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「一番、身近な隣人の『ために』何かをしろや」

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 「あるものは他のもののために」という表現における「ために」〔代わりに〕は、ある語られたことと他の語られたこととの、ある主題化されたものと他の主題化されたものとの係わりに還元されるものではありません。さもなければ、<語られたこと>としての意味の次元にとどまることになりましょう。しかし私たちとしては、<語ること>としての意味がなにを表しうるのか、この点を探らなければなりません。
 「ために」〔代わりに〕は、人間がその隣人へと接近する仕方であり、もはやある者の尺度には収まらないような関係が他の者とのあいだに創設されるその仕方です。それは近さの関係であり、そこで働くのは、ある者の他の者に対する責任です。このような関係のうちには主題化不能な知解可能性があります。それは、主題や主題化の効果によってではなく自分自身によって意味を得るような関係なのです。つまり、少なくともここでは、知解可能性と合理性は根源的な仕方で存在に属するものではないのです。ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれているのです。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)「<語ること>としての意味」、『神・死・時間』法政大学出版局、1994年。

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24日は珍しく市井の仕事が休みでしたが、息子殿も帰省しており、細君と二人だったので、日中は仕事に専念し、年明け早々に返却しなければならないレポートに朱をいれているといい時間で……、そのままレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の著作をひもときつつ、原稿の構想を練りながら、うとうとしていたのですが、細君が、、、

「今晩はどうしようか」

と聞いてきますので、クリスマスの由来を講釈しつつ、「隣人とは何か」を生きているこの生活世界で徹底的に考察する必要性がこの現代にはあると謂ったところ・・・

「一番、身近な隣人の『ために』何かをしろや」

……ということになり、ふたりして、軽くディナー?に行ってきました。
※ちなみに一番、身近な隣人という意味では、自己と対話する自分自身もそうなのだとは思うのですが、それ以上ツッコむと面倒なのでスルーしましたが、、、。

結局行き着く先は、宇治家一家御用達の「旬菜ダイニング ささ花」ということになるのですが、当初は別の安いところでお茶を濁してやろうと思っていたのですが、自転車でいける範囲などとのたまうものですから、覚悟を決めて行ってきた次第です。

降誕節のなか日の平日になりますので、めちゃめちゃ混雑しているわけではありませんが、それなりの賑わいをもつ店内へ誘われ、まずはエビスの生で乾杯です。お通しには「鰤の煮こごり」が出てきましたが、「煮こごり」を頂くのもひさしぶりですが、この適度に醒めたゼラチンが何とも言えず、エビスをもう一杯所望する次第です。

さて……。

お造り(鮪・ハマチ・帆立)とサラダを頼んで始めましたが、お作りはどれも口のなかでとろけるというやつでニンマリとするわけですが、サラダがどうも……自分にはいけません。メニューの「かにフォルニアサラダ」というわけですので、小生かにがNGということで、かにをよけつつ、アボガドを探しながら食べるという始末で・・・。

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さて悩みながらメニューを見ておりますと、やはり降誕節ということで、その手の限定メニューがありましたので、和牛のローストビーフを注文です。

つくりおきのきくアイテムですので、すぐに登場されましたが、ローストビーフをやるのもひさしぶりですが、その味付けに驚きました。

和風ソースでサッパリしあげているのがよいのでしょうか。牛の味わいがかえってひきたち、ぜんぜん諄くなく、、、

「おかわり!」

……などと洩れそうになる逸品でした。スーパーなどのパック商品ですと、どうしても肉の臭さが先に立つわけですが、そうした不安材料全くなしの真剣勝負に頭を垂れる次第です。

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魚は最初にやっていたので、「自家製ベーコンの炙り焼き」を頼みましたが、こちらも度肝を抜くというやつです。
ベーコンとはそういうものだろう……とスーパーなんかで見て認識している「根拠の合理性」を破壊するとはこのことです。

厚さ1センチ弱のもんほののベーコンです。
丁寧に塩漬けされたお肉に、チップがよいのでしょうか……、ほどよい香りがたまらなく、粗挽き胡椒のみで頂戴しましたが、まったく噛むことがなく、口蓋で溶け始めるものですから、笑みがこぼれてしまうというやつです。

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ちょいちょいお番菜をはさみつつ、やはりこの季節は鍋でしょう……。
ということで、「特選和牛の黒モツ鍋」をエントリーです。
もともとは福岡県の郷土料理になるわけですが、こちらも素材がよろしすぎる状態ですのでしょうか。上質の脂がたっぷりと含まれた和牛のモツと、黒ゴマをふんだんに使用した出汁のおかげで、食べる度に、濃厚な旨みと甘みが口いっぱいにひろがるという奴です。
今回は肉中心で攻めましたので、さすがに、これに麺とか米を入れて仕上げようという気力がおきず、最後はさっぱりした深大寺蕎麦でしめた次第です。

細君は降誕節限定のイチゴケーキで締めていたようです。
本人曰く「別腹」だそうですが……。

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いつも外で仲間と飲むと宇治家参去の場合、食べずにひたすら「飲む」という流れで、失敗することが多いのですが、今日はしっぽりと食べることを堪能させて頂きました。

しかし、飲む戦いをわすれたわけではありません。

前回「メニューにない、地酒はありませんか」と尋ねたところ、「メニューにないメニュー」が出てきた事件がありましたので、今回は、滑舌よく尋ねたところ、幻の銘酒と対面し、勝負してきました。

まず、間違いのない地酒といえば、福井県の「黒龍」になります。
本醸造でも、下手な地酒のワンランクうえをいく上質の、まあ「間違いのない」日本酒ですが、今回はその限定の限定のトップクラスとご対面というやつです。

「黒龍 大吟醸 しずく」

「しずく」なんです。

酒袋より自然に滴り落ちる一滴=「しずく」をあつめた逸品です。
大寒造りの大吟醸酒で、フルーティーな香りが楽しさを倍増させてくれるにもかかわらず、透き通るような綺麗な味わいに、酒豪を自他共に任ずる宇治家参去でしたが、もはや完敗という始末です。

水晶やゆったりと漆黒に流れる地下水を思わせる純度の高い綺麗な味わい。
きんきんにひやした冷やでなく、ちょいと冷やの状態ですが、そのお陰で、そうした綺麗な味わいが楽しむと共に、、じわじわと外気に触れて温度が上がり始めますわけですから、しばらくまつと、こんどはやんわりとした優しい旨みが顔をのぞかせるという始末で・・・。

一升びんの写真を取り忘れたのが痛恨の痛みです。

ま、いずれにしましても「ある者が他の者のためにある、そのような関係のうちには、根拠の合理性にもとづいてはもはや考えられないようなある関係がはらまれている」のが、普段とるにたらないと考えている日常生活なわけですが、そんなことはありません。そのへんをちょいと丁寧に探究していきますと、すこし彩り鮮やかになるわけですし、無限の倫理的罪責を自覚できるはず……などと思案しつつ、楽しんだひとときでございました。
帰りにはちょいとお土産をいただきましたが、こうした配慮がうれしいものです。

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著者:エマニュエル レヴィナス
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