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これが智慧不足というやつでしょうか

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 真理の探究における最大の障害はけっして単なる知識の欠除にあると考えてはならないという見解は、啓蒙主義哲学のなかでさまざまな形をとり、種々の言廻しによってくりかえし表現された普遍的公理に他ならなかった。われわれの知識がこの種の欠陥をもっていることは疑いのないことであり、事実われわれは認識過程の一歩一歩ごとにその不確実さと不安定さを痛感するわけであるが、われわれがこの限界をひとたび意識するようになりさえすれば、それは格別の危険を意味することはない。認識が犯す誤りは認識それ自身の内在的進展の過程のなかでおのずから正されるし、われわれの認識の錯誤もまたわれわれが認識を自由な展開に委ねさえすれば自然に除去される性質のものである。むしろいっそう重大な結果を惹起するものは、実は単なる認識の不十分さに起因するのでなく認識方向の転倒に由来する誤謬である。われわれが最も恐れるのは単なる否定ではなくして倒錯である。認識の真の尺度のこのような転倒もしくは変造は、われわれが到達しようとする目標をあらかじめ先取しそれを各種の究明に先んじて固定しようとするや否やただちに発生する。懐疑ではなくて独断こそ認識の最も危険な敵に他ならない。つまり無知一般でなく、自らを真理とふれこみ自らを真理として押し通そうとする無知こそ、認識に対し最も致命的な害を与えるものなのである。なぜならば、ここでは誤謬ではなくて欺瞞が、つまりたまたま発生したという錯誤ではなくて、精神が自らの咎によって迷妄に落ちこみいよいよ果しなくそれに巻きこまれてゆくという事態が問題だからである。そしてこのことは認識についてにとどまらず、信仰についてもそのまま妥当する。信仰に対する真に根本的な対極は不信ではなくて迷信である。なぜならばそれは信仰の根を掘り崩し、真の宗教心が湧き出る源泉を涸らしてしまうからである。それゆえここに認識と信仰は共同の敵に対することとなり、迷信に対するこの両者の闘争はこの時代が解決すべき最初のしかも緊急な課題なのである。この際にのぞんで両者は連合せねばならないし、また連合することができるのである。そしてこの連合の基礎のうえに立って、はじめてこの両者相互の協定と、たがいの領域の決定とが遂行されるであろう。
    --エルンスト・カッシーラー(中野好之訳)『啓蒙主義の哲学』紀伊國屋書店、1997年。

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俗流啓蒙主義は、知識を蓄積し積み重ねることによって人間は無限に進歩できると吹聴したわけですが、本来的な啓蒙主義は、知識の積み重ねにまったく主眼をおいておりません。

知識が力となるし、武器にもなります。
ですから、啓蒙主義のあと(ポスト)にでてきた思想潮流は、その暴力性を批判したわけで、その批判も否定できません。

しかし人間には知識を貯えていくことは、生活世界においては必要不可欠の学習であり、通俗的な言い方ですから、それをどのように展開=認識していくのか、ということのほうが問題なのでしょう。

人間の知を軽んじ、一種の科学とかし、イデオロギーが擬似信仰として猛威を揮ったファシズム全盛期を生き抜き、「知」の橋頭堡を守り抜いた哲学者カッシーラー(Ernst Cassirer,1874-1945)の次の言葉は含蓄深いものがあります。

「むしろいっそう重大な結果を惹起するものは、実は単なる認識の不十分さに起因するのでなく認識方向の転倒に由来する誤謬である。われわれが最も恐れるのは単なる否定ではなくして倒錯である。認識の真の尺度のこのような転倒もしくは変造は、われわれが到達しようとする目標をあらかじめ先取しそれを各種の究明に先んじて固定しようとするや否やただちに発生する。懐疑ではなくて独断こそ認識の最も危険な敵に他ならない。つまり無知一般でなく、自らを真理とふれこみ自らを真理として押し通そうとする無知こそ、認識に対し最も致命的な害を与えるものなのである。なぜならば、ここでは誤謬ではなくて欺瞞が、つまりたまたま発生したという錯誤ではなくて、精神が自らの咎によって迷妄に落ちこみいよいよ果しなくそれに巻きこまれてゆくという事態が問題だからである」

知識のもつ負性を自覚しつつも、人間は知識によってしか、人間として存在することができないのかもしれません。

端においやればおいやるほど、まともとに向かい会わなくなればなるほど、人間は人間から遠ざかり、転倒と独断、億見と誤謬が時代と状況、そして生きているひとびとを席巻していくのかもしれません。

さて、来年度の課題をひとつ。
知識に関しては……職業上ですのでアレですが……ある程度の蓄積と応用は効く?ハズなのですが、うまく機能しておりません。

いうなれば、「認識が犯す誤りは認識それ自身の内在的進展の過程のなかでおのずから正され」なければいけないわけですがそうならず、「われわれの認識の錯誤もまたわれわれが認識を自由な展開に委ねさえすれば自然に除去される性質のものである」のですが、そうなりません。

ひらたい俗の言葉になりますが、来年度は、知識を智慧に転換しゆく学びの一日一日でありたいと希う宇治家参去です。

しかし、知識を智慧に転換するにはどのようにすればよいのでしょうか?

読者諸兄の訓戒を頂戴したいと思いつつ、昨夜は、安物ですがスパークリングワインを1本頂戴しました。

「また、かよっ!」

……ってツッこまれそうですが、一昨日、また風邪を引いたようです。
今回は、熱風邪ではないのですけど、鼻と喉が機能不全に陥っておりましたので、薬を飲んでから、軽くアルコール消毒をしたわけですが……。

あまり効果がなかったようで。。。

これが智慧不足というやつでしょうか。

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