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「つまらん、おまえのはなしはつまらん!」……って言われないように

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 しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである。単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない。この知識が教科課程や試験規定によって実用的に最も重要なものだけに絞られたところで、それは決して知ではない。必要欠くべからざるものだけに引き絞られたこの知識は「生活に近親」ではあろうが、しかしそれを持つことは決して知ることではない。こんな知識を持ち運び、さらには若干の実用的な小細工をおぼえ知っているような人は、しかもなお真の現実に直面すると真の現実はいつも俗物が生活や現実に近親であるという後で理解しているものとは違うものだから、途方に暮れて、きっと不器用者になることであろう。なぜだろうか? 彼は知を持っていないからである。というのは、知るとは習うことができるというということだからである。
 習うことができるということは、問うことができるということを前提している。問うとは、まえに説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことができることへの決-意である。われわれがいま問題にしているのは、等級から言って第一の問いを問うことなのだから、志すと言い知ると言っても、それはともに明らかに根源的に独特な種類のものである。したがって、この疑問文は、たとえそれが真に問いつつ言われ、ともに問いつつ開かれるとしも、やはりこの問いを余すところなく伝えはしないであろう。この問いはこの疑問文の中に聴き取れはするけれど、いわばまだそこに閉じこめられ、からみこんでいるので、まずこれをほぐし出さねばならない。そのさい、問いの態度が明らかにされ、確かにされ、訓練によって固定されねばならない。
 われわれのさしあたっての課題は、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」という問いを展開することである。
    --M.ハイデッガー(川原栄峰訳)『形而上学入門』(平凡社、1994年)。

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市井の職場……学問一本で食べていくことができないのがチト情けないわけですが……はGMSになりますので、マア、総合スーパーということですが、衣料品から家庭雑貨・電気機器、食品まで扱いますので、その問い合わせが多岐におよび、かなり頭を悩ませます。

部門の所属は店長直轄のナイトmgrになりますので、実は専門性が全くありません。
家庭用品-電化製品とか、衣料品-子供衣料、とか、食品-生鮮-畜産、というわけでないので、まったく「専門性」がありません。

基本的には売り上げ構成比の関係から、食品をメインとして担当しますが、担当する時間帯での統括になりますので、「専門性」を確立する必要がないといえば、ないのですが、「専門性」が強く要求されることが多くしばしば頭を悩ませます。

なにしろ……、単なる「素人」にすぎませんから。

ですけど……、
専門家?が終業したあとの時間帯を担当していることになるわけですが、にもかからわず、それでも専門的な問い合わせ、質問、というものはあるわけです。
簡単に対応できる事案がほとんどですが、それでもなお、ときおり、かなり細かい「専門知」が必要とされる事案に遭遇してしまうわけなのですが、分かる人間はいない…… ⇒ そうすると、事案を受けた人間は・・・

「とりあえず、宇治家参去さんにまわそう、応対をかわってもらおう!」

・・・となってしまい、

こちらの瞳を眼差し、問いを発する人間の無限大の倫理的拘束@レヴィナスに絡め取られてしまう……という寸法です。

短絡的な「連携」といえば「連携」なのですが、応対する人間としては「たまったものではない」という事案が多く、頭を悩ますことがよくあります。

おまけに年末で、いつもよりも来店者もおおくなりますし、時節的なネタもおおくなり、さらに頭を悩ませてしまうという状況です。

「快気祝に花束をつくりたいのですが、入れるとマズイ花ってありますかね?」
「この~カシミヤ○○%と、100%って、着た感じはやっぱ違うの?」
「フルHDとHDTVって何が違うの? 宅はこういう環境だけど、使えるの?」
「青森産と、岩手産って味の違いがあるのかねぇ? ついでに調理方法は? どうやって食べるのが一番おいしいのかねぇぇ???」

……って、そそくさに質問されても、こちらも即答できないわけですし、待たせるとぶち切れられるのが常道ですので、汗をかきつつ、しらべつつ、丁寧に対応する毎日です。

まさにハイデガー大先生(Martin Heidegger,1889-1976)の言うとおり、「知るとは真理の中に立ちうるということ」なのでしょう。

知るとは単に、ものごとの名称を「知る」以上の沃野を秘めた「問い」なんです。

そのことは、ハイデガー大先生に諭していただく前から存知のことなのですが、、、上のような自分自身にとって機知ではない=門外漢の問いに直面すると、あたふたする始末です

もちろん、完全に応答しようのない「問い」に関しては後日折り返し対応にてスルーしますが、問いを発する存在者は、やはり「即答」を求めるのが「筋」という奴ですから……、最大限に対応するわけでして……けっこう疲れ果ててしまうという寸法です。

しかしながら、問う人が「問う」ということは「知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことができることへの決-意である」であるわけですから、その決意には真摯に対応せざるを得ません。

ですから、これから数日、「突拍子もない問い」と格闘しなければならないわけですが、それでもその応対のなかで、自分自身の知の枠組みが強制的なわけですけれども「拡大」されていく……という意味では良い機会……と捉えた方がベストかもしれません。

さて……
今回の最大の、時節的質問が数時間前に到来しましたが……

「正月飾りの飾り方」

をいをい!!!

地域差もありますし、おまつりしている神仏の問題あるんですワ……これ。
種々調べて応対し、今回はことなきを得ました!
※「つまらん、おまえのはなしはつまらん!」、って大滝秀治(1925-)的にスルーしたいのが本音ですけど。

ともかく……

「よっしゃ! 明日も来いや! 万全だぜ!」

……ぐらい、学習しました。

しかし、そこに奢っては、ハイデガー大先生に叱られるというやつでしょう。

なぜなら「単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない」わけですから……。

http://www.youtube.com/watch?v=9wsHgR8zXIU

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