮影所では彼だけに許されたビールを飲んだ食堂は当時のままである。遠い昔、広い食堂の一角だけは日活ホテルの経営ということになっていて、そこだけはテーブルクロスのある立派なレストランだったのである。
 この撮影所が、日本の青年たちの高度成長時代前期の希望と、事実上の鎖国下にあることへの不満と焦慮とを反映し体現した「明るい不良青年たちの大学」のようであったときからすでに四十年がすぎた。当時の時代精神の結晶体ともいうべき石原裕次郎は一九八七年、五二歳で死に、吉永小百合は「物語」とともに残された。それは多少のおかしみに彩られた、可憐で健気な物語である。古いアルバムの中の記憶である。
 「戦後」は彼方へと去った。その上にはすでに幾つかの時代が層をなして降り積もった。そうして、「冷戦下の平和」をたのしんだ「戦後」も、「責任感なき前進」に専念して心に翳りのなかった「高度成長」も、その気分を「吉永小百合という物語」に一時仮託した「サユリスト」も、やがて遠い回想の対象と化し、歴史となった。
    --関川夏央『昭和が明るかった頃』文春文庫、2004年。

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午前中に赤羽で健康診断を受けてから、そのまま埼京線に乗車。
途中で乗り換えずに新宿で下車。

新宿の街を歩くのもひさしぶりで、空気が心地よいというのはこのことなのでしょうか。

飲み慣れた街であり、遊び慣れた街であり、生活需要を満たしてくれた街が新宿かもしれません。

学生時代に隣の中野区にずっと住んでいたこともあり、なにかを「手っ取り早く」「求める」ためには、彷徨したわけですが、都下に転居してからは飲みに行くだけの街となってしまったのがちょいと寂しいところは否定できません。

ただ……『特捜最前線』で描かれた「匿名」と「緊迫」と「瞬間」の隙間にかいま見せてくれるその表情は穏やかで、ひとりニンマリとしてしまった宇治家参去です。

用事があったわけでもないのですが、とりあえず、趣味であつめているクラシック・カメラのアクセサリーを2、3購入してから、西口から都庁方面まであてどもなくゆっくりと歩き、それからまたゆっくりと駅まで向かいましたが、そびえ立つ副都心のビル群はますます発展するばかりですけども、なにか猥雑さと新鮮さの両面を漂わせる「新宿情緒」はなにひとつかわっていないことにおどろくばかりです。

本来相反するはずの、猥雑さと新鮮さの同居をどのように理解すればよいのでしょうか。
高度経済成長が無限に伸展していくとすればそこには「鉄腕アトム」に描かれた清潔な近未来都市がデザインされてしかるべきです。

そしてその成長の抱える矛盾・ひずみが肥大化していくと、そこには「ブレード・ランナー」で描かれた猥雑な腐敗都市がデザインされてしかるべきです。

その両者が幸福な邂逅を繰り広げている街が新宿なのかも知れません。

印象批判になってしまうかもしれませんが、そこには「矛盾」の当体としての「昭和」の匂いが濃厚に漂っている……そう思われて他ならない宇治家参去です。

さて……前フリが長くなりましたが、テキトーに歩いただけですが、朝から何も入れておらず、小腹が減るというものですから、むか~し、よく通い詰めた「立ち食い」スタイル蕎麦やさん(といってもすべてカウンター席ですが)の老舗チョイ昼過ぎに、顔を出してきた次第です。

昭和・新宿を濃厚にとどめる「思い出横町」のちょうど真ん中にある「そば かめや」です。上野池之端かめやを母体する蕎麦屋さんですが、場所柄、スタンド8席のみというスタンド式一軒飲み屋風のお店です。

ですけど、ここでだしてくれるおそばすべて「生そば」です。

立ち食いの駅蕎麦=駅側(エキソバ)の殆どが「生そば」でないことを考えると、その筋では恐ろしく念入りに蕎麦を提供しているわけで、学生時代から、そして派遣社員で西新宿に勤務した4年の間にお世話になりっぱなしになった「隠れ家」のひとつです。
もちろん、注文ごとにそばをひとつひとつ茹でているわけではありませんが、それでも冷凍ものやあっためてもどして提供するだけの店とは味わいが段違いです。

師走とはいえ、すこし日溜まりがここちよい晴天でしたので、注文したのは、一番のお薦めである「天玉せいろ」。

要するにせいろ蕎麦に、掻き揚を添え、つゆに温泉卵をおとした逸品ですが、半年ぶりに箸を入れてひっくり返った次第です。

ちょい列んだのですが、そのあいだに、、、茹でられた蕎麦で、掻き揚げも狭い店舗ですが、きちんと定期的に揚げ続けますのでその揚げたてをゲットというわけで、コンディションは「天気晴朗ナレドモ波高シ」などとアナウンスしてしまいそうになるぐらいグッドで、脳内Z旗を掲揚する始末です。

関東風の濃いめの味付けのつゆに、蕎麦をひとし、まず、鮮烈さに満足。
あつあつの……タイミングによってはちょい冷えていますが、冷えていても絶妙に旨い!……かき揚げを、つゆに絡めて噛みしめますと、パラダイス。

途中で、温泉卵をイッキ啜りしましたが、濃いめの汁にぽんわかたまごがハーモニーを奏でるとはこのことなのでしょう。

三分一本勝負。

完敗した次第です。

これだけたのしませて頂いた「天玉せいろ」ですが、驚くことに数年価格が据え置きの370円!

いわゆる暖かいかけそばに掻き揚げと温泉卵をのっけたやつも同じ価格ですから、もう少し冷え込んでくるとつぎは、「天玉そば」がベストでしょうか。

嗚呼、ワレ幸福者ナリ……と満足しつつ、ちょいと、腹ごなしにと、こんどは東口界隈へまわり、往時を偲んだ次第です。

ノスタル爺(じじい)と揶揄されそうですが、たま~には、「ノスタル」に浸りますと、若い頃を思い出し(といってもまだ「若い」ですが)、サア、頑張ろうと思えるところが人間として生きることの醍醐味なんだよな……と思いつつ自宅へと帰路をとった次第です。

……というところで???

9月に応募した公募の専任、「御縁がございません」でしたような通知が到着の由。

マア、まだ、戦いますよ!

http://www.youtube.com/watch?v=NmDR5g8NOt8&feature=related

愛と憎悪と死が渦巻くメカニカルタウンなわけですけども、、、その隙間に見え隠れする人間模様はとは、なにげにうつくしいものですわい。

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「人々の望みに応ずる諸学」に関する一考察

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 人間の知性は乾いた光のようではなく、意志や情念から影響を受ける、それが「人々の望みに応ずる諸学」を、生み出すものなのである。というのは、人は真であって欲しいと願うものを、より強く信ずるからである。それゆえに、彼は探究の待ち切れなさゆえに、厄介なものを、希望を狭くするがゆえに、地味なものを、迷信のゆえに自然の奥深いものを退け、尊大と自負のゆえに、つまりつまらぬ仮りそめのことに関わり合うように見えないために、経験の光を退け、大衆の意見のゆえに、意外に見えるのものを退ける。結局、数知れぬしかも時には気付かれない仕方で、情念が知性を色付け汚染するのである。
    --ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム 新機関』岩波文庫、1978年。

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それをしなければならないことは「知性」では判っているのですが、「情念」にほだされてできないことが多々あります。

健康診断もそのひとつで、受診しなければならないことは判っておりますし、法令で定められてもいるのですが、、、

「面倒」

……なので、先月、スルーして「しまった」訳なのですが、そのことが市井の職場の店長に発覚してしまい、

「いってこいやぁぁぁ」

……と、ありがたい励ましのオコトバを頂戴しましたので、、、

非番にもかかわらず、本日、受診してきた宇治家参去です。

※深夜勤務者は年2回の受診が法令によって定められているので。


最初の予定日でしたら、市井の職場で受けられたので、自転車で通うことができたわけですが、怜悧な知性の判断が情念によって狂ったのでしょうか・・・。

結局は電車で北区・赤羽まで行かざるを得ず・・・。

診断自体はものの15分ぐらいなのですが、その前後に注がれたリソースを勘案しますと、結局、最初にとっとといっておけばよかったわけで、先にのばして、大作業になってしまった次第です。

ともあれ、師走の初日にもかかわらず、暖かい一日で、赤羽散策?がひとつの息抜きにはなりましたので、それでよし!として了解するほかありません。

いずれにしましても、情念にほだされることなく、知性で「判っている」のであれば、判っているとおり行為したいと反省した一日です。

その意味では、「人々の望みに応ずる諸学」は、自然と人間の解明にはあまり役に立たないようです。「知は力なり」(Ipsa scientia potestas est)と説いたフランシス・ベーコン(Francis Bacon,1561-1626)の言葉を最初からきちんと聞いておけば、「情念が知性を色付け汚染する」のを少しは防げたかもしれません。02484pxfrancis_bacon 03_img_1789

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