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「その人間の学ぶべきことはもう少ししか残っていない」わけでなく……

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 情熱をいだいて生きるということは、同時に苦悩をいだいて生きるということだ。つまりそれは、情熱の平衡錘であり、修正であり、釣合いであり、償いなのだ。一人の人間が--紙の上ではなく--自分の苦悩の内にたった一人でふみとどまり、他人もそうした苦悩を<<分ち合って>>くれるという、幻影である逃亡の欲求に打ち克つことを学んだときには、その人間の学ぶべきことはもう少ししか残っていない。
    --カミュ(高畠正明訳)『反抗の論理 カミュの手帖--2』新潮文庫、昭和五十年。

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今年のテーマは、「きちんと生きる」ということにつきそうです。

どうも「きちんと生きる」ということが遂行できていないところがあり、できていないからこそ、苦悩の方がめだつことが多かったのですが、今年はそのあたりに「きちんと」手を入れていこうかと思います。

情熱的に生きてはおりませんし、情熱的に生きることに抵抗もありますし、そう生きていこうとも思いませんが、自分自身における陽の部分はやはり厳然としてあることだけは否定することができません。

しかし、その「陽」の部分は自存することができませんし、同じようにその対局にある苦悩としての「陰」の部分も自存することはできないのでしょう。しかし、生きているとどちらかに偏って、その一方を無視してしまうことの方が多々ありますから、そこで振り回されてしまうのではないだろうか……密かにそう思う宇治家参去です。

前者に流れれば「ハイ」となり、後者に押されれば「ロー」となるのでしょう。しかし、「ハイ」にしても「ロー」にしても、イデアのような自存的価値ではなく、関係性のなかで低位される概念ですから、偏ってしまうことをさけていかなければならないのですが、なかなかそこが難しいところです。

ですけれどもこの陰陽としての両者が有機的な相関関係を構築することができれば、互いに「修正」ができ、「釣合い」がとれ、「償い」が可能になるのかもしれません。

ま、自分の場合は、どちらかといえば後者に押されてしまう傾向が顕著にありますが、ことしは、そうした有機的な相関関係を構築しながら生きていきたい、平たい言葉で言えば「きちんと生きる」ということになるかなあと思う次第です。

さて、明日。

細君と息子殿が東京へ戻ってきます。

これが実に、助かりました!

カミュ(Albert Camus,1913-1960)がいうとおり「他人もそうした苦悩を<<分ち合って>>くれるという」ことは幻影だとは承知なので、苦悩を<<分かち合って>>くれる存在者が帰還するという夢想は横に置きつつも、リアルな部分で、助かったなと思う次第です。

年末に細君が帰省するまえに、当座の軍資金を少しおいて帰ってくれていたのですが、帰った翌日に、その軍資金で欲しかった洋書を購入してしまい、残った少々の金子でだましだまし生活をしておりましたが、財布をあけてみるともはや22円の宇治家参去です。

「うおぷしっ」

……とは思いつつも、

煙草、酒、食料の類のストックはなんとかもちこたえそうですので、なんとか乗り切れそうで安堵しつつ、助かった!とほのかに喜ぶ浅知恵者です。
※ただし、生活用の軍資金を他事に流用したという意味では「きちんと生きる」というテーマから逸脱してしまう事業ということになりますが、これは昨年年末の出来事ですので、大丈夫……ということにしておきましょう、また22円も残っておりますし!!

ただし、安堵だけでなく懊悩もでてくるのがこれ、人間世界の常であります。

なにゆえなら、気ままにひとりで暮らしておりましたので、まあ、部屋があれ放題……というところまではいっておりませんが……といいますか、掃除をしておりませんので、このヘンをクリアーしておかないと、たらたらと文句を言われてしまいそうで……悩む次第でございます。

ともあれ、明日、起きてからやりましょうか……。

さて……

しかしながら、「一人の人間が--紙の上ではなく--自分の苦悩の内にたった一人でふみとどまり、他人もそうした苦悩を<<分ち合って>>くれるという、幻影である逃亡の欲求に打ち克つこと」ことが大切なのは、アタマの中では納得しておりますし、「紙の上」では理解しているつもりですが、懊悩を抱きつつも、安堵するという精神構造……他者に頼るという精神構造・心根……を否定できないという意味では、そのことを自分自身のこととして学んでいないのかもしれません。

ですから、「その人間の学ぶべきことはもう少ししか残っていない」のではなく、その人間としての宇治家参去の場合は、まだまだ「学ぶべきこと」がいっぱい残っているのかもしれません。

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