自己に反しては、生きることそのものとしての生に刻印されている
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自己に反しては、生きることそのものとしての生に刻印されている。忍耐するがゆえに、老いるがゆえに、生は、生に反した生なのだ。
反して(malgré)は、意向(gré)、意志、本性、主体のうちで存続するものと対立しているのではない。意向や意志は、外的な力によって阻止されるものだからだ。「他者のために」〔他者の代わりに〕の受動性は、この「他者のために」〔他者の代わりに〕のうちで、ある意味を表出するのだが、この意味のうちには、肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、意味に先立つような意志とのいかなる関わりも介入することがない。以上のことは、苦痛の可能性たる生ける人間の身体性によって生じる。苦痛の可能性とは感受性であり、感受性の本義は痛みを覚えうるという感応性である。覆いを剥がれて露出し、自己を供与し、みずからの皮膚のうちで苦しむ自己、みずからの皮膚さえ自己の所有物として有することなく、みずからの皮膚のうちに痛みを抱えること、--可傷性なのだ。苦痛は、意志が阻止されたことを示す何らかの徴候であるだけではないし、苦痛の意味も付随的なものではない。苦痛の悲痛さ、病い、痛みの毒性、純粋状態においては忍耐そのものであるような身体性、労働と老いの悲哀--これらは逆行性そのものであり、自己の内なる「自己に抗して」である。意志が進んで何かを意欲するにせよ嫌々ながら何かを意欲するにせよ、意志は忍耐を、逆行性を、根源的なものたる無力な倦怠(lassitude)をすでに前提としている。苦しみにおける「自己に反して」を、それに先行する意志に還元してはならない。そうではなく、苦しみの逆行性という用語で、意志を語らなければならない。このように、忍耐固有の受動性--意志的行為と相関的ないかなる受動性よりも受動的な受動性--は、その時間性の「受動的」統合をとおして意味するのだ。
--E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。
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土曜日は息子殿が楽しみにしていた幼稚園の学芸会……正式名称は「たのしいこどもかい」ですが……があり、午前中はその鑑賞で登園しましたが、ビデオカメラの多いことにびつくりです。
細君もご多分に漏れず、ビデオカメラを回しておりましたがその所為か、スティル・ピクチャーの撮影ができませんので、宇治家参去の役割として、カメラ撮影の大任を仰せつけられた次第でしたが・・・。
とりあえず、先週新しく購入したCanonのPowershot S90に大活躍して頂いた次第です。
※なにしろ、コンパクトデジカメなのですが、解放値がf2.0と明るく、絞り優先・シャッタースピード優先、マニュアルにも対応できるので、暗いところで大活躍!!
さて……
状況としては、息子殿の発表を直に鑑賞するというよりも、ほとんどファインダー越しという有様です。
なんといえばいいのでしょうか生存における違和感とでもいえばいいのでしょうか、何らかの言葉になりにくい齟齬、いささかの本末転倒を感じつつ……撮影は無事完了という次第です。
息子殿も、「パパが見に来てくださる!」
というのを楽しみにしておりましたので、シャッターを切りながら、ちょいと手を振ると喜んでくれたのがアリガタイものです。
ただ……その違和感・齟齬・生存の不可解さを、やはりここは哲学者としては、そのもやもやをひとつの言葉へと高め、想念を哲学的思弁によって表現しなければなりません。
ですから、細君に、、、
「写真として“記録”に残すことの歴史的価値を否定するわけではありませんが、リアルタイムで、生の“目”で精神に記録することも大切なのではないでしょうか……ねぇ」
と、ぼやいたところ……
「“生”だろうが、“写真”だろうが、空間を共有している時点で、その記録を絵によって確認したり、動画によって追体験したりする人間よりはアドヴァンテージがあるだろう!」
……と、切り替えされる始末でして・・・
「いや、その、アドヴァンテージの競争が議論の眼目にはあるわけではないのですが……」
「なら、だまって任務遂行しなさい」
……とのことでした。
いろいろな屁理屈をつけて任務を拒否するディスクールをこしらえ、抵抗していく戦略はリスクが高いということは承知でしたが、例の如くでした。
ただ、言語によってどこまでも徹底的に追及していく姿勢は大切なのだろう、そしてそれが言語を媒介しながら、相互理解を深めていく人間世界においては必要不可欠だろう、と自覚する次第ですから、「負ける戦」であっても挑戦を辞めない宇治家参去でした。
なにしろ人間という生き物は「自己に反しては、生きることそのものとしての生に刻印されている」わけですから・・・。
否、むしろ「苦しみの逆行性という用語で、意志を語らなければならない」のでしょうから。
ということで、挑戦を辞めない訳なのですが、生きている現実生活世界に対する違和感だけでなく、別の違和感もあり・・・
起きてから顔にも違和感があり、奇妙な頭痛と微熱に悩まされていたところ……、、、
帰宅してから病院へ行ってみると、
「流行性耳下腺炎」……いわゆる、おたふく風邪になっていたようでした。
潜伏期間3-4週間!
11月中盤に感染した息子殿からのプレゼントのようでした。
顔がバナナマンのようになってしまいました。
※これは息子殿からの揶揄の表現ですが、宇治家参去自身は当の「バナナマン」を知りません。
大人になってなるわけがない……とタカをくくったのがしくじりの元のようです。
子供時代にはかかっていないわけですが……。
週末の名古屋出張までには、治しますワ。
とりあえず、病原菌を、すうぱあどらいにて消毒中です。
死ぬほどの病魔との闘争は経験がほとんどありませんが、いわゆる日常的な病魔?との闘争は日常茶飯事です。
ただしかし、そのことにより感覚が鋭敏になるという意味では、天から不思議なプレゼントなのかもしれません。
なにしろ、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が説くとおり「苦痛の可能性とは感受性であり、感受性の本義は痛みを覚えうるという感応性である」からです。
ということで、おやすみなさい。
存在の彼方へ (講談社学術文庫) 著者:E. レヴィナス |
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