« 絶対に風邪と花粉症にかからぬ妙法、御存知の方はありませんか。 | トップページ | 人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている:吉野作造の生まれた日 »

思想家として三流覚悟ですが、、、親バカしていいですか???

01_img_1196

-----

 「だいぶ以前のことですが、それとよく似たことをある医者がわたしに話してくれましてね」と長老が口をはさんだ。「すでに年もいっていて、文句なしに頭のよい人でした。その方が、あなたと同じように率直に話してくださったのです。冗談まじりに、といっても、けっして笑える話ではありませんでしたがね。その人が申すには、わたしは人類愛に燃えているが、自分に呆れることがある。というのも人類一般を好きになればなるほど、個々の人間を、ということはつまり一人一人を個々の人間として愛せなくなるからだ、と。自分は夢のなかで、人類への献身という狂おしい考えにたどりつき、何かの機会に不意に必要が生じれば、じっさいに人々のために十字架にかけられてもいいとまで思うと申すのです。そのくせ、同じ部屋でだれかとともに過ごすことは、たとえ二日でも耐えられない、それは経験でわかる。だれかが自分の近いところにいると、それだけでもその人の個性に自尊心をつうされ、自由を圧迫されてしまう。どんなによい人でも、自分は一昼夜のうちに相手を憎みだしてしまうかもしれない。ある人は食事がのろいから、またある人は鼻かぜをひき、しょっちゅう鼻をかんでばかりいるからといって。
 また、こう申すのですよ。人がわたしに少しでも触れるがはやいか、自分はその人の敵になってしまう。でもそのかわり、個々の人間に対する憎しみが深くなるにつれ、総じて人類に対する愛はいよいよはげしく燃えさかるとね」
 「でも、いったいどうしたらよいのでしょう? そういう場合、どうすればよいのでしょう? だとしたらもう、絶望するほかないでしょうか?」
 「いいえ、そんなことはありません。あなたがそれを嘆いているということだけで十分なのです。できることをなさればよいのです。そうすれば、それだけの報いはあるのです。あなたはもうたくさんのことをなさっている。なにしろ、それぐらい深く真剣に自分のことを知ることができたのですからね! あなたがさっき、あれほど心をこめてわたしに話したことが、もしも自分の誠実さをわたしに褒めてもらうためだけのものだとしたら、実践的な愛という行いの点で、むろん達成できないでしょう。結局のところ、何もかもたんなるあなたの夢で終わり、人生はまぼろしのように過ぎ去ってしまいます。そのうち、来世での生活のことも忘れ、しまいにはなんとなく自分に安住しておしまいになることが目に見えています」
 「返すことばもありません! いま、この瞬間になってわたしはやっと悟りました。感謝されないことに堪えられないとさっき申し上げたとき、わたしはじっさい、あなたがおっしゃったとおり、自分の誠実さを褒めていただくことばかり期待していました。あなたはわたしに、自分がなんであるのか教えてくださいました。わたしをとらえ、わたしにわたしの正体を説明してくださったのです!」
 「本心でそうおっしゃっているのですね? あなたがそれだけ告白なさったのですから、わたしも信じることができます。あなたが真摯な方で、善良な心の持ち主であるということです。たとえ幸せにたどりつけなくても、自分の道はまちがっていないということを、忘れずにいるのですよ。そして、その道からはずれないように努力するのです。大切なのは嘘を避けることです。どんな嘘も、とくに自分自身に対する嘘は。自分が嘘をついていないか観察し、一時間ごと、いや一分ごとに、自分の嘘を見つめるのです。そして相手が他人であれ自分であれ、人を毛嫌いするということは避けなさい。自分のなかで忌まわしいと思えるものは、それに気づくだけでも浄化されるのですから。恐れるということも避けなさい。もっとも、恐怖というのはありとあらゆる嘘の結果にすぎませんがね。
 実践的な愛を成就しようというときに、ご自分の小心さをけっして恐れてはなりませんよ。そのとき、あなたがよくない行いをしても、さして怯えるに足りないことです。あなたに何ひとつ慰めとなる言葉をかけられないのが残念ですが、実践的な愛というのは空想的な愛とくらべて、なにぶんにじつに残酷で恐ろしいものだからですよ。空想的な愛は、すぐに満たされる手軽な成功を求めて、みんなに見てもらいたいと願うものです。そうなると、成功に手間ひまかけないで、舞台みたいに少しでも早くなしとげてみなの注目を浴び、褒められたい一心から、自分の命まで投げ出してしまうことになりかねません。
 それに対して実践的な愛というのは、仕事であり忍耐であって、ある人に言わせれば、これはもう立派な学問といえるものかもしれない。しかし、あらかじめ申しておきますよ。どんな努力にもかかわらず、たんに目標に近づけないばかりか、むしろ目標が自分から遠のいてしまったような気がして、ぞっとする思いで自分を省みるような瞬間さえ、--いや、まさにその瞬間に、もういちど申し上げますよ、あなたはふいに目標に到達し、つねにあなたを愛し、ひそかにあなたを導いてきた神の奇跡的な力を、自分の身にはっきり見てとることができるのです。お許しください、向こうで人が待っておりますもので、これ以上あなたとご一緒できません。ではまた」
 夫人は泣いていた。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟 1』光文社、2006年。

-----


もういい加減、『カラマーゾフの兄弟』を卒業しなければならない……日記のネタとして……わけなのですが、どうしても考えざるを得ない「事件」が到来してしまいましたので、諄いようですが冒頭に引用させて頂きます。

理念(観念)と現実の相剋に悩むのが生きている人間の実情です。

前者に引っ張られすぎると、観念から現実の人間を規定する方向性です。
いうなればギリシア神話に出てくる「プロクルーステースの寝台」というやつです。山間の街道に出没するアッティカの盗賊プロクルーステースは、捕まえた旅人に対して、このベッドのサイズに合えば命を助けてやるというわけですが、ベッドのサイズにあわないならばあうようにその体を刻んだようですけども、理念が無批判に優先されてしまうと現実の存在者を引き裂いてしまう……そういうところがあります。

大抵において、それは理念先行型の職業革命家によって担われてきたのがその歴史でしょう。

対して、理念を無視してしまって現実の生々しさのみを見続けてしまうと、理念が絵空事と移ってしまい、理念に対して、「現実をもっとみろよ」というエセ現実主義者になってしまうのでしょう。ただし「現実をもっとみろよ」と言いつつも、そこでは全体の中で現実を見ているわけではありません。ですから自室へ後退しつつ、現実から引き下がってしまうシニシズムが実はその消息です。

構造としては全く対極に位置するスタンツですが、その心根は同根です。

理念を優先するにせよ、現実を優先するにせよ、そこにある視座は、理念からも現実からも遠ざかってしまうという、いわば抽象化の問題です。

理念にとことん集中することで現実を平均化してしまいますと現実を抽象化するだけでなく、現実から生み出されたはずの理念そのものも抽象化してしまいます。
同じように現実にとことん集中することで一極しかみえなくなってしまうと現実という豊かな地平を抽象化してしまい、理念も現実も見えなくなってしまいます。

それが実情なんです。

しかし、ひとはどちらかに重きをおいて、ものをみてしまいます。
その方が、たぶん楽だからなのでしょうから。

人間とは何か。

これは古来より続く哲学・倫理学・宗教学の大きなテーマです。
理念先行で人間観が先に立ってしまうと、生きている人間を分断してしまいます。
しかし同じように現実先行で状況が先に立ってしまうと、ぐだぐだ生きている人間を本来的に積極的に批判しその状況をレコンキスタすべき理念の視座を欠如してしまい、超低空飛行の末迷走してしまうというものです。

だからこそ、理念にせよ現実にせよ、両方を携えて生き抜くしかないわけなのだと思います。

どちらが先とか優先されるべきという問題ではなく、相互批判しながら、生きていく、そこに実は「人間とは何か」が肯定的な問いとなり、理念が昇華され、現実が彩り豊かなものへと天下されるべきヒントがあるわけなのですが、、、なかなかうまくできない・・・というのが人間生活世界を多う状況なのかもしれません。

だからこそ、人を人類として扱うのか、人類を人として扱うのか……大問題になるわけです。


ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)は強烈な理想主義者(人類志向)であると同時に、現実の生活は放蕩無頼なぐだぐだなところ(現実〔個別の存在者〕志向)がありました。

だからこそ、理念としての人間と、現実としての人間を悩み抜いたのかも知れません。

人類のために何かをしたい。しかし現実の人間には頭がくる。
おいらはどうすっぺ……というところでしょうか。
ただエライのは前者にも、そして後者にも開き直らなかったというところでしょうか。

はっきりいえば自分自身は、心根としては前者志向、つまり理念先行であったことは否定できません。幼少時の家庭教育に起因しますし、そういう学問……広義の哲学とはやはり理念先行……に携わってきたことに起因しますのでどうしてもその感覚を払拭することができません。

しかしそこにひっぱられすぎると現実から遠ざかってしまいますし、理念なんてどうでもいいやってなってしまいますと、現実を開拓することができません。

ですから、目下の課題は、理念と現実をどのように有機的に相関的に結びあわせていくか……というところでしょうか。

そうしたヒントをくれたのは、細君だったかもしれません。

語弊を生むような表現ですが、好きで結婚した相手ではありません。
語弊を生むような表現ですが、この「好きで」というのは「大恋愛の末」という意味での「好き」という意味です。

お見合いで結婚しました。
間違いのない相手だと思いお互いに決断しました。
24時間、好きで好きで好きだよ~って感覚とは違います。
ですけどお互いに「大切に」はと思っております。
※この辺は本論からはずれるので突っ込まないように!

で……。
その細君から、

「盗賊に私が襲われなぶり殺しにされて、犯人が捕まったら、どう思う?」

などと聞かれたことがあります。

まあ、正直いやな質問です。

すべてのひとのいのちには、ダイヤモンドのような他者の介在をゆるさざる光り輝くものが内在するはずだ!……との信念から(理念を優先させる?)、次のように答えた記憶があります。

つまり・・・

「いかなる意味においても、死刑を許容することには賛同できないですし、特定の個人のみを相手にするのではなく、すべてのひとを対象とする哲学者の立場としては、要するに哲学とは個別の存在者のみを相手にする特殊個別のかたよった志向をさけ、すべてのひとを問題にする普遍性を探求するというスタンツから、あなたひとりを特別視することは不可能・・・」
※もうひとつ補足ですが、死刑の賛否に関して議論がしたいわけではないので突っ込まないように!

……と答えたところ、

「薄情者!」

……とどやされた記憶があります。

その頃からでしょうか。。。

すべてのひとの問題と、個別のひとの問題、少し抽象化すれば理念と現実の問題に頭を悩ませるようになりました。

そのなかでヒントをくれたのはくどいようですが、やはり思想の師と仰ぐエマニュエル・レヴィナス先生(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の言葉でしょうか。

少し長くなるが引用します。

-----

 ポワリエ 他人はみなそれぞれかけがえのないものですけれども、私たちは全員をひとしく愛することができません……
レヴィナス まさしく、それゆえに、私たちは、私が倫理的秩序あるいは聖性の秩序あるいは慈悲の秩序あるいは愛の秩序あるいは慈愛の秩序と呼ぶものから出てゆかねばならないのです。いま言ったような秩序のうちにあるとき、他の人間は、彼がおおぜいの人間たちの間で占めている位置とはいったん切れて、私とかかわっています。私たちが個人として人類全体に帰属しているということをとりあえずわきにおいて、かかわっています。彼は隣人として、最初に来た人として、私にかかわっています。彼はまさにかけがえのない人であるわけです。彼の顔のうちに、彼がゆだねた内容にもかかわらず、私は私あてに向けられた呼びかけを読みとりました。彼を放置してはならない、という神の命令です。他なるもののために、他なるものの身代わりとして存在すること、という無償性の、あるいは聖性のうちにおける人間同士の関係がそれです!
ポワリエ 質問を繰り返すことになりますが、私たちは全員をひとしく愛することができません。私たちは優先順位をつけ、判別します……
レヴィナス というのも「全員」(Tout le monde)という言葉が口にされたとたんにすべてが変わってしまうからです。その場合には、他人(l'autre)はもうかけがえのないものではなくなります。この聖性の価値--そしてこの慈悲の高まり--は、全員が同時に出現するという事態になれば、他の人たち(les autres)との関係を排除することも、無視することもできなくなります。ここで選択という問題が出てきます。私は「内存在性からの超脱」(des-interessement)を果たしながら、今度はいったい誰が際立って他なるもの(autre par excellence)であるのかを特定することを迫られるのではないでしょうか?評価(ratio)という問題が出てきます。裁きの要請が出てきます。そのときまさしく、「かけがえのないものたち」(uniques)のあいだで比較を行うという要請が、彼らを共通の種属に還元するという要請が出てくるわけです。これが始原的暴力(premiere violence)です。かけがえのない唯一性(unicite)に対する異議申し立てです。
    --エマニュエル・レヴィナス、フランソワ・ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性--レヴィナスは語る』国文社、1991年。

-----

そう。

「私たちは全員をひとしく愛することができません」のです。
「私たちは全員をひとしく愛することができません。私たちは優先順位をつけ、判別」するのが現実なんです。ま、だからこそ理念との齟齬が出てくるわけですが・・・。

ですけどのそまま放置プレーすることもできません。
つまり「全員」(Tout le monde)のなかに還元不可能な「他人」(l'autre)を見出し、還元不可能な「他人」(l'autre)の顔のなかに「他人」(l'autre)を見出すしかないのでしょうね。

そのあたりを頭をなやませつつ、格闘している毎日です。

「かけがえのないものたち」(uniques)たちにこだわらなければならないんです。
ですけど全体から切り離された「かけがえのないものたち」(uniques)も存在しないのかもしれませんし、「かけがえのないものたち」(uniques)を見失った全体というものもないのかもしれません。


……ということで表題にもどります。

自分の子供を愛する。
そして自分の子供を愛するように、他者を愛する。
通俗的ですけども、このことが生きる上では必要なんです。

前者に集中してしまうと、親としては、まかりまちがえばモンスターなんとやらになってしまうんです。全体から切り離された状態という奴ですね。

そして自分の子供よりも、全体としての人類に集中してしまうと、個別の存在者から切り離された全体という抽象化された立場が現出され、人間を目的としてではなく手段として扱う立場になってしまうんです。個別の存在者から切り離された状態という奴ですね。

それを丁寧に避ける必要があるんです。

でもどうやってあつかうのかの段になると悩むわけですが、長谷川平蔵としては……便宜的な方法論で恐縮かつ実際には役に立ってないのですが……、なるべく「個別」よりも「全体」を優先しつつ、私的空間においては、最大限においては最大限に接するようにと心がけております。
※ただその表現は、細君からすると、やっぱり、理念としての全体を優先していて、個別の存在者を顧みていないとの批判が多いようですが(苦笑)。

つまり、パブリックな局面では、自分の子供であったとしても、一個の存在者として、異なる他者とえこひいきしないけれども、プライベートな局面においては、最大限に尊重するというところでしょうか・・・。
※これまた細君にいわせるとそれができていないというツッコミがありますが。

ただ、そういう認識であったとしても、そこを逸脱する心も出てくるんです。

そう、表題に戻りましょう。

理念と現実をつなぎ止めるきちんとした思想家であれば、それを完璧に遂行できます。そして長谷川平蔵自身もかくあるべしと努力しております。

しかしできませんでした。

そう、表題に戻りましょう。

「親ばか」がどうしても出てくることがあったんです。

まあ、くだらないことです。

息子殿が書いたイラストが、とある子供向けの雑誌に掲載されていたんです。
※くどい注釈が多くてスイマセンガ、要するに子供向けのゲームやマンガの雑誌であり、こういうものを読むこと自体に教育上観点からは、ほかに優先されて然るべきという発想ですので、それ自体を容認することに異議があるわけですけれども……またクドイ注釈の通釈ですが一応念のため、、、マンガ、ゲームを否定しません、やっていいと思います、ただし優先順位という観点では息子殿には他事を優先すべきという立場から……。

哲学、宗教を論ずる思想家の立場としては、抵抗があるわけですが・・・

息子殿が苦労して……懸賞で欲しいのがあったので応募したようですが……描いた一枚のイラストが載っていたようで……。

正直に、ストレートにストライクに話します。

親として「嬉しかった」次第です。

あぁ~あ、恥ずかし。

あぁ~あ、もっとも禁忌すべきアレをやっちゃいました。

プライベートな空間でなら小声でいってもいいんです。
パブリックに対してまで嬉しさを表現しちゃいました。

「親バカ」という奴ですね。

ちょいとダサイです。

思想家としては失格です。

ですけど、ちょいと嬉しかったです。

息子殿に、「よかったねぇ~」って誉めてやりたいです。

ですけど、う~ん、やっぱダサイ。

02a_img_1197 03_img_1038

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫) Book カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 絶対に風邪と花粉症にかからぬ妙法、御存知の方はありませんか。 | トップページ | 人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている:吉野作造の生まれた日 »

哲学・倫理学(現代)」カテゴリの記事

コメント

名スクではお世話になりました。

お子さん、おめでとうございました☆
親○○、とっくに気が付いてましたが?(*- -)σ 


カラマーゾフ、やっと読み始めました。
ありがとうございました。

お体ご自愛下さいませm(_ _)m

投稿: надежда | 2010年1月31日 (日) 05時34分

надежда さんゑ

先月の名古屋では拙い講義を聴いて頂き、ありがとうございました。

で……、ハイ、ダサイ話ですが、ちょいと「親ばか」やってしまいました。

ですけど……、ばれていましたかっ!
こんどは、ばれないようにスマートにやっていこうと思います。

……ということで?

『カラマーゾフの兄弟』をはじめられたとか。
1巻が登場人物の自己紹介のようになっておりますので、ここがけっこうキツイのですが、乗り越えると醍醐味の到来です。ただ心がえぐられる小説ですけど考えるヒントは豊穣につまっております。

ぜひ、お楽しみ下さいませ!

投稿: 宇治家 参去 | 2010年1月31日 (日) 14時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 思想家として三流覚悟ですが、、、親バカしていいですか???:

« 絶対に風邪と花粉症にかからぬ妙法、御存知の方はありませんか。 | トップページ | 人生に逆境はない。如何なる境遇に在りても、天に事へ人に仕へる機会は潤澤に恵まれている:吉野作造の生まれた日 »