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日本の近代文学史上に現れてては消えてゆく数えきれないドストエフスキイ教の狂信者たち

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 おもうに、ひとりのひとが、その一生でドストエフスキイの文学と邂逅するかどうかは、まったくの偶然に属する。にもかかわらず、そのひとがドストエフスキイの文学から、ベルジャーエフのいう「火の洗礼」をうけるかどうかは偶然に属する事象ではなく、そのひとの内部にそれを邂逅と受けとる土壌が存在しているかどうかという、いわば必然に属する事象なのである。ドストエフスキイの文学のなかで重要な役割を占めている偶然の出来事というものも、やはりこの意味において理解されるべきである。
 ラスコーリニコフがマルメラードフやスヴィドリガイロフに出遇うのは、まさに偶然であるが、出遇った相手のなかにマルメラードフやスヴィドリガイロフという精神体を見出すのは、ラスコーリニコフがその深層心理のうちにこういう精神体を潜ませていたからにほかならない。マルメラードフやスメルジャコフはラスコーリニコフの分身にすぎない、という表現さえあるいは可能である。
 さて、日本の近代文学史上に現れてては消えてゆく数えきれないドストエフスキイ教の狂信者たち--それはまさに憑かれた人びとと呼ぶにふさわしい--を。わたしたちは知っている。かれらはドストエフスキイの顔に、その文学に、その文学の背負いびとであるラスコーリニコフの顔に、文学に、その文学の背負いびとであるラスコーリニコフに、イワンに、スタヴローギンに魅せられている。かれらは各々の資質と歴史と社会的立場とに応じて、それらの登場人物に共振し涙し憤怒し惑溺するが、それはすべての内部に渦巻く欲望や憧憬や不安や恐怖などの観念を、ドストエフスキイが登場人物によく形象化しているからである。ドストエフスキイの文学に邂逅するとは、いわばこの自己の内心に対面することであり、それはひとにとって必然の出遇い意外の何物でもないだろう。
 ドストエフスキイの文学とは、ひとことでいえば、かれそのひとの脳髄深く荒れ狂う詩想の表現である。それゆえにここには、文学以前の、あるいは文学胚胎の息吹がある。
    --松本健一『ドストエフスキイと日本人(上) 二葉亭四迷から芥川龍之介まで』第三文明社レグルス文庫、2008年。

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竹内好(1910-1977)、橋川文三(1922-1983)の流れを組む、文芸評論家・思想史家の松本健一氏(1946-)のドストエフスキー論が増補再刊されていたので……といっても昨年ですが……ようやく読み始めたところです。

もともとは朝日選書で刊行された一冊ですが、なかなか入手しがたく、、、十五年以上も昔、古本屋でようやくめっけたことによろこんだことを昨日のように覚えております。

現在、ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)に関しては新訳の刊行により、にわかにブームの様相を呈しておりますが、現在の状況がひとつのブームであったとしても、伝統的に、日本人はトルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828-1910)よりも、ドストエフスキーを好んで受容してきた経緯があり、その消息をつまびらかにした一冊ですから、わくわくしながら再読している宇治家参去です。

さて、読み始めると、頗る「確かに!」というのが多々ありますが、判ったことのひとつは間違いもなく宇治家参去自身が、「ドストエフスキイ教の狂信者」であり、まさに「憑かれた人びと」のひとりである、ということでした。

「すべての内部に渦巻く欲望や憧憬や不安や恐怖などの観念を、ドストエフスキイが登場人物によく形象化しているから」こそ、その繊細な筆致の描く状況にのみこまれてしまうというやつです。

光明から対象を見出すよりも、暗闇からおぼろげに輪郭を示し出す対象へアプローチするところがたまらない次第でして、、、。

たしかに、「ドストエフスキイの文学に邂逅するとは、いわばこの自己の内心に対面することであり、それはひとにとって必然の出遇い意外の何物でもない」のでしょう。

偶然なのですが、読み始めると必然になるのがドストエフスキーの醍醐味でしょう。
ただ、それはさんざん飲んで最後に重く締めた飲んだ後のラーメンが翌朝の胃に響くよりも、脳内に深い共鳴を残していきますので、ある意味では火傷必死ですが、その火傷がマア心地よいというところです。

さて・・・
昨日のアレでげふげふしながら仕事をして、帰宅すると、

「湯豆腐」がセットされておりました。

ありがたし、細君。

それでは、「湯豆腐」に応えなければなりません。

……ということで、とっておきの限定エビスで一杯やってから沈没しようかと思います。

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Book ドストエフスキイと日本人〈上〉二葉亭四迷から芥川龍之介まで (レグルス文庫)

著者:松本 健一
販売元:第三文明社
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